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会田雄次「アーロン収容所」

会田雄次さんは、私が若いころ今でいうコメンテーターとしてチョクチョクテレビに出てきて、
どんなことを言っていたのか覚えていませんが、コメントの後、シャクレタ顎で必ずニヤットするのを覚えています。

その後、あまりお見かけしませんでしたが、およそ15年前(1997年)にお亡くなりになっています。時の移り変わりを改めて気付かされます。

当時京大の教授で、
「アーロン収容所」(初版1962年、中公文庫版 1973年)の著者だということは知っていましたが、これまで読む機会がなくて今回初めて読んでみました。この本は教授が収容所で捕虜生活を送った日々を書いたものです。

著者は敗色濃厚だった昭和18年冬、初年兵としてビルマ戦線に送られ英軍に対峙しますが、戦力不足によりビルマ(現ミャンマー)東南に追い詰められ全滅を覚悟したとき終戦を迎えます。
英軍に武装解除され、その後約2年間ラングーンのアーロン収容所で重労働を強いられます。

この経験で著者は、
「英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰った来た」
といっていますが、この本では具体的な反感を持つに至った事件について、赤裸々な書き方をしていません。

収容所が楽しい筈はありませんが、面白そうな話を色々書いています。
著者は、辛いことがなかったのではないが、悲惨そうに書くのは「照れた」といっています。
分かる気がします。

一つ注意すべきは、彼らはいわゆる捕虜ではなく「被武装解除軍人」だったことで、戦時中に捕虜になった人たちは、更に悲惨だったろうといっています。

時々、垣間見る日本人捕虜はまったく別集団のように見えたといっています。

 

著者らは一か所に集められ、自由に外出することは禁じられます。基本、収容所では英軍の雑用や町の汚物掃除や港の荷役作業等をしたそうです。

その一方、衣服はもちろん、生きていくだけの食糧も与えられなかったので、英軍倉庫から盗んだり、様々なものを作ってビルマ人に売ったりして生き延びています。

何もない中で演劇をやったり、楽器を作ったり、本を書いて回覧したりそれなりの気分転換をしていたそうです。

この本で私が関心を持ったのは2点、日本軍・英軍の残虐行為がどうだったのかと、ビルマやインド人等の東南アジアの人達が日本人をどのように思っていたのかということです。

著者自身は英軍から肉体的な残虐は受けなかったそうですが、だからといって優しかったということではなく、精神的な残虐を受けたといっています。

要するに日本人を人間とみないで、まるで動物のように見ていたということです。これは前回ご紹介した[容赦なき戦争]の中でダウのが言っていたことを裏付けています。

彼らは、英人の女兵士の世話を当番でしますが、彼らに汚れたパンツの洗濯をさせたりしたということです。

また著者が、ある日女兵士の部屋に入ると一人の女が全裸で鏡の前で髪をすいていたが、女は何の恥じらいもなく、彼を完全に無視したし、同僚の女兵士も全く知らんぷりだったということです。

また、「禿鷹」とあだ名されたイギリス人収容所長は、夜の護衛役として日本人を使ったのだが、夜な夜な、ビルマの売春婦を連れ込み、日本人を無視して乱行に耽ったということです。最初のうちは日本人も面白がったが、やがて自尊心を酷く汚され落ち込んだといっています。

日本人捕虜と話す機会はほとんどなかったそうですが、ある時一人の捕虜と話す機会がありました。日本人捕虜から次のような話を聞いたといっています。

泰緬鉄道(映画[戦場に架ける橋]の舞台)の建設を指揮した日本軍100数十名が捕虜になっていて、彼らは戦犯部隊として川の中州に集められていました。その中州は潮が満ちれば水をかぶるので、兵士たちは一日数時間水につかっていなければなりませんし、もちろん草木も生えていません。

彼らは食糧は与えられず飢えに苦しんでいました。

そこには”毛ガニ”がたくさんいましたが、英軍はカニには病原菌がいるので、食べてはいけないといっていたそうです。

日本兵は飢えに耐えられず、火を入れる手段もないので、結局みんな生で食べたということです。

当然の結果、日本兵は赤痢にやられ、血へどをはいて死んでいきました。

英兵は対岸から双眼鏡で毎日観察して、全員死亡したのをみて、「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく (中略) 全滅した」といったそうです。

