ウェストファリア体制 2

前回ご紹介した倉山満著「ウェストファリア体制」 について最初にお断りしますが、私はこの本の語り口は大嫌いです。

「本」は冷静に議論しなければいけないのに、この本は端から端まで煽り運転です。

例えば、「はしがき」で「日本人の全人類に対する罪」と題して、
「甚だしい勘違いが蔓延しています。『古い時代よりも新しい時代の方が文明的である』との思い込みです」という。
それについて、著者なりの理屈をつけていて、その理由付けそのものには反対しないが、物事は他の視点からの考察も必要なのであって、それだけでの断定は全く説得力がないのです。

このような断定が至るところにあって、更に悪いことには、著者はいったい何が言いたいのか、よくわかりません。とにかく騒々しく叫び続けます。

最初にウェストファリア条約が締結された時代背景・いきさつを書かなければいけませんが、本書では何が何だかわからないので、WEBをあちこち調べてまとめてみました。

 

ドイツの北に位置するネーデルランドは当時スペイン・ハプスブルク家の領地でしたが、キリスト教新教を信じる北部が1588年事実上独立し、1648年ウェストファリア条約が締結された時、正式に独立が認められます(当地の首都ホランドから日本ではネーデルランドのことをオランダといっています)。

日本で秀吉が信長の後継者の地位を切り取ろうとしていた頃、後に「国際法の父」といわれるフーゴー・グロティウスはオランダの名門の家に生まれます(1583年)。
グロティウスは幼少から神童といわれ、8歳でラテン語の詩を作り、11歳で名門大学に入学、14歳で卒業、15歳でオランダ使節団の一員としてフランス宮廷に赴いたとき仏国王アンリ四世は彼を「オランダの奇跡」と讃えたといいます。16歳で弁護士事務所を開設、総統クラスの弁護をするなど、10代で既にオランダを代表する知識人だったといいます。

しかし、順風満帆だった人生の歯車が35歳のとき突然狂いだします。宗教論争に巻き込まれ、終身刑を言い渡されて投獄されます。が、37歳の時大きな本箱に隠れて脱獄(最近似たような話がありました。こちらは楽器ケースでした)、フランスに亡命します。

フランスでの不遇の亡命生活の中で、1631年「戦争と平和の法」を出版、ローマ教皇庁からは禁書指定を受けますが、本書は市井では根強い支持を得ていきます。

フランスで亡命生活をしていたグロティウスは30年戦争に介入したスウェーデンから要請を受け、1634年駐仏スウェーデン大使に就任しています。

 

16世紀カトリック教会の腐敗を批判して新教が興り、信仰の対立が原因で各地に戦争が勃発します。

神聖ローマ帝国内で新教が勢力をのばすと、国内の諸侯は敵味方に分かれて内戦がおこります(1618~1623)。これに続いて新教のデンマークが介入(1625~1629)、続いて同じくスウェーデンが介入(1630~1635)、最後にカトリック教の国フランスが介入(1635~1648)し泥沼の殺戮を展開します。

この戦争はとても悲惨で、ドイツ中央部の人口1700万人が700万人にまでなったといいます。
悲惨だった理由は、ルールなき殲滅戦だったからです。異端は人間とはみなさないので、殺すのに何のためらいもないばかりか、単に殺すだけでなく、苦しめて殺すのが当然になっていたといいます。

 

そのような30年に及ぶ殺し合いの果てに、さすがに厭戦気分が高まり、ドイツ北部のウェストファーレン州で、戦争にかかわった146の地域・国が使節を送り、4年に亘って停戦交渉をし、1648年ウェストファリア条約が締結されます。これは世界史的に画期的なことであったといいます。

この会議で決められた内容は膨大なようですが、大きくは次の点だと言われています(WEBのコピペです)。

・ 世界で初めての「国際会議」であり、初めて結ばれた「国際法」であった。
・ 宗教について新教徒(プロテスタント)を認めた(即「信教の自由」ではない)。
・ ドイツ地方は解体され、それは「領邦国家」としての「国家」を定義したこととなった。
・ 「国家」を定義し、その「国家」の単位で国と国との政治を進めるという基礎が出来た。

目に見えてはっきりしたことは、神聖ローマ帝国国内の300におよぶ諸侯が主権国家(戦国大名に近いのでしょうか)として独立した。それだけでなく神聖ローマ帝国の領土はフランスやスウェーデン等に割譲され、神聖ローマ帝国は壊滅したということのようです。

この会議は世界で初めての代理全権大使による国際会議であり、締結された内容は世界初の国際法と言われるもので、グロティウスの思想が大きく貢献したといいます(残念なことにグロティウス自身は1645年海難事故で亡くなっています)。

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