月別アーカイブ: 2012年02月

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漱石を読む 2

「こころ」、「三四郎」に続いて「それから」と「門」を読みました。

「三四郎」、「それから」、「門」はまったく別の小説で、登場人物も別人ですが、三部作といわれ一続きのテーマを追っています。
男と女の関係で、いずれも男の視点からの描写です。

「三四郎」ではまったく受け身の大学生が、一人の女に好意を持つのですが何も行動せず、結局その女は知らない男と結婚します。

 

「それから」では、大学を卒業して30歳になっても仕事をしないでぶらぶらしている男・代助の話です。彼は自分の父と兄が日露戦争後の社会の変化に乗じて、「あくどい商売で財をなしている」と半分軽蔑しながらも、その実100%親の支援のもとに生活しています。

父親は「いい加減仕事を見つけ独立しろ」、「早く嫁を貰え」とそれ相応の娘とお見合いをさせますが、相変わらずのらりくらしとした返事をしています。

あるとき大阪の銀行に勤めていた古い友人平岡が、上司の尻ぬぐいをさせられ職を失って東京に戻ってきます。借金を抱えその日の生活にも困窮した末に、妻三千代が代助の許に金を借りにやってきます。

実は三千代は今は亡き友人の妹で、自分自身好意を持っていながら平岡に譲ったいきさつがあります。まもなく平岡は新聞記者の職をえますが、相変わらず貧乏でその上夫婦仲がよくないことを知ります。そして遂に代助は平岡に「三千代を譲ってくれ」と申し出ます。

平岡は承知しますが、絶交を宣言し、顛末を手紙にして代助の父親に送ります。代助は父の怒りを買い勘当されます。

この時になって、代助は軽蔑していた父や平岡の世界で生きていかなければいけないことを思い知り、職探しに家を飛び出します。

 

「門」は東京でひっそりと役人生活している、宗助とその妻御米の話です。

実は彼らには過去があります。宗助が京大の学生であったとき、病弱な安井という友人がいました。
ほどなく安井は結婚します。ところが宗助は友人の妻に惹かれ結局駆け落ちします。(このあたりの描写がすくなく詳細はよくわかりません)

友人から奪った妻が御米です。

過去への引け目から彼らはひっそりと隠れるように生活しています。

唯一借家の崖上に住む大家と懇意になり、時々往来するようになります。
家主には満州でいろいろな事業をしている山っ気の多い弟がいることを知ります。
その弟が近々くるので会ってみないかという誘いです。
そのとき弟の相棒の京大出の安井という人間も一緒だと聞かされます。

宗助は激しく動揺します。
そのことを御米にも話さず、休暇を取ってひとりで鎌倉の禅寺にこもり、
こころの整理をしようとしますが、何の解決策も得ないまま東京に舞い戻ります。

家主に家主の弟の動向を探りますと、「連れと一緒に満州に帰りました」とのこと。
少しの進展もなく、宗助はまたいつもの生活に戻ります。

 

今回読んだ4冊の中で、「門」が一番面白かったです。前回も書きましたが、「三四郎」はまったくかったるいし、「それから」も細々した日常の「写生」が多くうんざりしました。

「門」は漱石自身作家としてこなれてきたのだと思いますが、宗助夫婦の身を寄せ合う日常もよくわかりますし、読者を引き込む筋立て、話の展開を用意していると思います(一素人の評です)。

最終盤古い友人安田が現れ、「どうなるのだろう」と読み進めましたが、宗助が禅寺に逃げるというのがこの小説の欠点と言われているようです。たしかに唐突といえば唐突ですが、「そうでなければどのような結末があるのだろうか」と私には想像もできなく、何の解決もなく不安の中で生活を続けていく人間の悲しさは、それはそれで納得できる終焉だと思います。

漱石を読む

漱石の「こころ」と「三四郎」を読みました。

30歳後半に書いた「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」、「虞美人草」が小説家としては最初期の作品で、明治41年41歳で書いた「三四郎」、それに続く「それから」、「門」で本格的な小説家になっていきます。
30歳後半から50歳で死去するまで僅か10数年の作家生活だったということを今回初めて知りました(Wikipedia)。

「こころ」は漱石47歳の作品です。

ですから、年代的には「三四郎」「こころ」と続くのですが、私は何の考えもなく、先に「こころ」を後から「三四郎」を読みました。

感想です。

「両方ともまったく面白くない」
私にはこれらの小説のよさがまったくわかりません。
「日本文学」としてどれほどの価値があろうと、今に生きる一読者からすれば駄作とでもいいたいほどです。

特に「三四郎」は、筋らしい筋はなく、田舎(熊本)から上京して東大に入学した三四郎の日常、
友人や知人との細々した出来事の記述、知人の一人美禰子との恋心の移ろいの描写に終始します。
読み進めるのには苦痛が伴いました。

