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ウェストファリア体制 3

本書はウェストファリア体制およびグロティウスについて色々語っていますが、グロティウスの理論・思想がこの条約あるいは体制に具体的にどのように影響したのか、あるいは採用されたのかさっぱり分かりません。
ただ、以下のようなグロティウスの主張は合意されたのだと理解します。

 

グロティウスは戦争の「善悪」を議論したのではなく、戦争のルールを議論しているのだと、著者が何度も強調しています。

グロティウスの「戦争と平和の法」は大著で日本語訳版は入手し難い一方、英語版は比較的安価ですが、わざわざ買って読む気力がないので、この本については孫引きのような議論しかできません。

グロティウスの考えでは、戦争に善悪を持ち出すから、悪魔=異端は殲滅するしかないことになり、殺戮が度を超すことになる。戦争は善悪を決するところではなく、「主権国家による決闘である」と考えよう、そうすればある時点で戦争は終了できるし、悲惨な戦争を避けることができる。
というのがグロティウスの主張の核心部分のようです。

ここで「主権国家」が重要で、主権国家の体をなさない国にはこのルールは適応できない。主権国家でなければ、主権国家の「餌」になるしかない、植民地化されて当然だとさえ、筆者はいいます。

ウェストファリア条約は、ヨーロッパの白人社会だけで適応された条約だが、1907年日本が日露戦争に勝ち、日仏、日ロ、英ロ協商が締結され、日本が国際社会で主権国家として認められたことが、逆に言えばウェストファリア条約を世界基準・国際基準にしたと、著者は主張します。

但し、ウェストファリア条約が締結されたからと言って、世界から戦争がなくなったわけではなく、決闘としての戦争ばかりではなかったのです。

更に、米ウィルソン大統領は1918年14箇条宣言で絶対的正義を持ち出し、ウェストファリア条約の精神をぶち壊したと非難します。

 

筆者は一体何が言いたいのか私には分かりません。

ウェストファリア条約は一時期一定の効果を持ってのでしょう。しかし、だから筆者は世の中をウェストファリア体制にしろと言っているのでしょうか。それが現実的なのでしょうか。理論や思想は現実に向き合うものだと思います。できもしないことを理想とするのは全くの空論です。
また、ウェストファリア条約は万全ではなく、その後も戦争は続いているし、「主権国家」として体をないしていない国もあるのでしょう。植民地に甘んじろといっているのでしょうか。

この機会に「国際法」あるいは国際政治を勉強したいと思います。

 

追。
今回大急ぎて世界史を勉強しました。高校では世界史を選択したのですが、完全に忘れています。
手っ取り早い勉強の方法がありました。YouTubeのトライの世界史講座は1講座15分程度、約300講座あって、これをメモを取りながら、再生スピードを1.5倍にして聞くととても効率的です。

ウェストファリア体制 2

前回ご紹介した倉山満著「ウェストファリア体制」 について最初にお断りしますが、私はこの本の語り口は大嫌いです。

「本」は冷静に議論しなければいけないのに、この本は端から端まで煽り運転です。

例えば、「はしがき」で「日本人の全人類に対する罪」と題して、
「甚だしい勘違いが蔓延しています。『古い時代よりも新しい時代の方が文明的である』との思い込みです」という。
それについて、著者なりの理屈をつけていて、その理由付けそのものには反対しないが、物事は他の視点からの考察も必要なのであって、それだけでの断定は全く説得力がないのです。

このような断定が至るところにあって、更に悪いことには、著者はいったい何が言いたいのか、よくわかりません。とにかく騒々しく叫び続けます。

最初にウェストファリア条約が締結された時代背景・いきさつを書かなければいけませんが、本書では何が何だかわからないので、WEBをあちこち調べてまとめてみました。

 

ドイツの北に位置するネーデルランドは当時スペイン・ハプスブルク家の領地でしたが、キリスト教新教を信じる北部が1588年事実上独立し、1648年ウェストファリア条約が締結された時、正式に独立が認められます(当地の首都ホランドから日本ではネーデルランドのことをオランダといっています)。