 

ビルマ人の残虐行為について、著者の体験を一つ書いています。

上官と二人で本隊に追いつこうと死線をさまよっていたとき、累々とする日本兵の死体の中で一夜を過ごすことになりました。

温厚なビルマ人が日本人の金歯をとる現場に遭遇したのです。暗闇に中で、日本人の断末魔の叫びを聞きます。女子供を連れたビルマ人の集団がまだ息のある日本人の頭を砕いて、金歯を取り出したということです。

 

残忍性については、文化によって生命を絶つ方法は異なるので、どの方法がより残忍だとはいえないと筆者は言っています。

なお、日本軍の残虐行為については、具体的に書いていません。

 

私は関心があったもう一つのこと。
東南アジアの人々は日本人をどう見ていたのかといことです。

著者が接したのは、ビルマ人、インド人、ネパール人(グルカ兵)です。インド人とグルカ兵はイギリス軍の一部ですし、ビルマ人は民衆です。

グルカ兵は一徹で、日本人にはとても厳しかったそうです。

しかし、インド兵とビルマ人は日本人に好意的だったようで、インド兵はイギリス軍の一員だったので、それなりに厳しい態度も見せましたが、酷く日本人に敵対することはなかったようです。

現地のビルマ人と接することは禁じられていましたが、イギリス兵の目を盗んで、ビルマ人と接触したし、時にはご馳走してくれたりしています。

 

私は幼いとき、終戦で韓国ソールから引き揚げましたが、ソールからの引き上げではそのようなことはありませんでしたが、満州や朝鮮の奥地からの引き上げは大変悲惨だったようです。

こうしてみると、今の韓国や東南アジアの対日関係は、そもそも戦争中あるいは終戦直後からの根の深いものだと推測します。

ジョン・ダワー「容赦なき戦争」 3

この本の残りの部分は第三部・日本人からみた戦争第四部・エピローグです。

第三部・日本人からみた戦争では、予想通り、日本が独りよがりに自分を美化することばかり熱中していたと、色々な資料を基に日本および日本人を分析します。

原著では、詳細な参照文献が明示されているようですが、大変残念なことに、この翻訳本ではそれらが一切省かれています。そのため読んでいて今一つ真実味が薄れます。

まず、日本人の個人的行動規範は「其の所」を重要視するといいます。「其の所」はルース・ベネディクトが「菊と刀」で指摘した概念で、日本人は階層制度を信奉し、階層そのものを否定することなく、与えられたそれぞれの「其の所」に満足し、「其の所」で本分をはたそうとするといいます。

実は私は「菊を刀」を読んでいませんし、かつて「其の所」という言葉もその意義も考えたこともありませんでしたが、当時日本に階層制度があったかどうかは別にして、「身の程に生きる」という考えは特に戦前にはあったのだろうなと思います。

日本人の自己中心的・内省的思考法は何処からきたのでしょうか。

もちろん、島国という地理的条件が一番大きいのでしょうが、儒教や仏教の影響もまた大きいと推測します。儒教や仏教には自分を見つめ戒める教えが多いのではないでしょうか。

内省的思考では、仲間と仲良く力を合わせていくには都合がいいし、争いがあっても仲間内のそれである間は、結局日本人の行動規範のうちに収まってきたと思います。

しかし、自己内省的で周辺への同程度の考察がなければ、自己満足というものです。言い換えれば井の中の蛙で、日本民族だけでの付き合いでは、結構都合よかったと思いますが、第二次世界大戦という、まったく異なる価値観と全面衝突したとき、その脆弱性を露呈したと思います。

日本人は自国を美化することに勢力を尽くします。日本の歴史は2600年続く神の国であり、天皇をいただく世界に類のないすぐれた民族だと断定します(現在の、南北朝鮮の主張を連想します)。

