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秦新二「文政十一年のスパイ合戦」

インターネットで調べると、第11代将軍家斉は、側室40人、子供が55人、将軍職在位徳川最長の50年で、あまり評判がよくないですが、昨今は「いやそうでもない」という説もあるようです。

さて、この家斉は15歳で将軍になり、17歳で薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の娘・茂姫と結婚します。

当初家斉が幼かったこともあり、松平定信が老中筆頭として政治を執行します。
定信は前将軍家治時代の田沼政治への反省から、緊縮政治を行い「寛政の改革」を断行しますが、その政治手法があまりにも過激だったのでうまくいかず、結局失脚します。

その後しばらくは、定信を補佐していた老中が定信路線の政治を続行しますが、やがてそれらの長老も政治の場から去っていき、ここで初めて、家斉が政治の実権を握ることになります。

実に将軍職について30年にしてようやく真の「将軍」になったのです。家斉はさっそく幕閣を一新し、老中に腹心の大久保忠真をすえ、勘定奉行には御庭番(家筋)の村垣定行を抜擢します。

 

そもそも家斉が茂姫と婚約させられたのは、二人とも3歳の時です。それ以来、茂姫の父・島津重豪(しげひで)は家斉に付きまといます。家斉にしてみれば、重豪は怨霊のようなものだったのです(私の想像です)。

シーボルトが来日したとき、重豪はすでに80歳で、家督を息子に譲っていましたが、将軍の岳父という立場を利用して、諸大名の中で依然大きな影響力を持っていましたし、勝手な振る舞いを続けていました。

薩摩藩は木曽川の治水工事に駆り出されたことが発端となり、藩の財政を極度に悪化させていました。重豪はそれを挽回すべく、色々な手を打ちますがうまくいきません。

薩摩藩は密貿易に手を染めます。

家斉は薩摩藩に唐物取引の独占権を与えて優遇していたのですが、さらに重豪はオランダとの取引をやらせてほしいと願い出、シーボルトが参府するにあたって、頻繁にオランダ・シーボルトに接触してきます。シーボルトも「江戸参府紀行」に中で、重豪と長時間話をしたと記しています。

家斉はこれを利用します。家斉にしてみれば、重豪への反撃の時がきたのです。
秦は次のように書いています。

「家斉にとっての最大の目の上のタンコブは、自分の正室茂姫の父島津重豪であった。重豪は先代の将軍家治時代の老中田沼意次やオランダ商館長ティチングとも親しく、幕閣の内幕を熟知していた。もともと家斉が将軍になれたのも、重豪の画策によるものが大きく、家斉は頭があがらなかった。重豪は形の上では相談と称しながら、次々と要求を行ってくる。隠居と称しながら派手に動き回る一方、薩摩藩の実情は幕府によく伝わってこない。一説によると、莫大な借金で藩はいますぐにでもつぶれそうだともいう。家斉は定行に命じて薩摩に隠密、御庭番を派遣するが、生還する者が数少なく、限られた情報しか得られなかった。
そんな折、舶来好みの重豪が最も関心を寄せるオランダ商館に、有能な医師がやってきたときき、それを餌に重豪を釣ってやろうと家斉は画策し、定行を通じてシーボルトに便宜を図ってやるように命じる。
シーボルトの江戸参府の際に、コレクション収集がはかどったのも、高橋作左衛門の協力が容易に得られたのも、陰で家斉の意向が働いていたからに違いない。」

すなわち、秦がみるところ、シーボルト事件の表の部分は、作左衛門とシーボルトの関係を林蔵が密告したということだが(異説あり)、その裏では勘定奉行の村垣定行が糸を引いていたのだし、裏の裏は実は家斉が重豪に鉄槌を下すために仕組んだ事件であったということです。

「シーボルト事件」が大事件になったことで、家斉の目的は半分以上達せられます。
徹底して事件の真相を究明すれば、事件の裏を露呈することになる。「裏で動いた林蔵や村垣定行やひいては家斉の動きを表に出すのは得策ではない」。

すべてを作左衛門とシーボルトのせいにして、後は事件の幕を引くだけだったのです。

そして現にこの事件をきっかけに、島津藩からはあれほどあった要望はぱったりと止まります。事件後5年で重豪もこの世を去り、家斉は重豪なき後の薩摩藩に対しては、容赦のない締め付けをしています。

 

これが著者・秦真二が描く事件の全貌です。

著者はそのことを様々な資料をもとに証明しようとしています。
私にはその正否を判断するだけの知識がありませんが、私がシーボルトの「紀行」を読んだときに「なぜ?」と思ったことはこの説明で納得できます。

