般若経(はんにゃきょう)

紀元前1~2世頃、口伝だった経典が、文字化され始めます。

紀元前後から大乗仏教教派で般若経の編纂が始まり、長い年月をかけて大きな経典ができたようです。

昔祖母が毎朝唱えていた般若心経は、般若経のダイジェスト版で、実は7世紀に、例の西遊記・三蔵法師のモデル=玄奘三蔵がインドから持ち帰り、わずか262文字に漢訳したもので、名訳といわれ日本でも広く使われています。

最初に、般若心経の現代語訳をWikipediaから転記します(少し、手をいれています)。(ここをクリックするとYoutubeで念仏を聞くことができます。)

観音菩薩が、深遠なる智慧の完成のために瞑想していた時、五蘊(ごうん。私を構成するすべての要素、肉体も精神も感覚も)は消滅変化するもので、永遠不滅ではないと悟ったことで、あらゆる苦しみと厄災から逃れることができたのです。
舎利子(釈迦の高弟の名前)よ、色(肉体)は空虚であることと異ならない。空虚であることは色と異ならない。
色は空っぽである。空っぽであるのは色である。
受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)もまた同様である。
舎利子よ、すべての現象は「空虚」を特徴とするものであるから、生じることなく、滅することなく、汚れることなく、汚れがなくなることなく 増えることなく、減ることもない。
ゆえに「空虚」〔ということ〕の中には、
色は無く、受、想、行、識も無い。
眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、
色、声、香、味、触、法も無い。
眼で見られた世界も無く、意識で想われた世界も無い。
無明(迷い)も無く、無明の滅尽も無い。
“老いと死”も無く、”老いと死”の滅尽も無い。
「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い。
「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い。
「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い。
「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い。
知ることも無く、得ることも無い。
もともと得られるべきものは何も無いからである。
菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」(深淵なる悟りの智慧)に依拠しているがゆえに、心にこだわりが無い。
こだわりが無いゆえに、恐れも無く、転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。
過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。
それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは
偉大なる呪文であり、偉大なる明智の呪文であり、超えるものなき呪文であり、並ぶものなき呪文であり、すべての苦しみを除く。
〔なぜなら〕真実であり、偽りなきものだからである。
「智慧の波羅蜜」という呪文を説こう。
“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、
菩提よ、ささげ物を受け取り給え)

私は、字面はわかりますが、心底般若心経の神髄が分かったとはいえません。
(「空」を「空虚」と訳していますが、不十分なのではないでしょうか。)

以下、前々回紹介した佐々木閑「大乗仏教」に沿って、般若心経を解説します(当然私が理解した限りです)。

般若経では、「すべてが無い。意志や自分もない。感覚さえない。全ては変わるというが、それさえ無い」といいます。

しかし、そこまで否定すれば、どうなるのか。
般若経では、「この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている」と考えました。
この人智を超えた神秘の力、超越的な法則こそが般若経でいうだということです。(これが宗教ということでしょうか。信じるか信じないかは人それぞれということですか。)

ただ何のためにここまで否定したか、著者は次のように説明しています。
釈迦が唱えた業の因果即を基本にする限り、人は生前の業により永遠に輪廻転生を繰り返すしかない。そこから逃れるには、特別な修行者になり悟りを開かなければいけない。

輪廻を生み出すこのを否定しなければ、凡夫を救う方法がないのです。
般若経はこの業を否定し、布施、加持、忍辱(にんにく)、精進、禅譲、智慧を、智慧の波羅蜜・六波羅蜜と呼び、これを大切な修行としたのです。

これなら、凡夫にも実行できます。

更に、般若経は「お経そのもがブッダだ」として、般若経を讃えること、唱えること、書くこと(写経)が修行の一部だと考えます。

怪談「耳なし芳一」の物語で、琵琶法師の体に書いたのが、般若心経だったが、書き洩らした耳は、お経の力が及ばなくて、悪霊に削がれたのです。

般若経の最後の部分、“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”は、呪文なのです。

釈迦の仏教が、煩悩から逃れるため、非生産的生活の中で瞑想し修行する修行者のための教であったのに対して、大乗仏教は、呪文(般若心経)を讃え、唱え、書き写し、広く伝える。そして、日常の善行をするこそが修行なのだとして、凡夫の救済の教えに変わったのです。

これが大乗仏教の神髄なのでしょう。

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