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山本幸司「頼朝の天下草創」

頼朝は鎌倉幕府をどのようなものにしようとしたか、頼朝の死後、彼を引き継ぐ妻・政子や北条家、また源平合戦での功労重臣が、どのように鎌倉幕府を作っていったか、あるいは離反(=滅亡)していったか、山本幸司「頼朝の天下草創」(講談社 日本の歴史、2001年)は、鎌倉幕府の草創から、最盛期の北条時頼(1250年中葉)までの政治動向を解説しています。

この本の最初に、頼朝のひととなりを描写していますが、結論からいえば私は納得しない。

理由は、筆者の主観が入りすぎていて、いくつかの事例をひいて、頼朝を天才に仕立てているからです。

私は頼朝は革命家だと思うが、それを一個の天才のなせる業にしては元も子もないと思います。

1180年、以仁王の挙兵。義仲、頼朝の挙兵。
1185年、平家が壇ノ浦で壊滅的敗北。
1189年、奥州で義経自害。藤原泰衡討たれる。
1190年、頼朝上洛。
1192年、後白河上皇死去、頼朝が征夷大将軍就任。
1198年、後鳥羽院政始まる。
1199年、頼朝死去。

平家打倒を掲げて10年、目的を達し、念願の上洛を果たした頼朝は、1192年征夷大将軍に就任します。

昔、私たちはこの年を鎌倉幕府成立年と教わりましたが、今は、鎌倉幕府の成立年を何時とするか諸説あるようです。

専門家は「○○をもって幕府成立と考えるべき」と議論していますが、私達素人は、取り敢えず80年代の中葉には、幕府が発足したと考えておきましょう。

 

さて、頼朝は、義経を討ち奥州藤原を討って、当面の敵をすべて排除しますが、もちろん朝廷を蔑ろにはできません。

朝廷と鎌倉の関係がどうであったか、私は正確には理解していませんが、基本的には朝廷はそのまま温存し、これとは別の武士の全国組織を作ります。

律令制度は中国の制度を見習ったもので、複雑で高度でしたが、鎌倉幕府の諸制度は、シンプルで実務的なものです。

主な機関を挙げると次のようなものです。

中央は将軍とそれを補佐する執権、連署で構成、その下部組織として政所(財政)、侍所(軍事、警察)、問注所(訴訟)、京都には京都守護、六波羅探題を置き、地方には守護、地頭、九州には鎮西奉行、奥州には奥州総奉行を配置します。

主だった政務は、将軍とこれを補佐する執権、連署からなる評定会議で決定します。

1199年頼朝は急死します。
諸説あるようですが、落馬が原因と言われています。

頼朝の死後1202年、長男頼家が征夷大将軍に任命されますが、彼は凡庸だとして、家臣団から信頼されません(ただし、この当時の史料がすくなく、真実は藪の中のようです)。

頼朝なきあとの様々な難しい政務を抱え、頼家ではこの難局を乗り切れないと判断した 政子は、頼家に引導をわたし出家を強要、頼家の弟・12歳の実朝を将軍につけ、その実務者として政子の実父・北条時政が執権職につきます。

その後、この時政も政子と衝突、幕府を追われ、政子は甥の泰時を第三代執権につけ、二人で実朝を補佐します。

1219年、実朝がかつて政子に排除された二代将軍頼家の子・公暁に誅殺されると、実朝に子がいなかったので、源氏嫡流は途絶えます。

政子は天皇家から将軍を迎えようとしますが、時の後鳥羽上皇に拒否され、やむなく源氏との血縁のある幼少の摂関家・九条三寅(後の藤原頼経)を迎え、その後見人として政子が将軍の代行をします。

このとき、政子が描いた政治の構図は、京都から傀儡の将軍を頂き、北条氏が執権として実権を握る、源氏・北条家に血のつながりのある女を祭祀の主役にする、というもので、政子が重視したのは、女の力すなわち政略結婚で幕府の安泰を図ることでした。

