私論・鎌倉幕府創生

一通り、鎌倉幕府を勉強して、どうしても気になることがあります。

頼朝が義経に対してとった行動と頼朝流源家の滅亡です。

以前にも書きましたが、
頼朝はどうして義経を殺害し、範頼を排除する必要があったのか。
彼らは頼朝に反抗し、敵対したのではない。
彼らに非があったとしたら、それを正す方法はいくらでもあったのではないか。

義経が壇ノ浦で平家を壊滅し、京に凱旋したときの彼の行動について、
頼朝が怒っているのを知り、
戦況報告のため、捕虜を連れて鎌倉郊外についたとき、
弁明書を書いて、頼朝の許しを請うたのにも関わらず、
頼朝がそれを無視し、義経に反撃するしかない立場に追いやったのは異常です。

頼朝が義経の京都かぶれを嫌ったといいますが、
自分も実子・大姫を京の公家に嫁がそうとしたり、
その後の二代将軍も三代将軍も京都志向だったのに、
義経だけはそれを許さないのは完全に矛盾した行動です。

頼朝が身内をすべて誅殺したために、
自分がトップになったとき、周りには頼りになる身内がいない状態でした。

「本当?」と首を傾げたくなるのは、頼朝の死因です。

頼朝は落馬が原因で死んだといわれていますが、
「頼朝ともあろう人なら名馬に乗っていたのだろう。
まさか暴れ馬に乗っていたのではなかろう」、
「当時の武将が平時に落馬して死ぬようなことがあるのだろうか」と、
にわかには信じられません。

二代将軍頼家は、政子に蟄居を命じられ、入浴中に斬殺されますし、
頼家の子・公暁が、それを恨んで三代将軍実朝を殺した、
というのも不自然です。

 

頼朝に関連する歴史は謎が多すぎます。

この時代を語る史料は、[玉葉]、[愚管抄]、[吾妻鏡]です。

[玉葉]は、頼朝と親交のあった朝廷の高級官僚・九条兼実の日記、
[愚管抄]は兼実の兄弟の慈円がまとめた歴史書です。

私はこれらを読んでいませんが、
[玉葉]や[愚管抄]は、鎌倉武家の内実を多くは語っていないようです。

[吾妻鏡]は[玉葉]を参考にしながら、北条家が後で編集したもので、
北条の都合がいいように書いた反面、源家には批判的な記述だといいます。
ですから、[吾妻鏡]をそのまま信じることはできません。

要するに鎌倉初期の歴史を明確に語る史料が不足しているようです。

そんなわけで、多くの歴史家も鎌倉初期の歴史は「おかしい」と思っていながら、
断言できないというのが真実だと思います。

その分、市井の歴史家は、結構「おかしい」のようなことをいっていますが、
私も鎌倉幕府の「真実」を証拠もないのに独断と偏見で断じたいと思います。

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