「村社会」

私は「村社会」といわれる教師と医師の世界を多少知っています。

教師についての少しの経験を前回書きました。

実は私の義父は医師で、
妻方にはそのほかにも数人の医師がいます。

彼らと深い付き合いはありませんが、
医師がどのような人たちかはある程度知っています。

 

私は若いころ1年足らずの期間でしたが、
米ピッツバーグのカーネギーメロン大学で3DCADの研究をしました。
カーネギーメロン大学は小さな大学ですが、優秀な大学として知られていました。

ピッツバーグにはもう一つピッツバーグ大学というのがあって、
医学界では相当知られた大学のようでした。

私は最初は単身で、安ホテルから大学に通っていたのですが、
暖かくなってアパートを借りて、
妻と当時4歳と1歳になった息子たちを呼び寄せ、
アメリカの生活を楽しんでいました。

アパートにはピッツバーグ大学に通っている若い医者の家族が2家族いて、
時々挨拶をしていたのですが、
妻がきたことだし、同じ日本人同士なので、2家族を招待して、
妻の手作りの料理でもてなしました。

親しい関係ではありませんでしたが、
普通ならそれぞれの仕事のこととか、
家族のこととかあたりさわりのない会話をするものですが、
この2家族の人たちは私たちをまったく無視して、
お互いに「先生」、「先生」と呼びながら身内の話に終始しています。

私たちは完全に蚊帳の外で、
あたかも料理人のような立場になり、
楽しいはずのパーティーはまったく不愉快なものになりました。

「実は義父は医者なのです」といえば、
彼らの態度は変わったのかも知れませんが、
そもそも私が職業や肩書に媚びたり、持ち上げることはあり得ませんので、
身内のことは何も言わず、
「2度と親しくすることはない」
と内心思ったことです。

もう一つの医者についての不愉快な体験は、
今年2月このブログの「それからのそれから」で書きました。

 

医者といい教師といい、
「これらの人たちはなぜ普通ではないのだろう」と考えます。

結論からいえば、彼らは「村社会」の人たちだからだと思います。

[普通の人]は基本的に競争社会で生きている訳で、
同僚やライバル会社と競い、失敗すれば上司にしかられ、
友人や同僚と泣き、笑い、喧嘩し、仲直りするなかで、
人の痛みや優しさを学び、
社会での自分の立ち位置を知ります。
また失敗や成功から社会での生きる知恵を学びます。

[普通の人]は、人それぞれに程度の差があるにしても、
自分が成長していかなければ、
社会のなかでまっとうには生きていけないと判っているのです。

一方医者とか教師は、
閉鎖的環境=「村社会」の中で「医者であれば」また「教師であれば」、
それだけで生活は保障されている訳で、
人間として批判に晒されることは非常に少ないのです。

何故でしょうか。
医者や教師という「職業」は、
私たちの人命を救い、また次世代の子供たちを教育するという大変重要な「仕事」ゆえに、
願いを込めて尊敬され特別視されてきたのです。

であってみれば、この職業についた人は、
[普通の人]以上に自己研鑽しなくてはいけないのに、
多くの医者や教師はその職に就いたことで、
「自分が尊敬されてしかるべきだ」と勘違いして、
人間としての成長を止め、
結果未熟な裸の王様が大変多いのです。

すべて「事なかれ。事なかれ」で行動し、
事が起こってしまたら、どう対処すればいいか分からなくて、
もっぱら保身に走ります。

「ママ、僕は悪くないのだ」。
小さい子供がそそうしたとき、ひたすら言い訳し、真実から目を逸らそうとするのと同じです。

社会で大変重要な職業についている人たちがこれではいけないと思います。

解決策は彼らが若いときから、
社会人として批判にさらされる環境で生きていくことが必要だと思います。

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