政子の孫(2代将軍頼家の娘)竹御所を4代将軍頼経に、北条時氏の娘・檜皮姫を5代将軍に嫁がせます。

頼朝のカウンターパートであった後白河の後を継いだ後鳥羽は、王政復古を目指し準備します。すなわち、元々京には皇室を護る北面の武士がいましたが、後鳥羽は西面の武士も組織します。

後鳥羽は、実朝暗殺のどさくさを好機とみて兵を動かしますが、安直な後鳥羽の情勢判断は、政子のもとに一致団結した鎌倉武士に一たまりもなく粉砕され、沢山の京側武士は処刑、後鳥羽以下の貴族も配流されます(1221年、承久の乱)。

後鳥羽は王権の復活を願った筈が、逆に朝廷と幕府の力関係がはっきりして、国の政治は鎌倉主導になります。

1225年、政子逝去。
藤原頼経が8歳で4代将軍になります(1226年)。

三代執権泰時は人望も厚く、これまで続いた独裁政治を改め、評定衆による合議を基本に、集団的指導体制をとります。

開幕以来、鎌倉幕府に平穏な日々はなく、騒乱に次ぐ騒乱が続き、頼朝と共に戦った、梶原景時や千葉氏も幕府から排除されます(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変、1205年:牧氏事件、1213年:和田合戦)。

当時の騒乱の解決は、当事者の武力による決着すなわち私戦が主流でしたし、幕府が裁定するときは将軍の即決が基本でした。

泰時は紛争に公平性、一貫性の裁定が必要と考え、1232年、武家法・御成敗式目を制定します。

この式目は、首尾一貫したものではありませんが、実情に合わせた簡潔なものでした。

泰時は病を得て退官出家し、泰時の孫北条時頼が第五代執権に就任(1246年)、時頼は鎌倉幕府の最盛期を築きます。

すなわち、時頼は泰時の執権政治を継承、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年裁判の公平化のため、引付衆を設置します。

同時に、執権権力の強化にも努め、1246年時頼の排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放(宮騒動)、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅(宝治合戦)します。

1252年、幕府への謀叛に荷担したとして、頼経の子・将軍藤原頼嗣を廃し、代わりに宗尊(むねたか)親王を新将軍として迎えることに成功します。政子が希望した天皇家からの将軍です。

これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられますが、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となり、その分北条宗家は権力を集中します。

その後、時頼は、病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲りますが、実権は自分が握り続け、あたかも院政のような政治形体を作り上げました。(得宗専制)

 

NHKスペシャルで司馬遼太郎の「この国のかたち」を放映していました。日本・日本人の精神構造がどのようにして形づけられたか、というテーマで、大変興味をもっていましたが、期待外れでした。

律令時代、民は搾取されていたが、武士はいわば武士道精神で庶民に思いやりをもって接した。

という話がありましたが、少なくとも、江戸になるまで、日本に平穏な日々はなかった、と私は思います。

鎌倉時代は、頼朝の時代、それ以降の北条の時代、血で血を洗う闘争の連続です。私は「ヤクザの抗争と何も変わらない」というイメージを払拭できません。

庶民は朝廷と鎌倉から二重の抑圧に苦しみ、深刻な飢饉に見舞われています。何度も人身売買の禁止令を出すほどです。

司馬がいうように「名こそ惜しけれ」と行動した人がどれほどいたか。私はリアリティを感じません。

現実は悲惨で、だからこそら奈良や京都の大寺院の戒律主義ではなく、民衆(武士も含めて)の苦しみに寄り添った法然や親鸞や日蓮や鎌倉仏教に、
多くの人々が帰依したと思います。

清盛、義仲、義経、頼朝

数年前、NHK大河ドラマで[平清盛]が放映されました。

私は広島で育ったので、(厳島神社を平家の氏神にした)清盛の話を楽しみにしていたのですが、映像が埃だらけで汚いのと、武将がやたら泣いたり、わめいたりするのを、「ありえないだろう」と思って、結局ほとんど観ませんでした。

