シーボルト「江戸参府紀行」

シーボルト「江戸参府紀行」(1967年、平凡社 東洋文庫)を読みました。

江戸参府旅行記はこれで3冊目です。
年代順にいえば、ケンペルが第5代将軍・綱吉治世の1691年と92年、ツュンペリーが第10代将軍・家治治世の1776年、シーボルトが第11代将軍・家斉治世の1826年の参府です。

 

シーボルトは1796年ドイツ医学界の名門の家に生まれ、1823年27歳で初来日、約6年間滞在しています。

シーボルトはこの本の中で、オランダ人でないツュンペリーやシーボルト自身が、日本入国に際して、オランダ商館の医師として認めてもらうのは、大変だったと書いています。

来日3年目の1826年2月15日から7月7日に亘って、長崎を発って将軍謁見の旅をします。当時のオランダ商館は、4年に一度の参府が義務付けられていたようです。

年齢でいえば僅か30歳ほどでしたが、長崎ではすでに医者としての名声を得ていたようで、当地に塾を開き多くの門人を持っていましたし、日本各地にも沢山の知人や門人を持っていたようです。

シーボルトは帰国に際して、伊能忠敬の日本地図を持ち出そうとしたいわゆるシーボルト事件を起こし、数人の日本人が処刑され、彼自身は日本を追放されていますが、この旅行でも日本の地理についての情報収集は異常さを感じます。

単純に研究としての知識欲だけだったのだろうか。イザベラ・バードもそうですが、彼らの旅行には相当の費用が必要だったでしょう。特にシーボルトは様々な工芸品や動植物の標本を購入しています。女性や若者にそれだけのお金がどうしてあったのだろうか。と素朴に思います。彼らが国からの何らかの任務を帯びていたと考えても不思議ありません。

ケンペルもツュンペリーもシーボルトも禁制であった日本地図を持ち出していますが、キナ臭さを感じます(何の根拠もありません)。

江戸幕府がキリスト教を排除し鎖国をした背景には、西欧がキリスト教をテコにアジア諸国に入り込み、やがては軍事力で植民地化したいきさつがありましたし、日本侵攻の意図ありとみなされる文書が見つかったりしています。

 

さて、シーボルトは日本から大量の資料を持ち出し(全部が禁制品だった訳ではない)、大部の「日本」を著します。

これとは別に未発表の旅行記が死後に発表されます。それが本書「江戸参府紀行」です。旅行の直後に書いたものではないので、感情的な記述や「好き・嫌い」のような記述がほとんどありません。

基本的には「日本大好き」だったのではないでしょうか。

長崎を出発して将軍に謁見し、また長崎に帰ってくるまで、門人や行く先々の名士との医学や動植物についての情報交換をし、目にする動植物の記述、日本の医療や手工芸等についての細々とした記述をしています。

トキやツルやカワウソやオオカミや様々なものをみていて、「そうなんだ」という話がいろいろあります。

将軍謁見はごく儀礼的なもので、ケンペルのように歌を歌わされたり、寸劇をするようなことはなかったようです。

また先にも書きましたが、旅の途中での各所の地形や瀬戸内海の水深等、機会を見つけては自分自身で測定し、また門弟からも情報を得ようとします。

門弟に日本についてのオランダ語による論文を書かせていて、ここでも彼としては有益な情報を集めています。

なお、この本には帯同した画家が描いた詳細な絵が多数挿入されていて、当時の風景や人物や乗り物を見ることができます。ただし、東洋文庫では絵が小さいのが残念です。

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