家柄

家柄とか家風とかは死語になっているかもしれません。

しかし、私は時々「家柄」や「家風」について考えます。

平凡な家系に突然猛烈に頑張る人間が出現することがあります。「掃き溜めに鶴」とか「成り上がり者」という言葉がありますが、あまり恵まれていない家系の中から、抜き出た人を揶揄してそういいます。

長いつらい下積みからやっと目標の地点に到達した人は、「やった」という達成感でこれまでの我慢の裏返しとして、他人が見れば滑稽だったり、見苦しかったりの方法で自己表現します。

しかし同じように苦労をした人でも、逆に傍目には爽やかにみえる場合があります。
どこに差があるのでしょうか。

多分その人が苦労を苦労と思うかどうかの「意識」の違いだと思います。同じことでも、ある人は辛いと思い、ある人は「別に。特別なことではないよ」と思うかもしれません。

その違いはその人の成長の過程で精神的な支えがあったかどうかの違いに起因するのでしょう。

周りに支えてくれる人がいなければ(少なくとも自分でそう思っていれば)、彼は歯を食いしばり「負けるものか」と強い意思を持続しなければいけません。そうでなければくじけて絶望の淵に沈んでしまうでしょう。彼は自分に厳しく、周りに厳しい態度をし、
「なんだあの野郎」
「生意気な奴だ」と多くの場合決して好かれることはありません。
彼が背伸びをすればするだけ、周りとの軋轢も大きなものになります。

逆に周りに、
「そのようなことをするものではない」とか、
「そんなことはできて当然でしょう」とかいってくれる人がいたり、言葉よりも前に生活の一部としてそのような行動規範をもつ人は、他人を不愉快にする態度をとらないのでしょう。

長じれば友人が人の精神的成長に大きな影響を与えますが、そもそもはその人が育った家が決定的に重要な役割を果たすでしょう。

そのような家系に生まれなかった人、忠告してくれる友人もいなかった人は、自分で思い知るまで「馬鹿なこと」を積み重ねます。

しかし、馬鹿なことをしてたくさんの失敗や反省から多くのことを学びます。自分の能力の可能性や限界や、他人の痛みや優しさや正義感や人の世のバランス感覚や。

「だからどうした」

別に意味はないのです。
自分の出生を嘆いたり、他人のそれを羨んでみても何の意味もありません。

他人が羨む家系に生まれ、それに甘んじ他人の心や現実社会での正義を学び取っていないまま、勘違いして総理大臣になり、一国に多大の損害を与える人間もいます。

また自分の環境に飽き足らず背伸びし、周りにたくさんの迷惑をかけ、その分他人からの責めを甘受しなければいけないこともあります。

自分の人生を振り返り、恥じ入りあるいは「もうこれでいい」と「丸く」なる人もいるし、
そうならない人もいます。

吉田拓郎はどういう家柄の人か知りませんが、精神的には背伸びして生きてきたのでしょうか。

「俺を許してくれ」という歌があります。
その中に、
「家族を乗り越えたけれど こころが痛い こころがつらい」
という一節があります。

とても切なく何度も聴けません。

私も「前へ」と生きてきたましたが、「たくさんの迷惑をまき散らしたのだろう」と。
「でも、しかたなかったのだ。愚直に生きてきただけだ」とも考えます。

他人の人生を実証的に調べたことはありません。
自分自身の人生や、秀吉やTVに出てくる人たち-尾崎将司や石川遼や吉田拓郎や色んな人の人生をぼんやりみているとそんなことを思います。

それにしても、それなりの家系というのは、三代同じ想いを想い続けて初めて形になるのではないかと思います。孫が爺さんを尊敬しなおかつ乗り越えようとするとき、やっとその家の家柄がきれいな色合いに染まってくるのでしょう。

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