今回平安時代の武士の歴史を勉強し、また[新平家]を読んで当時を想像するに、少なくとも宮廷の外は、どれほど殺伐とした時代であったか、と思いめぐらします。

殺すか殺されるか、まさに仁義なき戦いです。

後々のため危険な人物は殺しておかなければいけない。清盛は死の床で、かつて幼かった頼朝を殺さなかったことを激しく後悔、頼朝は身内も、平家の残党も徹底的に殺戮する。

義経の戦いは、奇襲戦です。
勝つためには、民家を焼き、非戦闘員まで殺します。

それができるかどうか、それをやるかどうかが、生き残るかどうかに直結します。

もう一度言いますが、このような時代、キリキリして生きていた武士がやたらに泣き叫ぶものか。ありえないと私は思います。

 

それはともかく、平家物語の人々の性格やものの考え方はどのようなものだったのだろうかと、[新平家]を読みながら、何度も考えました。

後白河法皇の行動は分かります。

力はない、権威はある。
天皇家や公卿を護るためにどうすればいいか。
権威を唯一の絶対的力と振りかざして、
武力を有する者たちを手玉に取るしかありません。

自分たちに都合のいい武将は、用心棒として手元に置きたい。

後白河が人間的に、善良であったか、邪悪だったか知りませんが、
彼はあのように振る舞うしかなかったと思います。

 

清盛も分かります。

貴族社会の中で、皇族からはじき出された家系の人間であってみれば、できれば天皇に近い立場で、それなりの地位につきたい。

自分ひとりでなく、一族もそのような立場にしたい、と思うのは自然なことです。

特別、腹黒くもなく邪悪でもないと思います。

少なくとも、保元の乱あたりまでは、「天皇をおしのけて」とまでは思ってもみなかったのでしょう。変わったとすれば、娘徳子が安徳天皇を出産して、朝廷の中で地位が向上した頃から、彼自身また一族の者も増長しただろうことは想像できます。

 

義仲も分かります。

おそらく、義仲は、平家に代わって朝廷での地位を得れば満足だったのだと思います。

しかし不幸なことに、彼は若いころ京で生活したこともない。
生活様式、ものの考え方、しきたり、あらゆる面で彼と都とは相容れなかったのでしょう。当然、お互いにお互いを受け入れることができなかった。

彼が都に長く居座ることは、元々不可能だったと思います。

私のもっていた義仲のイメージは、木曽の山奥で育った、粗野な酷男でしたが、[新・平家]ではそうではなく、彼はイケメンで、女にもてたといい、小説では、彼の周りの3人の女(巴、葵、山吹)を長々と書いています。

また、義仲軍には女兵士の部隊があって、上の女たちも武器を持って、義仲と共に戦っています(小説では)。

 

義経も分かります。

小さいとき、社会から隔離され、父親の話や祖父や源氏の祖先の話も聞いて育ったのでしょう。

しかし、自分にはいいことがなにもないままに成長し、たまたま、頼朝とともに兵をあげ運よく平家に大勝、都に凱旋して、法皇から褒賞や重要な役職を受ければ有頂天になり、法皇に忠誠を誓う。

ごく普通の感が鋭い勇敢な青年だと思います。

小説では、平家との和議を最後まで模索し、平忠時と連絡をとりあっています。

 

しかし、その義経が許せなかったのが頼朝です。

小説では、なぜ頼朝が義経を許せなかったのか書いていますが、リアリティが感じられない。

義経は頼朝に対して一貫して誠実であろうとし、頼朝はあくまでも義経に対して冷淡であったとの印象が残ります。

頼朝が義経の考えに誤りがあると思うのなら、どうして兄として弟に説教しなかったのか。小説では、頼朝が一度たりとも義経を身近において話し合った場面がありません。

義経が平家討伐を果たし、捕虜を連れて鎌倉の郊外まで来たとき、義経が弁明書を提出したのに、それさえも無視するのはなぜか。

なぜ会って、間違いを正さなかったのか。
私には理解できません。

私は頼朝は日本で初めて登場した革命家だと思うのですが、大所高所からものを見た頼朝の、義経に対する狭量さと辻褄を合わすことができないのです。

 

