ゴロウニン「日本俘虜実記」2

日本は異国、特にロシアに対してピリピリしていたとき、ゴロウニンは日本近海の測量のために(ゴロウニンはそう主張しています)カムチャツカを出航したのです。

ゴロウニンは択捉島の北端に掘っ建て小屋を見つけ上陸します。ここにも警備隊が配置されていました。ゴロウニンは隊長に「水の補給をしたい」と伝えます。

国境警備隊の隊長は、「国後に行けば十分補給できる」と伝えます。それは日本側の謀略で、国後に上陸したゴロウニン以下8名は、逮捕されます(1811年7月)。

ゴロウニンは日本の奸計にはめられたと何度も言っていますが、日本は少なくとも2度厳しく警告したのであり、その後も日本はロシアから襲撃も受けているのですから、日本の態度は至極当然。彼らが「日本を甘く見た」、あるいは「軽率すぎる」と思います。

彼らは、国後から函館に移送され、長い幽閉生活が始まります。

監視はとても厳しくて、自由がまったくない囚われの身ですが、松前奉行はじめ役人は、誰も礼儀正しく、時には優しく接してくれます。

取り調べのための移動の途中、函館や松前の庶民も決して、侮辱したり嘲笑するものはなく、中には差し入れをしてくれたり、涙ぐむ人もいました。

日本がどうしても確認したかったことは、フヴォストフの襲撃が皇帝の命を受けたものだったのか、すなわちロシア国として日本を攻撃したのかということと、ゴロウニンの日本接近が、日本を攻撃するための調査ではないのかという点でした。

ゴロウニンは日本襲撃はフヴォストフの単独行動であり、自艦は給水したかっただけだといい通します。

しかし、奉行は何度も何度も、同じことをしかも細かく尋問し、矛盾はないか、いうことが変わらないか、確認します。そして内容を日本語に訳して、調書を江戸に送ります。

やがて、奉行は「害なし」として上申してくれ、「きっといい方に向かう」と慰めてくれますが、いつまでたってもいい返事はとどきません。

彼らは「いずれは処刑される」、「そうでなければは永久に囚われの身になると」いう妄想から逃れることができません。

部下の一人は日本人に媚びるようになり、その異常さがどんどん増していきます。

強迫観念は極限に達し、脱走を決行します。6日に亘る苦難の逃避行の末、結局再度逮捕され、監獄に入れられますが、それによって特に罰せられることもなく、以前同様、同情をもって接してくれます。

 

その間、ディアナ号に残った副艦長リコルドは、粘り強く日本への接触を図りますが、
蝦夷の沿岸に近づけば砲撃を受け、日本に近寄ることができません。

淡路島の貧しい家に生まれた高田屋嘉兵衛は、やがて財をなし函館を拠点に、千島の廻船を経営していましたが(Wikipediaより)、なんとか日本人から、ゴロウニンの消息を得ようと国後沖で待ち構えるリコルドに捕まり、カムチャッカに連行されます。

 

一方、松前奉行・荒尾但馬守は江戸に赴き幕閣を説得、「フヴォストフの襲撃が皇帝の命ではなかった」とする正式の弁明書の提出と引き換えに、ゴロウニン達を釈放するとする幕府の方針を引き出します。

新たに着任した松前奉行・服部備後守は、国の正式決定をゴロウニンに伝えると同時に、国境警備の各所にロシア船を攻撃しないようにとのお達しを出し、ロシア船が現れた時のため、ゴロウニン以下が署名した手紙を作成し、各所に配りロシア船が現れるの待ちます。
手紙は短いもので、「我々士官、水兵、クリル人アレクセイら全員存命で松前にいる 1813年5月10日」というものです。

釈放決定後、ゴロウニン達は囚われの身ではなく、客人になります。

 

カムチャッカに連行された嘉兵衛は、通訳もいないまま不自由な言葉で、リカルドとたくさんの議論をし、信頼関係を築きます。嘉兵衛はリコルドに「ゴロウニン達は生きていて、函館で丁重に扱われている」とも告げます。リコルドは嘉兵衛を信じ、嘉兵衛とともに三度国後島にやってきます。そして嘉兵衛の仲介で話は進んでいきます。

既に北の海は危険な季節に入っていましたが、ディアナ号は日本の要求を受け一度オホーツクに戻り、イルクーツク民政長官の回答を携えてやってきます。

ディアナ号は函館に回航され、釈放の交渉が始まります。日本での交渉にロシア側は最後まで警戒を解きませんが、リコルドと嘉兵衛の信頼関係が、すべてをいい方向にもっていきます。幾つかの手続き(儀式)ののち、ゴロウニンは正式に釈放されます。

当時グロウニンは函館で拘束されていたので、このあたりの話を知る由もありません。
司馬遼太郎およびリコルドの手記から補足しています。ゴロウニンは「日本俘虜実記」の中で、高田家嘉兵衛という老人にあったと簡単に書いています。

釈放交渉の途中、ゴロウニン達は、「ナポレオンがモスクワを陥落した」という報に接し、衝撃を受けます。

これまで押収されていた彼らの持ち物すべてが、整理され名札をつけ箱詰めにされて船に運び込まれます。

たくさんの日本人、役人や通訳や高田屋嘉兵衛に港外まで見送られて、晴れて自由の身になり、日本を後にします。1813年10月10日のことでした。

2年3ヶ月の辛い経験でした。

 

司馬遼太郎が小説「菜の花の沖」のなかで高田屋嘉兵衛を書いています。さっそく買い込みましたが、6冊もあります。

読み出したら、しばし仕事も手につかないし、どうしよう。

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