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「中世ヨーロッパの騎士」 3

ローマ教会対神聖ローマ帝国

ローマ教会は自身十分な武力を持っていなかったので、神聖ローマ帝国に皇帝の王冠を授ける見返りとして、神聖ローマ帝国の庇護を受けていました。その結果、力に勝る神聖ローマ帝国はローマ教会の上位にあり、教皇の人事権すなわち教皇を信任する権利(叙任権)さえも皇帝が握っていました。

11世紀後半、熱狂的なローマ市民の声援を受けてグレゴリウス7世(在位1073~1085年)が教皇に就任すると、これまで腐敗し堕落したローマ教会の改革に取り組むと同時に、神聖ローマ帝国と一線を画する動きに出ます。

これに対して神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世はグレゴリウス教皇に圧力をかけ解任に動きますが、逆に教皇は皇帝の王位剥奪に動きます。激しい攻防の後、結局教皇がローマの民衆を味方にしたことで、教皇への賛同は大きくなり、ローマ教会は皇帝を破門、皇帝は謝罪しますが、その後も皇帝VS教皇派の対立は長く続き、結局皇帝は皇帝位を失います。

ここで注意すべきは、神聖ローマ帝国皇帝は、日本の戦国大名とは異なる点です。戦国大名は地域を力でねじ伏せ、その支配地域の独裁者になりますが、神聖ローマ皇帝は帝国内の諸侯(選帝侯)の選挙で決定されますのですので、ハインリヒ4世が教会から破門されたことにより、反対勢力が結集して、皇帝の地位までもはく奪します。

勢いづいた教会は、「騎士と正面対決して、彼らの略奪行為に制限をかけた。次に集団としての騎士たちに、禁欲的規律を処方する一方、彼らば本質的には善であり、高潔であって、教会の祝福に値する」(本書より)と騎士を手なずけ、更に、教会が世俗権力より上位にあると宣言します。

「グレゴリウスは、『神の平和』と『神の休戦』の運動に立脚しつつ、世俗の問題に対する教会の介入を思い切って大きく飛躍させた。グレゴリウスによると、教会の利益は他の何よりも優先した。平信徒、中でも騎士の役割は、俗世の政治その他の場で、教会の利益に仕えることだった。対立がおきたときには、教会に対する忠誠心は、領主に対するそれを超越し、臣従の誓いを撤回させることさえあるとされる。」(本書より)

十字軍宣言 ウルバヌス二世

続くウィクトル3世ウルバヌス2世もグレゴリウス7世の路線を踏襲し、キリスト教徒が同じキリスト教徒を殺害するのは許されない行為だが、反面キリスト教の敵に対しては正当な戦闘であるとします。

教皇ウルバヌス二世は、1095年11月27日、フランス中部クレルモンで、歴史的大(アジ?)演説を行います。

「この国は、四方を海と山の峰に囲まれ、汝らのあまたの民を擁するには狭すぎる。しかも富にも恵まれない。農民すべてを養うだけの十分な食料も備えていない。汝らが互いに殺しあうから、そうなのだ。戦いの挙句、互いに傷を受け滅びることを繰り返すから、そうなのだ。(中略)戦いをやめさせ、あらゆる不和を論争を休止させよう。聖なる墓所へと向かう道に入ろう。邪悪な人種からかの地を奪い返し、汝ら自身で治めるのだ。(中略)その地(イェサレム)は、神がイスラエルの子らのものとしてあたえたもうた土地だ。」

「イェサレムの地を邪悪なイスラム教から奪い返そう。それが聖戦だ」と騎士たちを焚きつけ、かくも高貴な仕事にふさわしい印として、十字架の形を「神の紋章」として与えます。ここに第一回十字軍遠征のうねりが起き上がります。

 

教会は騎士にとって最も名誉ある儀式「叙任式」を教会で行います。叙任式は多分日本の元服式のようなもので、若者が晴れて名誉ある騎士になる厳粛な式です。

かつて、騎士は乱暴な身代金商売をしていた身分の低い兵士にすぎませんでしたが、今や高貴な「キリストの戦士」、憧れの戦士になります。

従来貴族は財産を子供達に分散贈与していましたが、権力の集中が必要になって、家長に集中して相続するようになると、生活の基盤を失った次男、三男は家長に従属するか、それが嫌なら独立するしかありません。彼らの一部は、名誉ある騎士になっていきました。

