イザベラ・バード「朝鮮紀行」

イザベラ・バードの[朝鮮紀行](講談社学術文庫)を読みました。

バードは朝鮮を1894年から1897年にかけて4度旅行していますが、この時期は、朝鮮半島を主戦場にした日清戦争(1894・1895年)が勃発し、戦後処理が進行するなかで、そのときの生々しい体験を書き、政治情勢の判断を記しています。

脱稿は1897年11月です。

彼女が日本を訪れたのが、1878年(明治11年)47歳のとき、朝鮮を初めて訪れたのは、それから16年後の1894年(明治27年)で、63歳のときです。彼女はすでに女性旅行家として有名になっていたのだと思います。朝鮮旅行の前年1893年、英国地理学会特別会員になっています。

 

1894年の冬、長崎から釜山に上陸、海路済物浦(今の仁川)からソウルに入り、同年4~6月、ソウルから漢江(南漢江)を南下、さらに北漢江から現在は北朝鮮の領土になっている金剛山、元山までの旅をします。

船で一度釜山から、ソウルに戻ろうとしますが、政情不安に巻き込まれながら、同年7月遼東半島の北、奉天への旅をします。

奉天から一度長崎に帰ったあと、今度は、ウラジオストックから、北の地と朝鮮との国境に旅しています。

1895年にはソウルを起点に陸路平城へ、さらに2年後の1897年、最後のソウルへの旅をし、この本を出版しています。

この旅の途中で日清戦争が勃発しますが、その話はあと回しにして、当時の朝鮮がどのような国であったかを、他の文献も参考にしながら整理しておきます。

細かいところに間違いがあるかも知れませんが、大筋では間違っていないと思います。

 

この時期、誰もが指摘しているのですが、李氏朝鮮末期は国家として最悪の状態にあった。王族は権力争いに終始し、それをとりまく役人は度を越した不正・腐敗にまみれていた。

この国には搾取する階級と搾取される階級があり、搾取する階級は全人口の43%にもなっていた。

搾取する側の特権階級は両班(やんぱん)といわれ、貴族階級であり、自分はいっさい働かず、またなにをやっても許された。すなわち両班は、無制限に下層階級を搾取し、腹いっぱい食べること、たらふく酒を飲み酔っぱらうことが、尊ばれていた。

下層階級の人々はまさに犬畜生の生活で、泥まみれの糞尿のなかでのたうちまわっていた、といってもいい程のみじめな生活であった。

農民が少しでも蓄財したことがばれると、役人から徹底的に吸い取られ、それに抵抗すれば、拷問され、殺されるので、農民はそれ位なら、最低の生活で生きていく方がましであった。

両班が宿に泊まっても、食い放題で、いっさいの支払いをしないので、宿屋はなんとか口実を作って、上流階級の人たちを泊めないようにしていた。

女は完全な蟄居生活を強いられ、外出することは許されず、ただただ、夫や親のために働くことが義務づけらていたし、夫が不貞をはたらいても一切のお咎めがないのに、妻の不貞は厳しく罰せられた。

キーセンは男たちの相手をする女で、きれいに着飾り、外出することができた。貧しい家では、娘を嫁にではなくキーセンに出していた。

ようは、グータラ支配階級は好き勝手のやり放題で、下層階級は貧困の極限にいた。バードは何度も支配階級を批判しています。

このような社会体制のなかで、1863年第25代国王哲宗が後継を決めないまま死亡する。そこで先王の母親は、新たな王(高宗)を傍系貴族から指名し、自分は摂政となるが、政治に立ち入らず、新王の父親に実権を委ねた。

この父親が興宣大院君(通常単に、大院君)で、大院君は清に近づき復古政治の徹底を目指す。成人した高宗が妻に迎えたのが、閔氏一族の女性・閔妃(ビンキ)であったが、閔氏一族は大院君を失脚させ、政治の実権は凡庸な高宗ではなく閔妃が握り、ロシアへの接近を試みていた。

このような情勢のなか、バードは朝鮮を訪れた。

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