「なぜシーボルトがやすやすと禁制の資料を手に入れることができたのか」。
「なぜ、大っぴらな行動が見過ごされたのか」。
「なぜ、事件の捜査が、中途半端で終わったのか」。

シーボルト事件

前回に続いて、秦新二著「文政11年のスパイ合戦」(以下「スパイ合戦」)に従って話を進めます。

 

若いシーボルトは日本に着くと直ちに、オランダ・ウィレム1世に命じられた任務を精力的に遂行していきます。彼の任務とは、博物学的調査、日蘭貿易戦略調査、軍事・戦略調査です。

彼にとってなによりも幸運だったのは、当時の長崎奉行が高橋越前守重賢だったことです。

越前守はそのとき既に69歳でしたが、元はといえば北方防備のスペシャリストで、彼の部下あるいは影響下にはシーボルト事件の重要人物、最上徳内、間宮林蔵、高橋作左衛門がいました。

徳内と林蔵はかつては、越前守の部下として北方警備に従事していたのです。

間宮林蔵は言わずと知れた探検家で間宮海峡の発見者ですし、最上徳内はその上司でした。徳内72歳、林蔵51歳で、徳内はすでに隠居していましたが、実は彼らは隠密筋だったのです。

もう一人の重要人物・高橋作左衛門は、天文方兼御書物奉行で幕府の文書管理の責任者でした。作左衛門は父の家督を継いでこの要職を得ていましたが、出世欲、名誉欲が強い人物だったといわれ、たたき上げの徳内、林蔵とは不仲でした。

さて「スパイ合戦」によると、江戸に着いたシーボルトは、あらかじめ連絡をとっていた御典医の他に、長崎奉行に紹介された、最上徳内、間宮林蔵、高橋作左衛門に会っています。ただし、シーボルトの「江戸参府紀行」(以下「紀行」といいます)では、徳内の名前は頻繁にでてきますが、林蔵の名前はでてきませんし、作左衛門はグロピウスとして出てきます。

秦新二は、「シーボルトは『紀行』の中で、本当に重要なことを書いていない」、「作為的に隠ぺいしている」といっています。

国防や天文方の役人がどうして、オランダ人と会うのか不思議に思いましたが、当時外国人の対応は天文方の役割と決まっていたようです。

日本側の3人はシーボルトからロシアの動向や他のヨーロッパの情勢を知りたかったし、特に作左衛門は自身の栄達のため、シーボルトが持っていたロシア海軍提督・探検家のクルーゼンシュテルンの「世界周航記」がどうしてもほしかったのです。一方のシーボルト=ロシアの南下に神経を使っていたオランダ=は、北方の蝦夷地や日本の詳細な地図がほしかったのです。

 

ともかくシーボルトはこの旅行で直接手渡されたり、長崎に帰ってから送ってもらったりたくさんの収穫をします。特に作左衛門とは頻繁に手紙のやり取りをして、しつこく自分がほしいものを要求しています。

その中には、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」や、江戸城の見取り図やたくさんの重要書類がありました。(間宮林蔵の樺太の地図は、江戸参府の帰りに徳内から直接手渡されたようです)

事件の発覚は色々言われているようです。どれも本当のような、推測のような話です。

林蔵はあまり親交がなかったシーボルトから書状を貰いましたが、当時外国人との勝手な文通は禁止されていましたので、林蔵はそれを開封せず役所に届けます。

この手紙の中で、シーボルトと作左衛門との緊密な関係が露呈し、それがきっかけでシーボルトおよび作左衛門の調査が始まったという説があります。

またシーボルトのコレクションを満載したハウトマン号が出航を直前にして、台風に遭遇し座礁します。シーボルトの行動を怪しんでいた、長崎奉行はただちに遭難船の積荷を調べたところ、大量の禁制品がでてきたという説もあります(1996年の論文では、ハウトマン号にはなにもなかったといっています)。

また、作左衛門の指示で禁制の日本地図のコピーを作成させられた図工4人が、「恐れながら」と勘定方に届け出たとも言われています。

どちらにしてもシーボルトをマークしていた役人が、これらのことをきっかけに事件の真相を究明すべく動き出した。ということかと思います。

作左衛門や関連する役人・民間人が多数逮捕され、取り調べを受けます。そして驚くほどたくさんの禁制品が発覚します。

シーボルトも再三に亘って取り調べを受けますが、自分以外の人々に関することは「知らぬ存ぜんぬ」で押し通します。

結局シーボルトが国外追放になったほか、作左衛門が獄死・死罪、図面をコピーした図工の一人が自害、眼病の治療法を教えてもらった御典医がそのお礼として将軍から頂いた(帷子)衣服をシーボルトに贈り、その罪で長期の留置を課せられましたが、その他は大した罰も受けず放免されます。