頼朝が何を考えていたか、Wikipediaでもこの小説でも、また色々な本でも書かれています。

清盛も義仲も、あまりにも京に近づきすぎた。
彼らは朝廷の中での、一定のポジションを求めた。

しかし、頼朝は朝廷をはっきり拒絶した。
そして京から離れた鎌倉に新政権を樹立した。

義経も清盛、義仲と同じ行動をした。
それを頼朝は嫌った。
そこまでは分かるが、頼朝の態度は理解できません。

更にいえば、頼朝はどうしてそのような考えを持つに至ったか、人間頼朝の思考形成がなかなか理解できません。

むしろ、頼朝は私の理解を超えているといえばいいのでしょうか。

頼朝は、清盛や義仲の失敗を見ていた。
そして祖先の失敗も見てきた。
忠常の乱での頼信、前九年の役での頼義、後三年の役での義家、
保元の乱での為義、平治の乱での父義朝の成功と失敗も見てきた。

多分13歳まで京で暮らしたことも重要だったのでしょう。
京を羨むだけでなく、冷静に見ることができた。

また、伊豆での幽閉では、周りには味方をする人も、監視する人もいた。
この環境の中で、沢山の考える時間もあったのでしょう。

しかし、それが頼朝の思想形成の説明になっているのでしょうか。

 

源平の合戦で登場する武将は、平家方は平家一門ですが、源氏には多くの他家の武将がいます。

私は、頼朝には常に政子や北条家や大江広元等のブレーンがいたのだと思います。
「頼朝」は「チーム頼朝」だったと推測します。

彼は挙兵したときから、「チーム頼朝」で議論し、相談しながら戦ったのだと想像します。

それは彼の強みでもあり、弱みでもあったのでしょう。
彼は鎌倉幕府を樹立しますが、源氏嫡流は3代実朝で終わり、後は、北条を中心とした御家人による合議制の政治体制を取ります。

もしかしたら、義経に対しても、身内として特別な対処をすることを憚ったのかも知れません。

吉川英治「新・平家物語」5

1183年7月、義仲は平家が撤退した京に入り、ただちに、後白河法皇に拝謁、法皇から都の治安と平家追討を命じられます。

しかし、折あしく都は深刻な飢饉に見舞われていて、そこに義仲の大軍が押し寄せたために、都は極度の食糧不足になり、治安はむしろ悪化します。

法皇にとって重要なことは、三種の神器の確保と新天皇の擁立です。

義仲が兵を動かしたとき、以仁王の第一王子・北陸宮が義仲軍に保護を求めてきました。新天皇擁立の話がでたとき、義仲は北陸宮を押しますが、天皇の考えからするとありえない要求です。

天皇擁立と同じくらい重要なのは、三種の神器を取り返すことで、義仲に出兵し神器奪還を要求しますが、義仲はなかなか動きません。

山岳育ちの義仲軍は、陸戦で勝機があるものの、海に逃れた平家軍には勝機が見えません。

法皇にせかされて、陸路西に向かった義仲軍は、水島の戦いに大敗します(1183年11月)。

義仲は八方ふさがりで、法皇・公卿との軋轢は増えるばかりです。

法皇はあからさまに義仲ではなく頼朝への接近を見せ、義仲は法皇と衝突し、遂に、義仲は頼朝と決着を覚悟します。

しかし、もはや義仲に味方するものはなく、僅かな兵力で京に接近してきた鎌倉軍(範頼、義経)に対峙しますが、宇治川の戦いで敗れ、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にします。1184年1月、享年31。

範頼は、頼朝の弟ですが、範頼の母は遊女だといわれています。
範頼は平治の乱ではその存在が知られていなかったので、命拾いしたということです。

後、頼朝軍の大将として平家追討を命じられ活躍しますが、後年、ちょっとした失言で、修善寺に幽閉されます。

義仲を討った範頼と義経は、休む間もなく平氏を追討すべく京を発ちます。

都でごたついている間、平家は兵力を整理し、清盛ゆかりの福原に軍勢を整えていました。

これに対して、源平の開戦は同年2月7日と決め、範頼は正面に、義経は裏面を突くべく山岳に軍を進めます。

2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門に後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じ、詳細は8日に提示するという伝達があります。

