日韓の歴史を勉強するうち、歴史の一次資料を読みたいという欲求が湧いてきます。
江戸時代、日本を旅した外国人の一人、カール・ペーテル・ツュンペリーの「江戸参府随行記」(1994年平凡社)を読みました。
彼は江戸中期1775年~76年来日し、オランダ東インド会社商船の主任医官という身分で、長崎から江戸への旅をします。徳川第10代将軍家治の治世です。
著者のツュンペリーは実はスウェーデン人ですが、オランダ人として日本に来ています。
ツュンペリーは医者であり植物学者でもあります。当時西洋医学も多くの植物を薬草としていたようで、医事の延長として植物にもとても詳しいのかと思います。
江戸初期にはポルトガル人を中心に比較的自由に外国船が日本に来ていましたが、様々な事件やキリスト教への警戒から、家光は外国船の入港を禁じ、日本は鎖国時代に入ります。
以来、中国の他はオランダだけが、日本との交易を続けていましたが、ツュンペリーが来航したときは、オランダに対する日本の対応は極めて厳格で、またオランダ人に対する蔑視があったようです。
ツュンペリーはその原因は、ポルトガル人やオランダ人の高慢な態度や粗野な行為、あくどい商売、キリスト教への警戒があったといっています。
彼らの船が日本に近づくと、全ての行動は幕府の監視下におかれます。外国人はすべて長崎・出島に押し込められ、許可なく出島からでることができません。出島そのものも塀で囲われ、まるで監獄のような小さな住区でした。
彼は日本の草木の採集をしたかったのですが、厳しい管理下に置かれては、それさえもままならない状況でした。
1776年3月4日、商館長、商館付医師(ツュンペリー)および書記官の3人の「オランダ人」は、約200人の日本人の随員を引き連れて、江戸参府の旅にでます。
長崎から陸路佐賀、飯塚、小倉まで行き、西の最大の集積港下関に船で渡り、下関からは大型和船で兵庫、大阪へ、大阪からは陸路京都をへて四日市まで、四日市からは名古屋(宮)まで船で渡り、その後は陸路箱根、小田原、鶴見、品川から日本橋の外国人宿泊所に到達します(4月27日)。
旅の途中何度か、大名の参勤交代に遭遇し、そのために、何日かは足止めにあいます。
彼らの旅は将軍謁見という正式なものでしたので、旅のすべてが幕府あるいは各藩の管理下に置かれ、非常に丁重なもてなしを受けます。
道中基本は籠に乗っていて、自由な行動はできませんでしたが、箱根越えでだけは徒歩で、しかも自身が健脚だったので、お供を尻目に束の間の植物採集ができたようです。
将軍謁見は商館長一人が許されたようで、彼は後で謁見の間に立ち寄っています。
丁重なもてなしの裏返しでとても制限された旅でしたので、庶民との接触もあまりなかったようですが、彼が高名な医者と知って、江戸滞在中は多くの医者や学者が訪れ、彼から多くのことを学ぼう熱心に話をしています(多くの人がその後も文通を続けています)。
この前年に「解体新書」が翻訳され、特に医者は蘭学に強い関心があったと想像されます。
彼は日本の医者は、解剖の知識がまったくないし、血液循環についても知らない。
脈の取り方もよく知らないので、殿中で突然頼まれた高貴な人の脈を直にとることもできなかったと述べています。また瀉血(血を取る)の方法も知らなかったので、江戸の信頼できる医者に教えたということです(ただし、瀉血は現在は治療としての価値は認められていないようです)。
彼が描く日本は、私たちが持っている江戸時代のイメージと余り隔たりがないように思います。侍に統治されていた日本のピリピリした雰囲気が伝わってきます。
基本的に日本を好意的に見ていて、統制のとれた高度に文明が発達した国と考えています(ただし医学、化学、物理学、天文学等の学問水準は低いと言っています)。
日本に対して批判的な記述は極く限られています。
彼がもっとも嫌悪するのは、日本人の糞尿の扱いで、その悪臭と不衛生については、我慢の限界を超していたようです。この匂いが日本中どこも同じであったのかどうかは、読み落としました(書いてなかったと思います)。
もう一つ日本の性習慣について、とても奇異な感情をもちます(キリスト教徒の西欧人の道徳観からすれば当然なのでしょう)。
にぎやかなところには、必ず遊郭があり、宗教施設に隣接していることも珍しくないということは理解ができません。
女郎が、後に正式な結婚することもあるというのも不思議な感覚だったようです。
ただし、実際には遊郭をみることはできなかったようです。
日本の建築は寺院も含めて、貧弱で美的にも特筆するところがないと思ったようです。ただし、日本の間取りで襖一つで小部屋にしたり大部屋にしたりするのは感心します。
以下2,3のエピソードを紹介します。
日本が過去一度も外国に侵攻したことがない、と言っていますが、韓国で悪評の秀吉の出兵は知らなかったようです。
天皇の統治は紀元前660年天照大神に遡ると記していますが、江戸時代の日本人はそのように考えていたのでしょう。
日本では性病が流行っていて治療薬がなかったが、ツュンペリーが水銀を使った治療法を初めて日本の医者に教えて、著しい効果があったといっています。
性病は確かコロンブスがアメリカ大陸から輸入したと聞いたことがあります。日本人への感染は西欧人が運んだと、この本でも言っていますが、交易が限られていた時代に、性病の感染の勢いは驚くばかりです。
また眼病を患っている人が多いが、その原因は家の中に立ち込める煙と、そこらじゅうの糞尿の匂いのせいだといっています。
醤油が当時ヨーロッパで使われ始めたというのは驚きです。
逆のはなしとして、オランダ人は奴隷を使っていましたが、奴隷の扱いに日本人は嫌悪した様子を記しています。
この本は、ツュンペリーが1770年スウェーデンを出立し、フランス等を経て南アに滞在、当時のオランダ領パタビア(現インドネシア、ジャカルタ)を拠点に、日本に渡航、その後パタビアから1779年スウェーデンに帰るまでの、大旅行記の一部をなすものです。
記述は記録という性格が強く、日本の様々な植物、鉱物、手工芸、日本人の国民性等々できるだけ、正確に記述しようという態度が読み取れます。
当時、貨幣や地図の持ち出しはご法度で、分かれば死罪だったのですが、
通詞(通訳)や医師から入手し、持ち帰っています。