 

1096年、五つの騎士団がコンスタンチノーブルからイェサレムを目指します。参加した戦士30,000人、騎士4,000人、当時としてはとてつなく多人数だったということです。1099年7月15日イェサレムの攻撃でクライマックスを迎えます。

「中世ヨーロッパの騎士」 2

中世の騎士は、ローマ帝国の騎士の延長ではなく、10世紀ころ新たに現れたというのが専門家の共通した認識ですが、いつ、どこで、どのように出現したかは、学問的になかなか難しい問題ということです。

 

ところで10世紀ころのヨーロッパはどのような状態だったか。おさらいしておきましょう。
4世紀後半、ローマ帝国は東西に分裂、直後東からゲルマン民族が西ローマ帝国に侵入、以後数世紀に亘って西ローマ帝国は混乱しますが、9世紀には東フランク、西フランク、中部フランク王国が成立、東フランクがローマ教会の後押しにより神聖ローマ帝国を名乗ります。
しかし、その後も東ローマ帝国を含めてヨーロッパ全体は内部抗争を繰り返すと同時に、北からはバイキング、南からはイスラムによって継続的に侵入を受けています。

混乱の中で守る側の王侯は、なんとか団結しなければいけません。

王は家臣との団結で、いわゆる封建制度ー王が家臣からの忠誠・軍事的奉仕と引き換えに、封土を与えるーを採用するようになり、これに平衡して、子孫への財産分与の方式が変化してきます。従来家の財産は子供達が分散して相続していましたが、これでは家の力が分散します。家長が独りで相続して財産を分散させないようになりました。しかし、これには時間がたっぷりかかりました。

封建制と家長への集中的財産分与も国によって大分ことなるようで、13世紀封建制が成熟した時期には、
北フランス、ドイツ、イングランドでは私有財産地はなくなりますが、
南フランスやスペインでは完全私有地が主要な土地保有形態のまま残りました。

 

ヨーロッパの混乱の時期に、鉄の鎧をまとい馬にまたがった騎士が登場しますが、彼らはいったいどんな人たちだったか。

「10世紀の生身の騎士は、上品な円卓の騎士とは殆ど共通点がない。10世紀の騎士は無知、無筆、言葉遣いもするまいも粗野。
主な収入源は暴力だった。彼らを制御するはずの公共の正義は事実上、消滅していた。
民事の紛争であろうと刑事犯罪であろうと、力を失った王たちに裁きを期待することはできず、すべては剣で決着がつけられた。
丸腰の教会と農民は、被害者や傍観者に甘んじるほかなかった。」

騎士の目的の一つはできるだけ高貴な人を人質にし、身代金を得ることが主要な戦利品でしたので、人質として役に立たない敵は殺害するのは当然のルールだったようです。また、騎士の武装(鎧兜や馬)や従者を従えるには、結構お金がかかる商売だったようで、簡単に騎士になれるわけではありません。

この無秩序の蔓延に何とかしなければと動いたのは、ローマ教会でした。

989年、ローマ教会は「神の平和」の名のもとに、「教会を冒涜したり、農夫やその他の弱者に暴力をふるったものに精神的刑罰を与える」と次のような宣言をします。

(1)教会に侵入したり、教会から何かを強奪しないこと。違反すれば破門。
(2)農民やその他貧者から雄牛、雌牛、驢馬、山羊、豚などを掠奪してはならない。賠償しなければ破門。
(3)武器を携帯せずに歩いている聖職者や家に住んでいる聖職者を襲ったり傷つけたりした者は、その聖職者の方が罪を犯しているのでなければ、贖罪しないかぎり、「神の神聖な教区から追放されねばならない」。