平家方は半信半疑でしたが、「様子を見よう」ということになります。

しかし、その後法皇から何の連絡もないまま、7日範頼は行田口(今の神戸駅付近)から、義経は一の谷から平家軍に襲い掛かり、一気に平家軍を蹴散らします。平家軍は虚言に乗せられ大敗し、船で屋島に撤退します。

この時の有名な挿話は、義経の一の谷の逆落とし([新平家]でははっきり書かれていません)、若武者・敦盛の首を取った熊谷直実の話があります。
またこの時、南都焼討を指揮した重衡が捕らえらえ、後奈良の僧兵に斬殺されます。

瀬戸内海海戦にあたって、軍船を整える必要があります。源氏軍は軍船の調達と、同時に中国地方の平家狩りに力を注ぎます。

平家狩りを担ったのは範頼、京の治安を担当したのが義経です。

範頼は陸路平家方勢力の討伐にかかりますが、戦線を伸ばし過ぎ(下関あたりまで)、逆に兵站調達に苦戦します。

京都の治安に専念していた義経は、範頼を支援の必要性を感じ、同時に屋島が手薄になったという情報をつかみ、屋島攻撃を決行します。

1185年2月、台風のなか、反対を押し切って、僅か150騎で阿波を目指し、勝浦(現徳島市の南)に上陸します。直ちに、山伝いに屋島を目指し、大軍を装って広範囲の民家に火を放ち、屋島の平家に襲い掛かります。

不意をつかれた平氏は船に逃れ、下関彦島に逃れます(那須与一の話は、屋島合戦の出来事です)。

義経は、遅れて到達した源氏の船団を指揮して平氏を下関彦島に追い詰めます。

同年3月、壇ノ浦で最後の決戦をします。
(範頼は九州側にいたようですが、このとき[新平家]ではあまり登場しません)

最初潮目は平家有利でしたが、午前11時頃潮目が変わり、源氏有利になります。

源氏は平家の船に乗り移り、掟違反の漕ぎ手やかじ取りの民間人を切り殺し(Wikipedia)、戦いを制します。

最早これまでと悟った、清盛の妻・安徳天皇の祖母が天皇と宝刀を抱いて、海に身を投げます。沢山の女官も海に飛び込みますが、安徳の母・徳子は助けられ京に送られ、そのご出家します。

 

義経は京に凱旋し、後白河から褒賞を受けます。しかし、この後白河からの歓待に頼朝は怒ります。

5月7日、義経が戦いの報告をしようと、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、鎌倉に向かいますが、義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経の鎌倉入りを拒絶します。

義経は、頼朝に対し自分が叛意のないことを書面(腰越状)にしたため、頼朝の側近大江広元に託しますが、捕虜を連れ帰り処刑せよという命令だけです。
やむなく、義経は京に帰りますが、義経謀反とみた頼朝は義経討伐の命令をだします。

力に劣る義経は一時九州を目指して逃亡しますが、台風に妨げられ、結局奥州藤原秀衡のもとに逃れます。(北陸を通って奥州に向かう途中で、安宅の関の話がでてきますが、義経が疑われて、弁慶が義経を足蹴にするという話はありません。)

1187年秀衡が死亡し泰衡が後を継ぐと、頼朝は泰衡に義経殺害を要求、義経は泰衡軍に囲まれ、籠った家に自ら火をかけ焼死します。

遺体はそれが義経だと分からないほどに焼けたので、「実は…」という義経伝説か生まれます。

 

頼朝は、何かにつけ敵対した叔父行家を殺害、範頼を幽閉、更に、厳しく平家の残党狩りをし、身の回りの憂慮すべき要因をすべて取り除きます。

 

