網野義彦「蒙古襲来」2

1256年、鎌倉幕府の最盛期を築いた5代執権・時頼は出家し、執権職を長時(6代)に譲りますが、実権は自身が握り続けます。これは、執権職と幕府の実権との乖離を意味します。以降、時頼の嫡流(北条宗家)が実権を握り続けることになり、これが鎌倉幕府の根源的な矛盾になっていきます。

1263年、時頼が逝去すると執権・長時も出家します。

時頼の子・時宗が次の執権に就く予定ですが、時宗はまだ14歳だったので、北条政村が7代執権につき、時宗はその補佐役=連署に就任します(1264年)。1267年、モンゴルから日本との国交を求める国書が届きますが、威圧的文面および宋からの情報から容易ならざると事態と認識。

非常事態に直面した幕府は執権・連署の所を変え、時宗が18歳で執権(8代)に、政村が連署に就任します。

モンゴルからの国書に対して、朝廷は返書を出す意向でしたが幕府は無視する方針を取ります。

幕府が数回蒙古からの国書を無視続けたために、蒙古・高麗連合軍は、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)、二度に亘って北九州に襲来、日本に多くの被害を及ぼしましたが、鎌倉武士団はよく戦い、台風の助けもあって、元寇を撃退します。

この本では、約600ページの内およそ150ページを使って元寇について解説しています。

元寇の細かな部分では諸説あるようですが、大筋はあまり異論はないと思いますし、私は元寇よりも、これによって鎌倉幕府がどのように変節したかに興味があるので、元寇についてはこれ以上書かないことにします。

ただ一つ、著者の次のような主張は、私にはショッキングであり、到底納得できるものではありません。

しかしこの外寇が、一夜の暴風によって終わったことは、はたして本当の意味で、日本人にとって「幸せ」だったのだろうか。犠牲はたしかに少なくてすんだ。それが一つの幸せであったことはまちがいない。しかし不徹底な結末は「神風」という幻想を遺産としてのこし、のちのちまで多くの日本人を呪縛しつづけた。この意味で、敗れたりとはいえ徹底的に戦った三別抄をその歴史にのこした朝鮮民族は、苦闘したもののみにゆるされる真の幸せをもっている。
七百年まえの偶然の「幸せ」に、つい五十年まえまで甘えつづけていたわれわれ日本人は、きびしくみずからを恥じなくてはなるまい。(295ページ)

日本は台風の力を借りて蒙古軍を撃退した。それがために、日本は台風を神風といって神格化し、明治以降は、日本を神の国という幻想の中で軍国主義に進んでいった。という主張に私は反対しない。

が、高麗がモンゴルによって完膚無きまでに凌辱されたことが、日本に比べて幸せだったという主張は、それで朝鮮がいい国になったのかということを含めて、全く賛同しない。

第一なぜここで、このよう話をしなければいけないのか。

「幸せ」という多様な評価基準がある概念を、この場で著者の判断を述べる必要があるのか。歴史学者は唯物史観・左寄りの人が多いと聞きましたが、この一文で「やはりな」と思うばかりです。

error: コピーできません !!