巻末の解説によれば、当時漱石は俳句の世界を意識していたということです。
漱石は正岡子規と親交があり、確かに子規の影響があったのかもしれません。

ただ面白かったのは、今話題になっている東大の入学が当時は9月だったということ、今の文学部とか理学部のように学部制ではなく、別の大学だったらしいということ、小説の後半に三四郎が罹った病気がインフルエンザだということ等です。

「三四郎」は若い頃読んだ記憶がありますが、細かいことは覚えていませんでした。
こういう内容なら当然といえば当然かと思います。

一方「こころ」は作家生活の晩年の作になります。

大学に入学した「私」が、鎌倉の海でとても気になる「先生」に出会います。
私は積極的に先生に近づき懇意になり、東京の自宅にたびたび訪ねます。

先生は職を持たず、親の遺産でいわば隠遁生活をしています。
私は先生がなぜそのような生活をしているか詰問しますが、「いずれ」というだけで話たがりません。

「私」の父は長年腎臓を患っていて、重篤という知らせに帰省します。
父の様態は悪化しとうとう死んでしまいます。

葬式の日先生から分厚い手紙が届きます。あわただしいなか、気になるので手紙の最後を読むと、「この手紙がついたころ私は死んでいます」のような文面が目に入り、父の葬儀をほったらかして汽車に飛び乗り、先生の長い手紙を読みます。

手紙には先生がなぜそのような生活をしているのか、なぜ死ぬのかが書いてあります。
そして小説は終わります。

私の感想は、まず「かったるい」です。
そして技巧が一般読書には違和感があるということです。

「私」はたびたび先生の家を訪ねますが、隠遁生活をしている人とどのように付き合っているのだろうと不思議に思いますし、父親の葬儀を放っておいて、後は先生の手紙で終わりというのはどうかと思います。

考えてみれば私は、日本の文学(といわれる小説)をあまり読んでいません。
どれもかったるいからです。

逆にたとえばサルトルの戯曲はいいたいことがはっきりしていて、考えさせられます。
日本文学のテーマもそれなりに考えさせられるテーマを持っているのでしょうが、私は「どうでもいいや」と思うことが多いのです。

これは趣味や人生観の問題かもしれません。

ついでですので、漱石が本格的に小説家になった「それから」と「門」を読んでみたいと思います。

それからのそれから

1週間ばかり、妻の実家に行っていました。

義父は10年ばかり前に他界し、その時以来妻の実家には行っていませんでした。義母は昨年生死にかかわる大病をしたせいで、想像以上に弱っていてとても驚きました。
義父が開いた医院を長男が引き継いでいるのですが、妻が医院の会計や入院患者の給食の準備等細々した雑用をしていますので、「義母が動けなくなったいま、いよいよ我が家には帰れなくなったな」と思っています。

さて、私の昨年の肺がん騒動の顛末です。

がんセンターでは「癌ではなさそうだ」という確率的結論を得ました(私は「癌ではない」とほぼ確信しています)。

がんセンターの担当医師が、これからの経過観察をがんセンターでやるか、もとの病院でやるか聞きましたので、わたしは「本当に苦しんでいるたくさんのがん患者さんの邪魔をしたくないので、もとの病院にもどります」とつたえました。医師はもとの病院(いまK病院といいます)の担当医師に(T医師といいます)に、診断結果を封書にしたためてくれました。

K病院は総合病院で数年前に新築しました。
設備も新しく気持ちのいい病院なのですが、おそらく経営上の問題だと思いますが、医師の数が少なく、一週間に一日だけの診察という科目もあります(現在はだいぶ診察日が増えましたが)。呼吸器内科はT医師が週に一日来るだけです。

このT医師はとても丁寧な診察で、患者としてはありがたいのですが、ある意味少し度を超していて、そのぶん待ち時間がとても長いのです。予約していても1時間オーバーは当たり前です。

そんな訳でこれを機に病院を変えようと思いました。近辺に他に2つの総合病院があります。一つは私立病院でもう一つはG大学付属病院です。

私立病院は建物が古くとても混んでいるので、大学病院に行くことにしました。大学病院に電話し、事情を説明して当病院で診てもらえるか聞きました。回答は「患者の意向を尊重するので、当病院で診てもいいです」とのことです。

がんセンターの診断書、K病院の検査データをもって大学病院にいき、再度事情を説明して、「こちらで診ていただけますか」と確認したところ、「構いません」とのこと。

私がもっていったがんセンターの診断書を開封し、受付処理をしてくれました。

私が呼吸器内科の待合でしばらく待っていると、呼び出しがあります。何かと思えば、この場におよんで「K病院への回答なので、こちらで診ることはできません」という話です。