シーボルト事件は一件落着です。

 

ここで私が一つ不思議に思ったのは、ケンペルが長崎奉行所には拷問の道具があって、「長崎奉行は『この道具を使えば、だれでも白状する』といっている」と書いていますが、なぜこの事件の取り調べでは、そこまで徹底して取り調べをしなかったのだろうか。ということです。

一般市民には残酷な拷問をしたけれど、武士階級には拷問しないで、尋問で終わらせていたのでしょうか。

 

ところが、著者・秦新二はこの話には裏(更にはその裏=奥)があると主張します。そしてこれこそが、彼が展開したい事件の真相です。

シーボルト

前回シーボルトの[江戸参府紀行]をご紹介し、その中で「シーボルトは胡散臭い」のようなことを書きました。

アマゾンで注文していた「文政11年のスパイ合戦」(秦新二、文芸春秋1992年、以下[スパイ合戦]といいます)が届きましたので、読んでみました(中古本で送料別で251円でした)。

私のカンは当たっていました。

 

シーボルトが持ち帰った資料は膨大なものでしたが、いつしかその資料は顧みられなくなり、ヨーロッパの各所に散乱していました。

シーボルトに関心をもっていた著者は、それらを探し出し整理し、シーボルト事件の本質を推理します。平成4年日本推理作家協会賞を受賞しています。

この本によると、シーボルトはただのオランダ商館付の医者ではなかったのです。
アジアでの勢力争いをしていたオランダが、唯一オランダとの貿易を許していた日本を調査することは、オランダだけにできたのであり、これを利用しない手はなかったのです。

日本調査の適任者を探しましたが、オランダ人の中からは見つけることができず、名門の出であり、すでに高い評判を得ていた26歳のドイツ人医師シーボルトに白羽の矢をあてます。

オランダ・ウィレム一世の命を受けて、シーボルトは国王直属の軍医少佐に任ぜられ、東インド会社(オランダ貿易会社)付の医師としてジャワに向かいます。

シーボルトは日本調査に必要な費用をいわば無制限に約束され、その支給は東インド会社からではなく、ジャワの蘭印政庁からのものでした。

彼はジャワ・バタビア(現インドネシア・ジャカルタ)で準備万端整えて、日本にやってきます。彼はオランダ商館付医師としての顔の他に次のような任務を持っていたのです。

博物学的調査
日蘭貿易戦略調査
軍事・戦略調査

私の「なぜ?」はこれで分かりました。
「なぜ彼は若いのにあんなにお金をもっていたのか」。
「なぜあれほど、執拗に日本の地理をしらべたのか」。

 

そして結局「シーボルト事件」を引き起こします。

[スパイ合戦]の記述を参考にして、もう一度シーボルトの日本での行動を簡単に整理します。

シーボルトは日本に来てすぐに、出島で医者としてのデモンストレーションをします。

シーボルトの腕はすぐに評判になり、多くの蘭学志向の医者が教えを乞いに来ます。

長崎奉行は特別に許して、シーボルトに「鳴滝塾」の開設を認め、ここには多くの優秀な日本の医者が集い、その輪が瞬く間に広がっていきます。

シーボルトはここに集まった学者を利用して、日本の動植物を集めさせ、日本の様々な事柄について、オランダ語の論文を書かせて日本の情報を収集していきます。(後にこれらをもとにヨーロッパの学会で自分の論文として発表しています。セコイ)

また、写真のない時代ですから、日本人画家・川原慶賀を雇い1000点以上の様々な絵を書かせ、更には多くの模型(橋の模型は禁制です)を作らせています。

シーボルトに群がったのは、若い学者だけではなく、オランダかぶれの大名([蘭癖大名]といわれました)もいました。

その最右翼が将軍家斉の正室の父親・島津重豪(しげひで)です。重豪は当時80歳近くの高齢でしたが元気で、シーボルトには江戸で数回長時間会っています。

 

私はシーボルトの[江戸参府紀行]を読んで感じたのは、僅か30歳程の若者に、「どうしてみんないともやすやすを協力したのだろう。危険を感じなかったのろうか」
「日本人はお人よしというか、外人に弱いというか。どうなっているのか」と思います。(でも、鎖国状態の日本の知識人にとっては、シーボルトは掛け替えのない情報源だったのでしょう)

