柳成龍「懲ヒ録」

以前このブログでも書きましたが、私は戦前京城(現ソウル)で生まれたにも関わらず韓国には無関心で、韓国は好きでも嫌いでもない、どちらかというと関わりたくないという対象でしたが、
このとことあまりにも韓国問題で騒々しいので、韓国はいったいどういうところなのか、
否応なしに関心を持つことになり、
最近になって、本を読んだりWEBで韓国人の発言を読んだりしていますが、
得られた感想は、「韓国人は論理的ではなく、感情的で、何が何でも自分が正しいと言い張る人達だ」というものです。

しかし、それでも私が知っているのはごく一部の韓国人であり、それがすべてではないのは当然なので、
色々な韓国人の考えを知りたいと常々思っていましたが、
その一つが秀吉の朝鮮出兵当時、李朝の官僚であった人物が、戦後、韓国側の欠点を分析してい書いたという「懲ヒ録」を読んでみたいということでした。

市の図書館にあったので早速読んでみました。

 

16世紀、秀吉が朝鮮に出兵(韓国は「壬辰の倭乱」といっています)したとき、
柳成龍は李朝の高級官僚で、戦争に全力で対峙した人物であり、
退官後に「壬申の倭乱」の惨敗を冷静に分析して、二度と同じ失敗を繰り返してはいけないという思いから書いたということです。

「懲毖録」とは、「詩経」の言葉を借りたもので、「われ、それ懲りて、後の患を毖(つつしむ)」(傷むところがあって戒めを知り、後の患いを用心しよう)という意味だそうです。

今回読んだのは、1979年発行、平凡社・東洋文庫朴鐘鳴の訳本です。

この本は原本の全訳ではありません。訳されていない部分がどうなっているのか、知りたいところですが、この本でその部分の解説にもないし、Wikpediaでみてもよくわかりません。

この本は73の小節からなっていますが、全体の3分の1はあろうかという、訳者の詳細な注がついています。

このうち、63節は「壬辰の倭乱」の発生から李舜臣の死までの戦闘の事実関係の記述、
後の10節が李朝側に立った筆者の反省点の記述です。

戦闘の経緯の大半は、著者が直接・間接に関与した部分です。
すなわち、半島に渡った日本軍は8軍だったようですが、
半島の奥深く攻め入ったのは、小西行長軍と加藤清正軍ですので、日本軍との交戦の記述は両軍との話が大半です。

 

秀吉から「日本は明に侵攻するから、朝鮮は道を開けろ」のような書状が届きますが、
明の属国であった李朝は、そのようなことができる訳もなく、
また、日本と交渉することが明に知られることさえも恐れたので、秀吉の書状を無視します。

秀吉は再三書状を送りますが、すべて無視され怒り、最後通告をし釜山から李朝の攻撃を始めます。
1592年4月7日のことです。

それでも李朝では、当初「嘘だろう」くらいにしか考えていなかったようで、
あっという間に日本軍は北上してきて、朝鮮側はなす術もなく、上から下まで慌てふためいて、逃げまどいます。
日本軍は4月7日釜山上陸後、京城(ソウル)を経て5月3日には開城を、さらに6月4日には平城も占拠します。
朝鮮国王は明との国境の義州まで逃げます。

ここでやっと頼みの明の援軍が登場し、その後の戦闘は、さながら日本軍と明軍との戦いになっています。
やがて両軍膠着状態になり、日本と明は講和交渉に入り(1593年4月)、朝鮮は講和に反対しますが、
明はこれ以上朝鮮を支援する義務はないと朝鮮を突き放します。

交渉の当事者は、それぞれ納得いく条件で合意しようとしますが、
その条件をそのまま本国(明と秀吉)が承諾する筈もないと分かっていますので、本国をごまかそうとします。

中国の外交官沈惟敬は、秀吉には明が降伏したと、明には秀吉が降伏したという使者をおくりますが、
このような嘘が通用するはずがありません。

交渉は決裂、秀吉は攻撃を再開します(1597年)。
日本軍は善戦しますが、1599年8月秀吉が死去、五大老は極秘裏に戦線の撤退を決めます。

本書の全体を通し、李朝の右往左往が手に取るように分かります。
朝令暮改、ある将軍を斬首せよといったりやめろといったり、これでは戦争にならないだろう、と思います。

李舜臣は一時死罪取り敢えず投獄から、
対抗将軍の死去を機に返り咲き、海上戦を指揮し善戦しますが、終戦を目前にして戦死します。

著者はよほど李舜臣を信頼していたと見えて、戦闘に関する63節のうち7節を使って、李舜臣を惜しんでいます。

李舜臣(イ・スンシン)は韓国の英雄です。

 

この話は、今の私たちに多くの問題を提起します。

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