1198年、頼朝は狩りの帰りに落馬し、あっけなく逝去します(享年53)。

吉川英治「新・平家物語」4

以仁王の反乱はあっけなく鎮圧されますが、頼政から王の檄文(令旨・りょうじ)を手渡された行家は、同志をめぐって決起を促します。

伊豆の頼朝にも令旨が届けられ、それを追って平氏からの鎮圧が来ることを予期した頼朝は蜂起を決心します。

頼朝は1180年8月、伊豆の代官を襲い殺害、そのまま北上し、今の小田原あたりで平家側大庭軍と戦いますが大敗(石橋山の合戦)、僅かな手勢と山に逃げ込みます。

ここで、有名な挿話があります。

頼朝達が隠れたいた大きな洞を、敵将・大庭景親が調べようとします。
そこに平家方武将の梶原景時現れ、「自分が調べる」と弓を洞に差し込み、「ここは蝙蝠の巣」だと、頼朝が潜んでいることを知りながら、頼朝を見逃します。

景時は頼朝の将来を見込んだという話です。

実際その後、景時は頼朝の家臣になり、頼朝も景時を重用し、義経・範経が平氏追討で瀬戸内海で戦った時、いわば参謀として参戦します。

「新平家」では景時は、義経に徹底して対抗心をもち、頼朝にあることないこと告げ口した人物として描かれています。

真鶴から房総に逃れた頼朝は、房総の豪族、上総広常と千葉常胤を味方につけ西進、父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉に本拠を構えます。

それに呼応して、平家は頼朝討伐のため東進。
平維盛は富士川で頼朝と対峙しますが、水鳥が飛び立ったのに驚いた平家軍は戦いを放棄して逃散します(1180年11月)。頼朝は追跡しようとしますが、重臣から、「今は深追いするときではない」との進言を受け、鎌倉に引き返します。

このとき、奥州藤原にいた義経が秀郷から授かった武将と共に、頼朝のもとに馳せ参じ、涙の対面をします。

 

富士川での平家の無残な敗走を期に、全国各地に不穏な空気が上ります。

このような騒乱の中、同年6月、清盛は長年の夢であった福原京(現在の神戸市)に遷都します。が、遷都は機能せず、一度は遷都したものの公卿たちは京に戻り始めます。

この大切な時に、清盛は熱病にかかり、重衡を頼朝討伐にあてることを命じ、「あとは宗盛のもとに結束せよ」と遺言し病没します(1181年3月)。

[新平家]では病名はぎゃく=マラリヤだとしていますが、今は諸説あるようです。

1181年4月、平重衡を大将とする平家軍が再度東進し、今の大垣市付近墨俣川の東岸でこれに対峙したのが頼朝とは一線を引いていた行家です。しかし、行家は墨俣川で敗れ、後退した矢作川でも大敗し鎌倉に逃れます。

当時平家には、西は平家、東国は源氏、奥州は藤原が支配するという構図を描いていたので、平氏は源氏軍をそれ以上深追いすることはありませんでした。

鎌倉に逃れた行家は、自分が頼朝の叔父であるとこをいいことに、傲慢な態度を取ったために、頼朝の怒りをかい、やむなく木曽義仲のもとに走ります(1183年)。

行家は[新平家]に頻繁に登場しますが、あまり好意的に書かれていません。
熊野に潜んでいた行家は、以仁王の令旨を盾に、独自に蜂起しますが、合戦は負け続け、頼朝を頼ったり、それがだめなら義仲、義経、上皇と次々頼る相手を変え策を弄しますが、最後は頼朝に討たれます。

義仲の父義賢は、頼朝の長兄義平(悪源太義平)に武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)で討たれますが、このとき義賢の重臣が、幼い義仲を抱いて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、以後義仲はこの地で育ちます。

義仲が頼朝に追放された行家を庇護したことで、義仲と頼朝は険悪な関係になり、結果として義仲の行動を難しくします。義仲は頼朝に敵意はない証として、息子義高を人質として頼朝に差出し、北関東を固め平家との合戦に備えます。

義高と頼朝の娘・大姫は恋仲になります。
後年頼朝と義仲が敵対するに至って、頼朝は義高を斬殺(1184年、享年12)、大姫は頼朝を恨み、若くして病没したと[新平家]では書いています。

富士川の戦い(1180年)で大失態した平維盛は、義仲討伐の10万の大軍を率いて、北陸道に進みます。

しかし、1183年5月、今の金沢の北東・倶利伽羅峠で平家軍は、義仲の奇襲(夜中牛の角に松明を付けて、平家軍に突入させてといわれています)を受け、膨大な戦力を失い無残な姿で京都に逃げ帰ります。