それとシーボルトは日本人を甘く見ていたのか、あるいは「若かった」というべきか、「はしゃぎ過ぎだろう」と思いますし、彼の行動をみていると、誰だって「どう見ても医者の仕事を逸脱している」と思うだろうということです。

 

彼がジャワに帰ろうとしたとき、事件が起きます。当時、国外持ち出し禁止であった地図や多数の禁制品がシーボルトの荷物から出てきます。シーボルト事件です。

 

[スパイ合戦]はこの事件の深層を探ります。

シーボルト「江戸参府紀行」

シーボルト「江戸参府紀行」(1967年、平凡社 東洋文庫)を読みました。

江戸参府旅行記はこれで3冊目です。
年代順にいえば、ケンペルが第5代将軍・綱吉治世の1691年と92年、ツュンペリーが第10代将軍・家治治世の1776年、シーボルトが第11代将軍・家斉治世の1826年の参府です。

 

シーボルトは1796年ドイツ医学界の名門の家に生まれ、1823年27歳で初来日、約6年間滞在しています。

シーボルトはこの本の中で、オランダ人でないツュンペリーやシーボルト自身が、日本入国に際して、オランダ商館の医師として認めてもらうのは、大変だったと書いています。

来日3年目の1826年2月15日から7月7日に亘って、長崎を発って将軍謁見の旅をします。当時のオランダ商館は、4年に一度の参府が義務付けられていたようです。

年齢でいえば僅か30歳ほどでしたが、長崎ではすでに医者としての名声を得ていたようで、当地に塾を開き多くの門人を持っていましたし、日本各地にも沢山の知人や門人を持っていたようです。

シーボルトは帰国に際して、伊能忠敬の日本地図を持ち出そうとしたいわゆるシーボルト事件を起こし、数人の日本人が処刑され、彼自身は日本を追放されていますが、この旅行でも日本の地理についての情報収集は異常さを感じます。

単純に研究としての知識欲だけだったのだろうか。イザベラ・バードもそうですが、彼らの旅行には相当の費用が必要だったでしょう。特にシーボルトは様々な工芸品や動植物の標本を購入しています。女性や若者にそれだけのお金がどうしてあったのだろうか。と素朴に思います。彼らが国からの何らかの任務を帯びていたと考えても不思議ありません。

ケンペルもツュンペリーもシーボルトも禁制であった日本地図を持ち出していますが、キナ臭さを感じます(何の根拠もありません)。

江戸幕府がキリスト教を排除し鎖国をした背景には、西欧がキリスト教をテコにアジア諸国に入り込み、やがては軍事力で植民地化したいきさつがありましたし、日本侵攻の意図ありとみなされる文書が見つかったりしています。

 

さて、シーボルトは日本から大量の資料を持ち出し(全部が禁制品だった訳ではない)、大部の「日本」を著します。

これとは別に未発表の旅行記が死後に発表されます。それが本書「江戸参府紀行」です。旅行の直後に書いたものではないので、感情的な記述や「好き・嫌い」のような記述がほとんどありません。

基本的には「日本大好き」だったのではないでしょうか。

長崎を出発して将軍に謁見し、また長崎に帰ってくるまで、門人や行く先々の名士との医学や動植物についての情報交換をし、目にする動植物の記述、日本の医療や手工芸等についての細々とした記述をしています。

トキやツルやカワウソやオオカミや様々なものをみていて、「そうなんだ」という話がいろいろあります。

将軍謁見はごく儀礼的なもので、ケンペルのように歌を歌わされたり、寸劇をするようなことはなかったようです。

また先にも書きましたが、旅の途中での各所の地形や瀬戸内海の水深等、機会を見つけては自分自身で測定し、また門弟からも情報を得ようとします。

門弟に日本についてのオランダ語による論文を書かせていて、ここでも彼としては有益な情報を集めています。

なお、この本には帯同した画家が描いた詳細な絵が多数挿入されていて、当時の風景や人物や乗り物を見ることができます。ただし、東洋文庫では絵が小さいのが残念です。

ケンペル「江戸参府旅行日記」

エンゲルベルト・ケンペルは、
第五代将軍綱吉治世の1691年と92年2度江戸参府を果たし、
その旅行記を書いています。
前回紹介したツュンペリーの江戸参府に遡ること約80年です。

彼はドイツ人ですが、やはり「オランダ」人医師として参府しています。

「江戸参府旅行日記」(1977年、平凡社東洋文庫)は、ツュンペリーとは大分記述内容が異なり、
ツュンペリーのように日本の草木や、工芸品等への関心はあまりなく、
旅行した知見の忠実な記述に終始する旅日記です。

