河口慧海「チベット旅行記」4

慧海がラサに来てから1年以上経ちますと、身の危険を感じるようになります。
インド滞在中あるいはラサへの旅で、多くの人にめぐり合いましたが、鎖国のチベットで自分が日本人だと名乗ることはできません。

チベットに入った直後は自分は中国人だといい、ラサでは都合が悪くなるとチベット人だといったりしました。

しかし、「どうやら慧海はチベット人ではないようだ」といぶかる人が出てきました。

近年、日本が日清戦争でシナに勝ちましたので、チベットやインドあたりで日本の評価が高まっていました。

法王の商隊長は「慧海は日本人」だと確信し、法王の兄に「チベット中で評判のあの医者は、実は日本人です」と告げます。

商隊長は、高名な日本人の情報を報告すれば賞されると思ったのですが、逆に法王の兄は、慧海がスパイではないかと疑い困惑します。

その話を聞いた慧海は、一刻も早く行動を起こさなければなりません。

慧海は、「自分はスパイではなく、一途に仏教を学ぶためにきた」という上申書をしたため、法王に差し出そうと考えます。

世話になった前大蔵大臣に、自分が日本人であることを告白し、「私を見逃すとあなたに害がおよぶので、私を役人に突き出してください」と頼みますが、前大蔵大臣は、「もし自分に害が及べばそれは私の宿命だ」といって、慧海の申し出を断ります。

慧海はチベット脱出に舵をきります。

懇意にしていたシナ人の薬家にも身分を打ち明け、協力してもらって、これまで集めていた経典をまとめて、廻りの人には、カルカッタの聖地に巡礼に行くと嘘をいいラサを去ります。

時あたかも大きなイベントがあって、役人もあるいは沢山の僧侶も、慧海の動きに気がつきません。

ネパールからラサに入るのに半年以上かかりましたが、脱出となると一刻も早く、チベットを離れなければなりません。
1902年(明治35年)5月29日、ほぼまっすぐに南下しインドのダージリンを目指します。

一人の人夫を雇い、二人での逃避行です(人夫にはあくまでも巡礼の旅だといってあります)。

チベットからインドへの脱出は3つの方法しかありません。
ブータンを抜ける間道を通るか、ネパールに入る間道を通るか、さもなければチベットからインドにいたる公道を通るかです。

ブータンに進めば強盗に会う可能性が高い、
ネパールに進めば猛獣に会う可能性が高い、
公道を通れば厳重な関所がある。
さあどうするとなったとき、慧海はあえて公道を通ることにします。

チベットとインドの国境の関所は厳重に警備されていて、5つの門を通過しなければいけません。
この関所を通るだけで、通常7日から10日かかります。

ラサで慧海の逃亡が判明すれば、直ちに追っ手が来るでしょう。
関所に7日も10日もとどまることはできません。

慧海は腹をきめます。関所の役人が規則を持ち出したとき、国の隅々まで知れ渡った慧海の名声を利用します。

「私は法王から秘密の命を受けて、急いでカルカッタに行く」。
「ここで、お調べに時間がかかるのは仕方がない」。
「ただし、これこれの理由で時間がかかるという理由を文書で書いてもらいたい」。
関所の役人は恐れをなし、追い払うように関所を通してくれます。

7日はかかる関所を3日で越え、無事にインド・ダージリンに着きます。
1902年(明治35年)6月15日のことです。

 

この話には続きがあります。

その年の10月頃、インドに留まっていた慧海は、チベットから来た商人に、慧海と関係があった人々が投獄され、拷問を受けていると聞きます。

慧海が英国のスパイだと考えらたようです。

慧海は彼らをなんとか救出しなければいけないと考えます。
カルカッタには数人の日本人がいましたので、相談すると、彼らは「これ以上チベットにかかわるな」と忠告します。

しかし、慧海はどうしてもチベットでよくしてくれた人を見殺しにすることはできません。

ネパールに頼むのが一番いいと考えます。
ネパールとチベットは特別いい関係ではないのですが、チベットはネパールに一目置いているので、ネパールから頼めば何とかなるだろうと考えたのです。

慧海はチベット法王に上申書を書き、それをネパール国王からチベット法王に渡してもらおうという考えです。
しかし勿論ネパール国王につてがあるわけではありません。

丁度インド皇帝の戴冠式があって、英国と同盟を結んでいた日本から戴冠式列席のため、奥中将がインドにきていました。

奥中将からネパール国王に取り次いでもらおうとしますが、奥中将からは次のようにいって断られます。

「自分は英国から招かれてインドに来ている。日本人がインドあるいは英国を差し置いて、直接ネパール王に書状を出すのは国際儀礼として許されない」。
「よしんばその件を英国に頼んでも、英国がその労をとってくれるとは思われない」というものです。

慧海はチベットの恩人を助けたい一心で、直接ネパール国王にお願いすることにします。

つてを辿って総理大臣に接近しますが、大変難しいことの連続です。ここでも慧海がスパイと疑われますが、彼の熱意は伝わり、慧海の書いた上申書をチベット法皇に届ける約束をしてくれます。

と同時に、ネパールにある経典を譲ってもらう約束をし、ネパールからも大量の経典を得ます。

後日逆に、日本にある経典をネパールに送っています。
慧海の持ち帰った経典は東北大学に保管されているということです。

その後チベットは鎖国を解き、何人かの日本人もチベットに入っています。
慧海自身1913年(大正2年)再度チベットに入り、第一回チベット滞在で迷惑をかけた人々に謝罪しています。
慧海がネパールから送った上申書がチベット法王に届き、その効果もあって前大蔵大臣等放免されたということです。(「第二回チベット旅行記」より)

 

僅か30歳そこそこの青年の大冒険旅行です。慧海の人間としての成熟度、誠実度=人間力に感服します。
誠実さ一途さが大きな困難を乗り越えています。人間の可能性を感じます。

 

今回私は、随分すっ飛ばして読みましたが、チベットを研究する人は、熟読する価値が十分あります。

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