「なら、どうして封書を開封するのだ」と腹立たしくいいますと、内科の受付は謝罪もなく「これは大丈夫です」といって、封書の切り口をテープで張り合わせるだけです。

私はG大学病院のこの一連の対応に大変腹をたてています。

担当医師に聞かなければ判断できないのであれば、ことを担当医師に確かめてから私に回答すべきだし、まして封書を開封しておいて、「大丈夫です」ですます問題ではないだろう。

このような判断のまずさ、対応のまずさは今の世にたくさんあるように思います。「キチッとしたものの考えかたができない人がたくさんいるのだ」と寒々しい心持になりました。

 

ところで、前回の表題を「それから」にしました。夏目漱石の「それから」はどんなものだったかなと、インターネットで粗筋を探しました。多分私は読んだことがないと思います。

「夏目漱石を読むのもいいか」と通りすがりの本やで、「こころ」を買って読んでみました。「三四郎」、「それから」、「門」もこの際読んでみようと思います。

それから

確か夏目漱石に「それから」という小説がありました。内容は忘れました。

このブログの終了を宣言して半年以上経ちますが、いまだに毎日たくさんの方がこのブログを覗いてくださっています。

だからといって私に何の責任もないのですが、なんだかまた続けなければいけない気持ちになって、書くことがあれば続けてみようかと思います(気ままに)。

さて私の毎日は大して変化がありません。もうほとんど出来上がっているソフトを何度も何度もテストし、「もう少しよくならないか」と書き直しています。「多分これは私の最後の仕事になるのだろうな」と予感しながら。

 

話は違いますが、以前書きましたが、私は肺に陰を持っていて、それと関係があるのかないのか、昨年2月に血液検査でPro-GRPなるマーカーの値が正常値の3倍近くありました。

これは肺の小細胞癌のマーカーだそうです。ただし小細胞癌は数週間で大きくなるらしいのですが、私は数か月それらしい変化がありません。

CTを3度撮り、血液と痰の検査を何度も繰り返すのですが、マーカーが高いことの他は癌の兆候がありません。

この間ずっと近くの総合病院(今K病院といいます)にかかっていたのですが、専門医も「よくわからない」と、「がんセンターに行ってくれ」とのこと。

昨年の暮れ近くにあるがんセンターに行きました。我が家から車で10分程度のところで、羽田からの高速バスが止まるので、九州から帰ってくる妻を何度か迎えに行ったところです。これまでは中に用があった訳ではないので、外観はよく知っていたのですが、中に入ったことはありませんでした。

国立(今は独立行政法人だと思います)で、広い病院の中には、そこら中沢山の患者が不安げな顔で(私にはそのように見えました)、順番を待っています。世の中にはこんなに沢山の癌患者がいるのだと実感しました。

今はどの病院も同じですがとても丁寧な対応です。(当然といえば当然ですが、癌に関する設備はやはり充実しています)

K病院からの紹介状とCT画像のCDをもって、初診を受け、結局PETを受けることになりました。

ブドウ糖は腫瘍に集まる性質があるそうで、ブドウ糖の注射の後、全身と特に肺の放射線写真を撮りました。

ここでも癌の兆候を確認できなかったため、胃カメラの撮影に臨みました。

さすががんセンターというべきか、丁寧に何度も何度も内視鏡を胃に深く挿入したり、のど元まで抜き出したり、胃カメラはこれまで何回か経験していますが、今回ばかりは少し大変でした。

しかしここでも兆候がありません。

それではといよいよ肺(気管支)にカメラを入れることになりました。これは私は初めての経験で、「内視鏡を肺に入れると、いったい息ができるものか」ととても緊張しました。

気体状の麻酔薬をたっぷり吸いこみ、肺の内視鏡検査を受けました。

胃カメラと違って仰向けに寝て、胃カメラよりも細いケーブルを肺の中に挿入します。呼吸はまったく阻害されないのですが、何せ緊張のせいで息苦しい状態でした。

大きく息を吸うと呼吸も楽になりましたが、組織を摘出したら多量の出血があったらしく、その処置に時間がかかり、そのため痰がからんできて、後半は少し苦しくなりました。

ケーブルを取り出し終了しましたが、やはり痰とともに血液がでてきました。

これも止血剤と抗生物質の服用で3日程度で止まり、「想像したよりもきつくはなかったかな」という感想です。

結局「肺がんではないようですね」という結論をもらいました。少し辛い目にあいましたが、「まあ不安を抱えているより、良しとするか」と考えています。

ただし、PRO-GRPはなぜ高いのかわかっていません。医者は「こういうこともある」というのですが…

「それにしてもたくさんの放射線を浴びてしまった」「もうしばらくX線はごめんこうむりたいものだ」と思っています。