何月何日にどこそこを通り、何戸くらいの村で、
どのような風景であったかを淡々と(言い換えれば延々と)書いていますので、
真面目に読むには辛いものがあります。
多くの記述はすっ飛ばして読みました。

ツュンペリーの本での「どうして?」という疑問がいくつか分かりました。

オランダ商館の参府は大名の参勤交代と同じ意味合いで、
(多分毎年)将軍に謁見しなければいけない規則であったようです。

また、彼らが丁重に扱われたのは、彼らに敬意を表してのことではなく、
彼らが日本人に接することで、特にキリスト教を持ちこむことを警戒し、
道中は厳しい監視下に置かれていたというのが主な理由であったようです。

道程はツュンペリーとほぼ同じです。
以前は長崎から玄界灘、瀬戸内海と船で航海していたようですが、
海が荒れると日程の予定が立たないことから、
極力陸路の旅になったようです。

東海道に入ると、「こんなにも旅する人がいるのだ」と、
とんでもない人の多さに驚いています。
当然江戸の人口の多さ、更には商店の多さにもびっくりしています。
(江戸は元禄の時代です)

ツュンペリーは旅の途中、糞尿の悪臭について語っていますが、
ケンペルはそのようなことは書いていません。

ただ、街道にはたくさんの乞食がいたと書いています。

ただし、その内容は良くわかりません。
僧侶の托鉢や大道芸人も物貰いと思ったようで、
彼の感覚からすればこれらはすべて乞食だったということかもしれません。

江戸の町では頻繁に火事があったようです。
また、日本滞在中では数度の地震を経験しています。

正式な将軍謁見は商館長一人だったようですが、
そのあとでオランダ人3人(今回も商館長、医師、書記です)が、
別室に呼ばれ夫人たち(将軍も簾の奥にいた)の前で、
歌を歌わされたり、踊りを踊らされたりしています。

二回目の参内では、寸劇までやらされ、
綱吉から直々に外国の生活や政治について質問を受けています。

綱吉も二回目で大分親しみをもったようで、
後日、暇乞いの挨拶にいったときも近くに呼ばれて、
またしても姫たちに歌を披露したり、
ごちそうになったりしています。

長崎奉行からは、
「オランダ人がこれほど厚遇されとことは初めてです」と告げられています。

参府には将軍はじめ主要な役職の侍に、それ相応の贈り物をしますが、
必ずまたそれ相応のお返しの品を送られます。

 

また犯罪に対する厳罰の記述が何か所かにあります。
江戸に入る前の鈴ヶ森では、
幾つかの死体がカラスや犬に食い荒らされていたと書いています。

また、長崎では密貿易が厳重に処分され、
中国船、オランダ船との密貿易に多数の処分があったといっています。

オランダから僅かの樟脳を手に入れたものが死罪を申し渡され、
「オランダ人は今回はおおめにみるが、次回は日本人と同じ刑を課す」として、
関与した日本人を出島で斬首。かかわったオランダ人は追放となります。

ケンペルが出島に滞在した数ヶ月の間に、
密貿易で100人以上の人間が処刑されています。

犯罪を犯したものの多くは、処刑を恐れ、
割腹したり、首をつったり、舌をかんで自殺を図っています。

侍の時代は、今の時代からするとやはり残忍な所業がたくさんあったのだと思います。

 

その他のエピソードとして次のようなことを記しています。

街道は左側通行と決まっていたので、上り下りの行列がぶつかることはなかった。

コウノトリがあちこちにいた。

九州の今の筑豊あたりで石炭が掘られていた。

ヨーロッパでは絶滅した銀杏の木をみたといっているようですが、
読み落しました。

江戸参府のとき、お付きのものが犬に噛まれて、ケンペルがその治療をしたが、
「犬をやっつけてしまわなかったのか」と聞いたところ、
「とんでもない」という返事。
当時の「生類憐みの令」をいかにも奇妙な規則だと思った。

瀬戸内海では西の風が吹いていたので行きは良かったが、
最初の参府の帰りは風に恵まれず難儀した。
当時の船には何対かの日本式の櫓が備え付けられていて、
船頭が掛け声をあげて漕ぐと結構速かった。

それから、
前回紹介ししたツュンペリーが「天皇の統治は紀元前660年天照大神に遡る」と書いていますが、
天皇についての知識は、そもそもケンペルから受け継いだようです。

 

ケンペルの死後発行された[日本誌](本書はその一部です)がヨーロッパで評判になり、
多くの西欧人が日本に関心をもつきっかけになったようです。

江戸時代の外国人といえば、シーボルトです。
江戸後期1826年に出版された[江戸参府紀行]を読みたいと思います。