日本で秀吉が信長の後継者の地位を切り取ろうとしていた頃、後に「国際法の父」といわれるフーゴー・グロティウスはオランダの名門の家に生まれます(1583年)。
グロティウスは幼少から神童といわれ、8歳でラテン語の詩を作り、11歳で名門大学に入学、14歳で卒業、15歳でオランダ使節団の一員としてフランス宮廷に赴いたとき仏国王アンリ四世は彼を「オランダの奇跡」と讃えたといいます。16歳で弁護士事務所を開設、総統クラスの弁護をするなど、10代で既にオランダを代表する知識人だったといいます。

しかし、順風満帆だった人生の歯車が35歳のとき突然狂いだします。宗教論争に巻き込まれ、終身刑を言い渡されて投獄されます。が、37歳の時大きな本箱に隠れて脱獄(最近似たような話がありました。こちらは楽器ケースでした)、フランスに亡命します。

フランスでの不遇の亡命生活の中で、1631年「戦争と平和の法」を出版、ローマ教皇庁からは禁書指定を受けますが、本書は市井では根強い支持を得ていきます。

フランスで亡命生活をしていたグロティウスは30年戦争に介入したスウェーデンから要請を受け、1634年駐仏スウェーデン大使に就任しています。

 

16世紀カトリック教会の腐敗を批判して新教が興り、信仰の対立が原因で各地に戦争が勃発します。

神聖ローマ帝国内で新教が勢力をのばすと、国内の諸侯は敵味方に分かれて内戦がおこります(1618~1623)。これに続いて新教のデンマークが介入(1625~1629)、続いて同じくスウェーデンが介入(1630~1635)、最後にカトリック教の国フランスが介入(1635~1648)し泥沼の殺戮を展開します。

この戦争はとても悲惨で、ドイツ中央部の人口1700万人が700万人にまでなったといいます。
悲惨だった理由は、ルールなき殲滅戦だったからです。異端は人間とはみなさないので、殺すのに何のためらいもないばかりか、単に殺すだけでなく、苦しめて殺すのが当然になっていたといいます。

 

そのような30年に及ぶ殺し合いの果てに、さすがに厭戦気分が高まり、ドイツ北部のウェストファーレン州で、戦争にかかわった146の地域・国が使節を送り、4年に亘って停戦交渉をし、1648年ウェストファリア条約が締結されます。これは世界史的に画期的なことであったといいます。

この会議で決められた内容は膨大なようですが、大きくは次の点だと言われています(WEBのコピペです)。

・ 世界で初めての「国際会議」であり、初めて結ばれた「国際法」であった。
・ 宗教について新教徒(プロテスタント)を認めた(即「信教の自由」ではない)。
・ ドイツ地方は解体され、それは「領邦国家」としての「国家」を定義したこととなった。
・ 「国家」を定義し、その「国家」の単位で国と国との政治を進めるという基礎が出来た。

目に見えてはっきりしたことは、神聖ローマ帝国国内の300におよぶ諸侯が主権国家(戦国大名に近いのでしょうか)として独立した。それだけでなく神聖ローマ帝国の領土はフランスやスウェーデン等に割譲され、神聖ローマ帝国は壊滅したということのようです。

この会議は世界で初めての代理全権大使による国際会議であり、締結された内容は世界初の国際法と言われるもので、グロティウスの思想が大きく貢献したといいます(残念なことにグロティウス自身は1645年海難事故で亡くなっています)。

倉山満「ウェストファリア体制」

歴史を勉強していると、「人間はなんと沢山の争いをしたのだろう」と嘆息します。

日本列島でも古事記や日本書紀の神話の時代から先の大戦まで(江戸時代は比較的平穏な時代でしたが)沢山の戦闘が続いていますし、西欧では日本以上に激しい殺戮の歴史が続いたといいます。

 

