吉川英治「私本太平記」2

太平記の主役、後醍醐とそのカウンターパートの足利尊氏をどう見るかは、時の権力者が都合よく解釈しました。

太平記を誰が何時書いたか定かでありませんが、14世紀の後半に書かれたのは間違いないので、ということは、この時期は室町前期=足利の時代ですから、太平記は尊氏をよくいい、後鳥羽を悪くいっているようです。

下って江戸時代、徳川は自家が新田家の流れをくむと自称しましたので(確認できないようです)、新田義貞を美化し、当然後醍醐や南朝の武将楠木正成北畠親房を美化、尊氏を悪くいったようです。

水戸光圀が大日本史を編纂するにあたって、この基本姿勢を守りましたので、尊氏こそ、天皇に弓を引いた朝敵逆賊であると烙印を押し、当然南朝側の天皇を重視しましたが、「さて今の天皇は?」となったとき、天皇の血筋が確認できない。

ということで、江戸時代、天皇の血筋論争が続いたようです。
この論争は明治でも続きましたが、明治天皇が「自分は北朝の血筋だ」と明言したので、天皇の血筋論争はこれで終了したということです。

さて、私本太平記では、
後醍醐、護良、足利尊氏、新田義貞、楠木正成が協力して鎌倉幕府を倒したあと、尊氏と後醍醐が対立し、一度九州に逃れた尊氏が、勢力を増強しながら東進、湊川で正成を討ち、京の義貞を北陸に敗走させ、叡山にこもった後醍醐を吉野に追いやるまでが詳しく語られていますが、その後の出来事には多くのぺージを使っていません。

尊氏が京都を支配してからも、尊氏の弟直義と執事の師直との確執、尊氏と直義の確執があり、南朝との沢山の抗争が継続しますが、この辺はサラット書いています。

 

時は鎌倉時代1324年、後醍醐天皇は幕府打倒の計画を進めますが発覚、幕府は比較的軽い処罰で済ませます。ところが、後醍醐はその後も倒幕計画を継続し、またも密告により計画が発覚、今度は後醍醐は身の危険を感じ、三種の神器を持って笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城します。しかし、鎌倉幕府の圧倒的な兵力に屈し京都に連行されます。1331年のことです。

幕府は三種の神器の返還を求め、持明院統の光厳を天皇にし、翌年、後醍醐を隠岐に配流、沢山の側近を処刑します。

しかし、倒幕の動きは止まず、
護良は吉野や高野山を転々としながら、全国に令旨を発し倒幕を鼓舞、呼応した河内の楠木正成や播磨の赤松則村(法名・円心)が頑迷に闘争を続けます。

正成は、はじめ河内金剛山で幕府軍と戦い、善戦しますがやがて陥落、落城を前に脱出し、勢力を挽回して千早城に籠り、地の利を利用して、強大な幕府軍と死闘を続けます。

正成のような体制に組みしないアウトローは、当時は悪党と言われていました。怪しげな生業ながら、正成は周りから篤い信頼を得ていました。

播磨の赤松は一時京を攻め落とす勢いだったようですが、史料が少なく、[私本]でも詳しい動向が書かれていません。

尤も、護良の動向もあまり詳しくありません。

隠岐に流された後醍醐は、翌年(1333年)隠岐を脱出し、伯耆大山々麓の船上山に籠ります。(この間の話は結構詳しいです)

 

先年、後醍醐が笠置山に籠ったときに、鎌倉幕府の重臣であった高氏は、幕府から出動命令を受けますが、父親の喪中だったので、出兵の辞退を申し出ましたが、聞き入れられず、結局笠置山の包囲陣に加わることになり、このとき高氏は幕府に反感をもったといわれています。

後醍醐が隠岐から脱出したとき、高氏は病気と称して足利に籠っていましたが、幕府から再度の出兵を命じられ、妻子を人質として鎌倉に置いて。京都に向かいます。

途中、高氏は後醍醐の誘いを受け、突如倒幕に動き、人質の妻子を救出(一人は逃げ遅れ、殺害されます)、播磨の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させます。

同時期、新田義貞は兵をあげ、新田の庄をでたときは僅か150騎だった騎馬は、関東平野を南下するにつれ数を増し、数万の軍勢で鎌倉に襲い掛かり、殲滅します。

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