昔話「桃太郎」を自分=日本人に重ね、漫画や映画を作って陶酔します。清廉・潔癖な桃太郎は犬や猿を家来にして鬼退治します。桃太郎とは日本人であり、犬や猿は韓国・台湾であり、鬼は西欧です。

やがて、大東亜共栄圏なる世界ビジョンを打ち上げ、世界の中で最も優れた日本民族がその中心に座り、東南アジアの国々を従えて、西欧帝国主義に対峙するのです。

東南アジアへの進出は、旧来の植民地支配とは異なるもので、日本民族が中心になったアジアの解放と繁栄を目指すものだといいます。(しかし、日本がどのように言おうが、結局のところそれは新たな植民地支配に過ぎないと著者はいいます。)

日本はその実現のためには人口を増やし、統治者として外地に移住しなければいけません。当時7000万人であった日本人の人口を1億人にする目標をたて、「産めよ増やせよ」の政策をとりります。

大東亜共栄圏なるものに対して、東南アジアの人々は強く反発したと著者は述べています(私は大東亜共栄圏の実態をまだ勉強していませんので、この問題についての私見は保留します)。

 

第四部・エピローブ

結局のところ、日本人のこの夢物語は、東南アジアを巻き込んだ大きな被害とともに、1945年8月終焉したのですが、最後の1年間の死者は、それ以前の死傷者数を超えていました。

第二次世界大戦での死者数は5,500万人にのぼるということです。

このうち日本人の軍民の死者数は210万人(一説のは250万人以上)、終戦の年のアメリカの空爆による民間人の死者40万人にのぼります。

東南アジアの国々でもたくさんの死傷者を出しています。

 

ところが、終戦と同時に、あれほど憎しみあった日米の敵同士は、あっけなく友好的関係になります。

どうしてなのか。

それは「それぞれの相手に対するステレオタイプを都合よく入れ替えたからだ」といいます。

日本からすれば「アメリカはそれほど悪者ではなかった」と考え、一方のアメリカは戦時はあれはど日本人を軽蔑し「黄色い猿」といって罵ったのに態度を変え、「日本人は大人になりきれない子供なのだ」、
「欧米が45歳とすれば日本は12歳の子供であり、大人は子供を矯正しなければいけない」と考えました。

そして日本人はここでも「其の所」の精神を顕在化し、時の首相鈴木貫太郎は「『よき敗者』にならなければいけない」といって憚らなかったと著者はいいます。

こうみてくると、結局のところ日本人は戦争中・戦後そして今日に至るまで、幼児性を卒業できないままでいるように思います。

 

この本は1987年に、英語版と日本語版が同時に出版されました。その時期は、日米の経済戦争が激しくなってきた時期で、欧米は日本を「エコノミックアニマル」といって、「ジャパンバッシング」が激しくなった時期です。

このような状態の中で、著者はこの本を世に問うことで、愚かな人種戦争への警鐘としたかったと思われます。

著者ジョン・W・ダワー(現MIT教授)は一時期日本に住み、夫人は日本人だそうです。日本には一角のシンパシーをもっていると思われます。

先にも書きましたが、この本に参照文献の明示がないのが大変残念ですが、総じて著者の主張は正しいように思います(戦場の実態の記述は判断保留です)。

私は先の大戦でいえば、「日本が悪かった」とか「アメリカが悪かった」とか、悪者探しするよりも、事実がどうであったかを明確に知ることが重要だと思います。

そしてそれぞれの立場、弱点を考慮したうえで、どのように付き合っていくかが重要です。

個人の世界で考えたとき、友人関係で真の友人であれば時に耳の痛いことをいうことは当然あるし、逆に言われた方もまた、いうことがあれば冷静に反応するのも当然です。

国際関係でも同じで、国同士は時に利害が反することは当然あることです。そのときお互いを十分理解したうえで、「あなたと立場が違う」とはっきり言わなければいけません。

アメリカが「失望した」といえば、「一大事」とばかりビビりまくる日本の知識人・マスコミの芯のなさには、失望を通り越して怒りを覚えます。