アマゾンで評判だったので、倉山満著「ウェストファリア体制」(2019年、PHP新書)を読みましたが、議論が扇動的で雑駁なので、一度この本から離れて1648年のウェストファリア条約に至る、ヨーロッパの歴史をざっとまとめてみます。(この機会に世界史を少し勉強しました)

 

 

 

 

 

キリスト教はローマ帝国支配下のエルサレムで興り、迫害を受けながら遂にはローマ帝国に認められ国教になるのが西暦392年。
しかしこのころには広大な地域を支配していたローマ帝国の求心力は衰え、遂に395年ローマ帝国は東西に分裂します(以下の図はWEBから採取したものです。無断で借用しています)。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では皇帝がキリスト教・ギリシャ正教会の首長を兼ねますが、一方の西ローマ帝国は小国に分断、群雄割拠しますので、ローマカトリック教会は後ろ盾を求めて沢山の苦労をします。

4世紀後半、西ローマ帝国の北東で暮らしていたゲルマン人が、東方の匈奴の一族・フン族に圧迫され、西ローマ帝国内になだれ込み沢山のゲルマン国家を建設、476年西ローマ帝国は滅亡します。

やがて、これら小国の中からフランク王国が勢力を伸ばし、フランク王国カール大帝は分断された西ヨーロッパを統一し、ローマ教皇からローマ皇帝の冠をうけます(800年)。が、再度東フランク、西フランク、中部フランクに分裂。その後も沢山の紆余曲折があるものの、結局現在のドイツ、フランス、イタリアの輪郭を形成します。

870年東フランク・オットー一世は、東から押し寄せる外敵を撃退し、ローマカトリック教会の後ろ盾になり、ローマ教皇からローマ皇帝の冠をいただき、ここに神聖ローマ帝国が誕生します。

 

ローマカトリックは自力で武力を持たない分、権力の維持に苦労しますが、キリスト教の総本山としての価値を最大限に利用し、西ヨーロッパでの勢力を維持し続けます。

おおざっぱに言えば、中世ヨーロッパの政治形態はいわゆる封建制で、諸侯(日本の戦国大名に近い)は王から土地を安堵されるかわりに兵役の義務を負っています。王は特別強力な権力を有するわけではなく、諸侯から選ばれた諸侯の代表者という立場が普通です(王を選ぶ権限のある諸侯を選帝侯といいます)。

ローマカトリックは諸侯の中に教会を建設し、教会は諸侯から保護されると同時に農民(農奴)を精神的に支配しています。これによってローマカトリック教会は諸侯への発言力を維持しています。

 

ローマカトリック教会の絶頂期、ローマ教皇はイスラム王朝に占領されていた「聖地エルサレムを奪回する」と称し、11世紀から200年間に亘って十字軍を繰り出しますが、結局大した成果を上げることなく十字軍が収束すると、諸侯は疲弊しローマ教会の権威が失墜します。
下って、14世紀から始まるルネサンスで科学技術が発展し、また大航海時代には世界規模での新発見が続くと、キリスト教の教えに疑問が持たれ、ギリシャや初期ローマ時代の文明や原始キリスト教への回帰の機運が高まります。

16世紀になると、いよいよローマカトリックへの批判が本格化し、ドイツのルターはラテン語の新約聖書をドイツ語に訳し、発明間もない印刷機で大量に印刷配布。聖書の精神に返れと叫び、ローマカトリックから破門されますが、スイスのカルバンもルターに同調。ローマカトリックへの批判=新教への流れは止まらず、新教はプロテスタント、ピューリタン、ユグノー等に名前を変えて、各地に根強く伝播していきます。

カトリック教を国教とする神聖ローマ帝国(ドイツ)に新教が萌芽すると、少数派の新教は激しく弾圧され(1618年、ベーメンの反乱)、これに新教を国教とするデンマークとスエーデンが介入、さらに伝統的にドイツと不仲であったフランスが自身カトリックを国教とするにも関わらすドイツに介入、戦乱が続きます。30年戦争です。

 

この30年戦争での終結条約がウェストファリア条約で、これについて本書は書いています。