義仲は勝利の勢いを保ったまま、6月には延暦寺を恫喝して味方につけ、入京の構えをみせます。

清盛をなくし、義仲との戦いで軍事力の大半を失った平家は、押し寄せる義仲軍におびえ、一戦も交えず、女子供もみな引き連れて、京の都を明け渡すことを決めます。

このとき最も大切なことは、天皇家を平家方につけることです。

高倉(後白河上皇と平慈子の間に生まれた)は既に逝去していましたが、高倉と清盛の娘徳子との間に生まれた安徳は、弱冠8歳の、しかし既に天皇になっていました。

安徳天皇は幼いので当然、母徳子と一緒に行動します。

平家は、もう一人の重要人物・後白河上皇を味方に引き付けておかなければなりませんでしたが、不覚にも、京都撤退のどさくさで、策士・後白河に逃げられてしまいます。

後白河がいないものの、平家一族は安徳天皇と三種の神器を携えて九州目指して落ち延びます。ところが、味方だと思っていた大宰府を初めとする九州の諸武将は平家に敵対し、九州にも居場所がありません。清盛が一生をかけて築いた福原に近い、四国屋島に拠点を築きます。

義仲が都の統治に失敗し、源氏の内輪もめが始まっていました。

吉川英治「新・平家物語」3

そもそも源氏とか平氏とかはどういう人たちか。

実は、源氏も平氏も天皇の末裔で、天皇の子や孫が皇族から離れ民間に下るときに授かる姓が源氏、ひ孫以遠の子孫が民間に下るときに授かる姓が平氏ということです。

多くの天皇から源氏や平氏が分岐しています。ということは、源氏は頼朝一族だけではないし、平氏は清盛一族だけではありません。

清和天皇の孫の経基がいただいたのが清和源氏、嵯峨天皇の皇子・源信、源融がいただいたのがの嵯峨源氏、桓武天皇から五代下って高望王がいただいたのが高望王流平氏です。

また、当然天皇からの分流だけでなく、源氏は源氏、平氏は平氏の中で分流していきます。

清和源氏からは河内源氏、摂津源氏等の武家が分岐し、高望王流平氏からは、将門等の坂東平氏、その末裔からは清盛を輩出した伊勢平氏があります。

下に、平家物語で度々登場する源氏の武将の続柄を示します。

以仁王の旗揚げに加わってのは摂津源氏の源頼政でしたし、以前ご紹介しました前九年の役、後三年の役等で活躍した頼義や義家は河内源氏の属します。

頼朝、義仲は従弟同士ですが、良好な関係ではありません。
彼らの祖父為義と義朝は仲が悪く、義朝が南東国に下ったのに対して、為義は二男義賢を北関東に送ります。

ところが、義賢は義朝の長男・義平(上の系図ではかいていません)によって敗死、
その後保元の乱では、為義・義朝親子は敵対し、父為義は実子義朝に斬殺されます。

一方、平清盛は平氏の遠縁の時子と結婚します。
時子との間にできた子供を含めて、清盛には、重盛、知盛、重衡、安徳天皇を生んだ建礼門院徳子がいます。

時子の兄弟=清盛の義兄弟の中には、後白河の側室になった建春門院・慈子や、清盛をよく補佐し、生涯をまっとうした時忠がいます。

さて、平治の乱で敗れた義朝・頼朝は東国目指して逃げます。

途中頼朝は一人道に迷い平氏に捕らえられ、義朝は今の名古屋あたりの長田忠致の邸にたどり着きますが、裏切られ部下とともに斬殺されます。

慣例から義朝の息子たちも殺される運命だったのですが、当時13歳であった頼朝については、清盛の継母=池禅尼が涙の命乞いをし伊豆に流罪となり、まだ幼かった牛若(当時2歳、義経)と二人の兄弟は、成長した後には出家するという条件で寺に預けられます。

牛若は元服=出家を前に鞍馬山を出奔、琵琶湖湖畔の近江源氏や各地の同志を転々とし、一時奥州藤原に身を寄せます。