リコルドと嘉兵衛 2

事件の数年前、6人の日本人が遭難し、ロシアで生活していました。
リコルドは、最初これらの日本人とグロウニンの交換を考えました。
戦争に明け暮れるヨーロッパでは、捕虜の交換はよくあることです。

この中に良左衛門というロシア語が多少分かる人間がいて、彼を通して国後の役人と交渉しようとしましたが、結局、リコルドは狡猾な良左衛門に翻弄され、「ゴロウニン以下全員殺された」という情報を得ただけで、良左衛門に逃げられてしまいます。

リコルドはおめおめとカムチャッカに帰るわけにもいかず、
国後沖で日本船が現れるのを待っているところに、嘉兵衛の船団がやってきたのです。

嘉兵衛はすでに日本、特に函館では有名人で、役人からも庶民からも絶大な信頼を得ていました。

リコルドは日本の事情は知る由もありませんが、一目みて並々ならぬ人物だと見抜きます。

リコルドは詳しくゴロウニンの話を聞くために、嘉兵衛をカムチャッカに連行します。しかも嘉兵衛の他に4人の日本人も。

嘉兵衛は、
「自分はロシアに行く覚悟を決めた」。
「連行されるのではないく、自分の意思でカムチャッカにいくのだ」。
「しかし、他のものは自分の意思でいくのではないので、連れて行くことはできない」
と抵抗しますが、
結局リコルドに抗しきれなくて4名を選ぶことになります。
嘉兵衛は人選に苦慮しますが、多くの水主(水夫)が涙を溜めて、
「自分を連れて行ってくれ」と嘉兵衛に迫る様をみて、リコルドは動揺します。

結局、4人の水主と一人のクリル人を連れてカムチャッカに向かいます。

カムチャッカへの航海途中、またカムチャッカで、リコルドと嘉兵衛は一緒に暮らし、言葉が不自由にもかかわらず様々な議論をします。

1年足らずでしたが、日本人にとって北の生活は辛く、2人の水主とクリル人が死にます。嘉兵衛自身も体調を崩しますので、リコルドは何とか事態を打開すべくまた蝦夷に向かいます。

 

丁度そのころ日本では、 事件の幕引きをする方針を決めていましたので、ディアナ号が蝦夷の沿岸に近づいても日本の砲撃はありません。

国後に到着後、ただちに二人の水主を上陸させ、役人と接触させます。このときリコルドは、「もし誠意ある返答がなければ、『嘉兵衛をロシアに連れ帰り、軍艦を整えて日本を攻撃する』と役人に伝えてくれ」といいます。

しかし、嘉兵衛は「そのようなことをいうものではない」と色をなします。彼にしてみれば、ロシア側の高圧的は態度は許せなかったのです。

結局、嘉兵衛は「事件の経過と、ロシアが厚遇してくれたこと、嘉兵衛は無事である」ことを伝えさせます。

水主を送り出した後、嘉兵衛は自分の考えを滔々と述べます。
「脅しは何の役にもたたない」。
「武力を行使すれば、日本は戦に負けるかもしれないが、ロシア側も多大の死傷者がでる」。
「自分を連行するといったが、もしそうなったら艦長および副館長を殺害し、腹かき切って死ぬつもりでいた」
その証拠に「水主には、私の後ろ髪を切ってもたせた」といいます。

それを聞いて、リコルドはとても驚き、嘉兵衛に全幅の信頼を置く覚悟を決まます。

翌日、今度は嘉兵衛が単身上陸することになり、リコルドは危険を覚悟で浜まで送っていきます。リコルドは、腹を決め、自分の持っている最後の札を切ったのです。

 

松前奉行所から「正式の釈明書等の提出」を求められ、ディアナ号は急ぎオホーツクに帰還。時を移さず、弁明書を携えて函館に現れます。

嘉兵衛は「自分は奉行の次の位の官位をうけ、正式に交渉の仲介役になった」と告げ、
弁明書を預かるといいます。リコルドは、それが日本の流儀と認め、弁明書を手渡します。

更にリコルドは、「イクルーツクの長官から重要な公式文書を携えているが、これは自分で日本の役人に手渡す」といいます。

嘉兵衛はそれも自分が取り次ぐといいますが、
「これはロシアの正式な親書であり、代理のものに手渡すことは、ロシアの威信にかかわる」として断ります。

嘉兵衛は納得し、「そんな大切な文書の伝達を任せてくれ、と僭越な要求をしたことを忘れてください」と謝罪します。

 

リコルドの手記を読んで、これは「人間ドラマ」だと思いました。200年前の話とは思えません。現代に通じる人間ドラマだし、世界中のしかも時間を越えた、人々に共通する世界観・道徳観が存在すると思います。

それに比べたら、韓国・中国とはどうしてこうも分かり合えないのでしょうか。

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