永原慶二「下剋上の時代」 2

足利義政
足利義政

前回も書きましたように、この時期農業の生産性が向上し、バラバラに生活していた農民は集結し郷村=地縁的結びつきを重視するようになりました。
また貨幣経済が発展し、京や各拠点の商業が繁栄し、更に朝鮮や明との貿易が盛んになって港町が繁栄し、商人や寺社、幕府も利益を上げます。
文化面でも東山文化と総称される日本らしい、絵画や芸能が発達しました。

こう見てくると、この時代はいかにも平和で平穏な日々であったかに見えますが、実際には真反対の混乱の時代でした。

 

日本は、古来天災や疫病に悩まされ続けていますが、この時代も例外ではありません。
大きな飢饉が1420年、21年、1428年と続き、それから30年後の1459年には深刻な天候不順が続き、大飢饉が発生します。
1460年の記録では京の餓死者が約9万人、京の河原は死体で埋まったといいます。
全国ではどれほど沢山の餓死者をだしたのでしょうか。
最下層の民衆は生活できなくなり、本人あるいは身内を身売りしたり、農地を離れて、浮浪・乞食になり卑賎の民に落ちたりします。

民衆は各地で一揆をおこし、金融業を営む土倉や酒蔵、寺院を襲います。
交易の拠点に在住し慢性的に困窮していた馬借は、真っ先に一揆の先頭に立ち、これに農民が加わり土一揆は頻発します。
1400年代の主な土一揆として、正長の土一揆(1428年)、播磨の土一揆(1429)、嘉吉の徳政一揆(1441年)、享徳の土一揆(1454)、長禄の土一揆(1457)、山城の国一揆(1485~93)、加賀の一向一揆(1488)等があります。

京に詰める守護大名や荘園領主から荘園の管理を任されていた中小武士は、土地に根付き国人や地侍といわれましたが、当然農民からの突き上げを直接受ける苦しい立場にありました。
しかしこの下からの突き上げは彼らにとってチャンスでもありました。
下からの憤懣を自分たちでなく、荘園領主に向けていき、荘園領主からの権利の切り離しに向けます。彼らは時には一揆を取り締まるのではなく一揆を扇動し、最終的には自分たち自身が荘園を支配する当事者になろうとします。
これら国人は自身で力を持たなければいけません。近隣の豪族が語らって国人一揆を結び横の連結を強め、いざという時には連携して行動します。
国人一揆もまた政情不安を助長します。

 

中央の幕府はどのような状態であったか。室町幕府の政権基盤は虚弱でした。本書では次のように説明しています。

関東八か国に甲斐・伊豆をくわえた十か国が関東公方の管轄地域と定められ、
中央政府の直接の支配対象外とおされており、さらに義満時代には奥羽二国も関東府の管轄にいくわえられていた。
他方、九州は九州探題の管轄に属し、これも室町幕府の直接管理の外におかれた。
だから逆にいえば、幕府政治のしいくみでは、九州と甲斐・伊豆以東の国々とを除いた中央地帯だけが幕府の直接管理の国々なのである。(本書より)

そして、「このことが幕政をにぎる有力大名の目を中央地帯にばかりそそがせることとなった」といいます。

中央から遠く離れた九州や東北の守護大名は、もともと鎌倉時代に任命された外様であり、
中央の政権や社会情勢に左右されることが少なかったので独自の発展・闘争を繰り広げていましたが、
中央の幕府の重臣は、京への関心を強く持たざるを得ず、また大抵は自身京に住んでいましたので、
領国での統治は守護代や在地の豪族に依存せざるをえず、
彼らは幕府の混乱と領国の混乱をまともに受ける構造になっていました。

当初室町幕府は守護の強大化を警戒して守護の力をそぐ方針でいましたが、守護領域での地侍の強大化に対抗して守護の権力強化を許す方針が取られ、守護は守護大名として権力強化に努めます。

 

強い権力を持たない足利将軍は、時に言わば虚勢をはって強権的な行動をとります。
6代将軍義教は、関東公方の混乱にこれを鎮圧し滅亡させますし、
力を蓄え始めてきた守護大名を挑発しては討伐します。

義教の行動に危機感を持った赤松満祐は遂に1441年将軍義教を暗殺し(嘉吉の乱-かきつのらん)、
これ以降室町幕府の混乱は決定的に悪化していきます。

銀閣寺
義政に東山山荘・銀閣寺

幼くして将軍職を継いだ8第将軍義政は、政治に興味を持たず、長じても民の苦しみには知らんぷり。金を使い趣味三昧です。
大飢饉の最中、邸宅・花の御所の造営に熱を上げ、能楽・猿楽にうつつを抜かし、巨費を投じて東山山荘を建設します。
仏門に入っていた弟・義視(よしみ)を還俗(世俗に戻すこと)させて、早々に将軍の座を譲ろうとしますが、
幸か不幸かその直後、日野富子との間に義尚(よしひさ)が生まれ、日野富子は義尚を次期将軍にしようとします。
当然跡継ぎ問題は大問題になります。
義視には管領細川勝元がつき、義尚には嘉吉の乱で功績のあった山名宗全がついて、一触即発の事態になります。これに畠山、斯波両家の内紛が絡み、更に各地の武将が入り乱れて大騒乱に突入します(1466年)。応仁の乱です。

山名宗全が西軍、山名宗全が東軍を率い(但し、多くの各武将は節操もなく時に西軍、時に東軍につきます)、大勢は東軍有利でしたが、山口の大内が西軍についたことで、西軍が力を盛り返します。

京都で起こったこの騒乱はやがて地方にも、更には興福寺等大寺社にも飛び火します。
約10年に及んだ乱は決着がつかないまま、守護大名は京より自分の領国の混乱が心配になり、それぞれの国元に帰還し、京の戦乱は京の荒廃を残して一応の終結をみます。

山名宗全も細川勝元も相次いて逝去し、京の大乱は一応鎮火しますが、
混乱の火種は地方でくすぶり続け、やがて嘗てない大規模な騒乱の時代=戦国時代に突入します。

 

この時代は混乱した不毛の時代だったのか。
いやそうではない。
日本中を巻き込んだ下剋上は、従来の京を中心にした特権階級の文化や価値観を粉砕し、
それを民衆に、地方に拡散した。そして次の時代はそれらを吸収し新たな時代を形成した。
この時代はいわば革命の時代であったと見るべきだ、と著者は主張します。
私も「そうだろうな」と同感です。

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