河口慧海「チベット旅行記」

チベット問題を勉強する前に、
そもそもチベットとはどういうところなのか知りたいと思って、河口慧海「チベット旅行記」(初版、1904年発行)を読み始めました。

私は今回無料のKindle版をダウンロードして読んでいますが、まだ半分程度です。文庫本では5分冊になっていて、全部で1000ページ程度でしょうか。

 

河口慧海は、明治元年から2年遡る1866年生まれ、24歳で出家し、黄檗宗の住職にまでなりますが、仏教の経典に色々な解釈があるのに疑問を抱きます。

日本には中国経由の漢字の経典が沢山ありますが、宗派によって違いがあります。
そもそも原典はどうなのか。
原典を求めてチベットに旅立ちます。
日本では誰もやったことがありません。

仏教はインドが発祥ですが、インドにはもはや仏教の特に大乗仏教のオリジナルは残っていないで、ネパールやチベットに原典に近い翻訳経文があるといわれていました。
「それならチベットにいって、チベット語の経典を手にいれよう」。
という一途な想いから、チベット行を決心したのです。

ところが、当時のチベット行きはとてつもなく大変なことでした。
チベットは当時鎖国をしていましたので、そもそも正面から入ることができず、密入国しかありません。

1897年(明治30年)慧海31歳のとき、神戸を出航しシンガポール、カルカッタを経由して、インドの北部、チベットに近いダージリンに到達します。

ここで1年半を過ごし、チベット語を習得、チベットへの潜入経路の研究をします。

チベットの南には世界最高峰のヒマラヤ山系が連なり、これにしがみつくようにネパールとブータンがあります。

慧海が目指すのはダージリンから真北のチベット・ラサですが、直上の行程は危険です。ネパールを大きく西に迂回し、監視の網にかからないように細心の注意をしながら、道なき道を伝ってチベットの西部に侵入します。1900年7月のことです。

この地方は恐らく一年中厳寒の地で、氷や雪や凍った川にたびたび道を阻まれます。自然の厳しいところですから、道中沢山の人に会うことはありません。遊牧民のテントや村の民家に一夜の宿を借りながら旅を続けます。

もちろん自分が日本人だとは言えません。シナのラマ(僧侶)だと偽りますが、これは、ラサでの生活に更なる緊張を引き起こします。

旅の始め頃、荷物を羊の背中に積んでいましたが、羊が逃げ出し荷物を失います。このとき磁石をなくしましたので、それ以降の旅は手探り状態です。

 

当時のチベット人は「民度が低く」、文盲が多く、簡単な計算も長時間かかる始末です。

また、チベット人に衛生観念がなく、日本人の慧海は辟易しますが、シナ人と偽っていますので、平静に振舞わなければいけません。

食事をするにも料理するにも手を洗いません。
生まれて死ぬまで体を洗うことがないので、目と手のひら以外は垢で真っ黒けです。驚いたことに排泄してもお尻を拭きません。いってみれば動物と同じです。

僧侶さえも、豚以外は色々な肉を食べます。
地方によっては人糞を食べ、人肉を食べたようです。

盗賊の集団も多く横行しています。
旅の初期に強盗にあい、金目のものはすべて失いますが、それだけでなく、途中盗賊の一家と旅することになり、すきあらば殺されて食われると察知しますが、「それもまた仏教者の本懐」と腹をくくります。

そのうちの一人の娘が慧海に好意を持ち、言い寄ります。結婚すれば助かるのでしょうが、慧海には世俗的な欲望はまったくありません。「いよいよ殺されるか」と思ったときに、仲間内の喧嘩が始まり、仲間割れし、結果命拾いします。

ラサに向かう途中、聖地や寺院を訪れ感銘をうけます。がしかし、その一方で、何人もの高名といわれる僧侶と議論して、程度の低さに失望します。

 

ところで、今回私はKindleで読んでいますが、思いのほか時間がかかっています。Kindleを横置きにして、新聞のように縦書きの1行の文字数を少なくしています。文字数を少なくすれば早く読めると思ったのですが、逆だったかもしれません。一行の文字数が少ないとついつい全部読むのかもしれません。

すっ飛ばして読むときは、一行の文字数が多い方が、つまみ食いするには都合がいいかも知れません。本当はよく分かりませんが、今はKindleを縦にして読んでいます。

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