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佐藤進一「南北朝の動乱」

佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論、2011年)の初版は、1974年に中央公論社から[日本の歴史]の一冊として発行されたもので、エポックメイキングな書籍といわれ大変有名な本のようですが、私にはその重要性が分かりません。

なぜなら、私はこの時代の歴史書を読んだことがないので、比べようがないからです。

ただ、一読して何の違和感もなかったので、その意味で現在もなお真新しいということなのでしょうか。

この本では、尊氏が京都で、義貞が鎌倉で北条軍を壊滅し、これに呼応した後醍醐が伯耆船上山から帰京するところから始まり、その後南北に分かれた朝廷が、結局南朝が北朝に屈するという形で統一され、室町三代将軍義満が権力を確立するまでの70年間を、武家と公卿の綱引き、守護、地頭・御家人、寺社や庶民の変節等、かなり詳しく解説しています。

尊氏と直義(ただよし)は一つ違いで仲の良い兄弟で、二人は若いときから共に戦います。

尊氏には激しい感情の起伏があり、躁状態が多い躁鬱質だった、一方、直義は冷静沈着な性格だったといわれています。

尊氏に沢山の贈答品が届いた時、尊氏は全部みんなに分け与え、夕方には何もなくなっていた。直義はそもそも贈答品を受け取らなかったという話が残っています。

後醍醐が吉野に去り、尊氏が京に居を構えると、尊氏は軍事面以外の政治はすべて直義に任せ、世に両将軍といわれました。これは尊氏がいかに直義を信頼していたかを示すものですが、悲しいかな、やがてこの2頭政治の本質的矛盾が噴出します。

厳格な直義とある意味適当な執事・高師直との関係が悪化、一時師直が直義を武力攻撃し、尊氏の仲裁で直義は出家しますが、後、直義が反撃、師直を殺害します。

反直義派は尊氏につき、これで尊氏と直義の関係が悪化し、尊氏と直義と南朝の三つどもえの抗争が続きます。

やがて1339年後醍醐が死にその後を後村上が、1352年には直義が死にその後を養子・直冬が、1358年に尊氏が死ぬとその後は嫡男の義詮が、戦闘を続けます。

戦いの中心部分はそれなりの理由があって戦っているのですが、これに加勢する武士は、割り切ったものだっとといいます。

加勢武士が寝返ることは何の不思議もなく、寝返るにあたって、所領の半分を差し出せば味方にしてもらえるという慣例があったので、寝返りは日常茶飯事のことでした。

それに家の存続を考えて、一家が敵味方に分かれることも多々あったようです。

すなわち、負けた方は領地を召し上げられますが、その領地は勝った方に与えられますので、家としては損得ゼロになり、それを考えて親兄弟が敵味方に分かれた例もあるようです。

そんなわけで、南北の戦闘の中心は変わりませんが、末端の武将はあっちについたり、こっちについたりで、戦闘の帰趨もどうなるかわからない状況です。

南北の和平交渉は何度もあったようですが、どうしてもまとまらず、この間も、南朝は4度のわたって京を攻め落とします。

が、南朝の衰弱は止めることが出来ず、1392年南朝後亀山は、義満の講和条件を呑み遂に南北朝は和睦します。

義満の提示した和睦案は、南朝が保持していた神器を北朝に引き渡すこと、今後天皇は南北から交代で立てるというものでしたが、実際には、その後北朝・武家の好き勝手にするというのが実態でした。

長い騒乱で、結局公家の領地はどんどん武家に取られていきます。天皇家といえども、京都の近辺に所領を持つだけの状態になります。

足利三代将軍義満の母が、皇室の出ということで(実証できないようです)、義満は、朝廷で前例のない出世をし、公武の最高権威を獲得します。

但し、さすがに天皇にとって代わる(簒奪する)ことはできず、その分大陸の明に属国として朝貢し、国王の称号を得ます。

当時から明の属国になることに強い反対があったようですが、義満は、貿易や貨幣の流入等実質的な利益を選択します。

また、「義満によって、天皇は歴史的に完全に骨抜きにされた」と理解できます。