更に1030~50年代にかけて、「神の休戦」の名のもとに、一週間のうち水曜から月曜までの四日間及び祝祭日での戦闘を禁じることを騎士たちに誓約させました。

これらの規則・あるいは誓いが直ちに騎士たちに遵守されたわけではないのですが、しかし徐々にしかも確実に騎士の行動を規制していきました。

教会は更に世俗権力=騎士に圧力をかけます。その一つが騎士の叙任を教会が行うとしたことです。
これによって、騎士は「キリストの兵士」になっていきます。

F・ギース 「中世ヨーロッパの騎士」

コロナが全世界に蔓延してきて、ヨーロッパや米国では大変な数の感染者と死者を出していますが、日本は欧米に比べれば、感染者・死亡者共に比較的少ない数に抑えています。政府与党は無能で「皆さん予防に努めてください」と責任を国民に押し付けロクな政策も出さないまま、日にちが過ぎていきます。
なぜ日本はこれほど感染が抑えられているかと問われたば、政府与党あるいは日本人の多くは、「日本人の民度が高いからだ」と自慢していますが、自慢してすむことか。
非常時の日本の政治家の無能さに今更ながら、苛立ちます。

 

今回に限らず、日本人の色々な行動に接するにつけ、私は暗澹たる気分になります。

人前で自分の意見を言わない(言えない)。
事を起こしたくないので、上の人や回りの人たちの意見や行動に合わせる。
自分で考えないから、いざというときどうしたらいいか分からず、決断できない。

西欧から追い詰められると、「戦争は必須である」と集団精神病になり、
「日本は神の国だ」とか「皇国人民だ」とか言って、
新聞は国民を煽り、日本人全員が盲目的玉砕戦に突入する。

敗戦すると、「日本人がすべて悪うございました」と何が何でも謝罪しまくる。

極めつけは、「日本が戦争を起こさなければ、戦争は起こらない」と憲法9条を何が何でも守ろうとする。

このような不思議の国・日本人の性格はいつどのように作られたのだろうと考えます。
日本人の気質の基本部分は中世にできて、江戸時代・武士の世以降に固定させたのではないかと考えていますが、
その議論は後回しにして、それに対応する西欧人の気質もきっとヨーロッパ中世、特に騎士の精神構造に基盤を置くのではなかろうかと、最初の一歩として、フランシス・ギース著「中世ヨーロッパの騎士」(日本語訳:2017年、講談社文庫)を読んでみました。

 

本書では騎士の萌芽・変貌・衰退の歴史と、その時々の社会情勢や騎士の活動について、生存した騎士の活躍を通して、騎士像を描いていきます。

但し、固有名詞が沢山でてきますし、ヨーロッパの歴史・政治機構の変遷をよく知らなければ、何が何だか分からなくなります。
中世の王とは何か。どのように王が誕生したのか。王は何を所有しているのか。土地、平民、農奴は、王の所有だったのか。王と領主と騎士はどのような関係だったのか。私はそれらを知らないのだから、騎士について十分に理解できるはずがありません。

こういうと、身も蓋もないので、この本を読んで理解した範囲で「騎士像」についてご報告します。

 

騎士は歴史的に三段階に分けて考えることができます。
第一は、9、10世紀戦乱が頻発した時代に、鎧を着け、馬に乗った戦士として登場した時期
第二は、11世紀から13世紀に十字軍の活躍と呼応して騎士の身分が確立した時期
第三は、中世末期から近代初頭にかけて、国民国家が出現し、軍隊が鉄砲を使うようになると、騎士の制度が衰退した時期

ヨーロッパでもフランス、ドイツ、イギリス等の国よって、政治体制が異なるようで一概にはいえませんが、基本的には騎士は封建制度の一構成要素であったことは間違いないようです。
封建制度では、君主が家臣の軍事的および軽い奉仕の見返りに封土を与え、君主は保護と援助を、家臣側は忠誠を誓うのが基本的構造です。このとき家臣は通常特定数の騎士と共に君主に仕えます。また家臣は自分が君主と交わしたのと同様な誓いを騎士と交わし、封土をあたえて騎士の忠誠を確保していました。このように封建制の最盛期には、騎士がこの制度の基盤になっていました。

ここで重要なのは、君主、家臣、騎士は相互の約束によってのみ結ばれた「自由人」だったということです。

中世騎士の発生は日本では平将門とほぼ同時代で、性格も同じように、自然発生的に生まれた暴力集団で、日本ではつわもの(兵)といわれ、西欧では騎士と言われたのだろうと思います。

但し騎士の成長と武士の成長で、支えになった価値観は西欧ではキリスト教が日本では儒教ないし仏教だったのだろうと思うし、それが現在に至る西欧人の精神構造と日本人のそれとを異なるものにしたのだと思います。