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網野義彦「蒙古襲来」3

さて、蒙古襲来に幕府はどのように対処したか。

時宗は非常事態への迅速な対処が必要と考え、時間のかかる合議ではなく、気心がしれた御家人と自分の家臣(御内人)とで協議し事を処理していきました。

また、朝廷の同意を得て公卿や寺社の所領にも地頭を置き兵力の増強を図る一方、九州の防備を急ぎ、寺社には、国難退散の加持祈祷を命じます。

見方を変えれば、国の緊急事態は、幕府の支配力を強めることになります。

2回の元寇を撃退した後、三度目の襲来が予想される緊迫のなかで1284年、時宗は急死します。

これを期に、時宗を補佐していた、御家人のトップ安達泰盛と御内人のトップ内管領・平頼綱が衝突、翌1285年、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐します(霜月騒動)。この事件により、幕府内での御家人の地位は低くなり、幕府は得宗家とその御内人が主導する得宗専制を確立します。

平頼綱は、時宗を継いだ13歳の北条貞時(9代執権)を補佐し、得宗専制の強化に尽力しますが、もともと北条家の家臣である御内人と、頼朝と共に戦い形式の上では将軍の従者である御家人とでは身分が違い、戦後処理は遅々として進まず、さらには実権を握った御内人政権に賄賂が横行し、政治が腐敗します。

1293年、成人した北条貞時は平頼綱一族を討滅(平禅門の乱)し、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を強化します。

貞時は、戦後山積する問題に高圧的・独断的に処理していきます。頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、判決を全て貞時が下すこととしたため、当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎しましたが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まってきます。

そもそも蒙古襲来での戦勝品がないため、戦った御家人は大した褒賞を得られなかったところに、その後も異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えていました。

また、普及してきた貨幣経済に対処できない御家人は窮乏し、分割相続による所領の細分化がおこり、階層分化が進みます。

御家人の窮乏を救おうと出した徳政令は、当然非御家人の反発を買い、痛い目にあった非御家人は、2度と御家人に経済的関係を持とうとしませんから、これは逆に御家人を更に窮地に追い込むことになります。

多くの御家人は没落して、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加します。

一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多くいました。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し、社会情勢を一層不安定なものにします。

窮乏する御家人をよそに、北条一門だけは知行国を著しく増大します。

満12歳で執権に就任した貞時でしたが、どうやってもうまくいかない政務に意欲を失い、30歳にして出家しますが、その後も幕府に対して一貫性ない関与を続けます。

晩年は、酒宴に耽ることが多くなり、重臣からは素行の改善を願う趣旨の諫状がだされます。1301年、貞時死去。

貞時死後、北条支流が中継ぎ執権に就いた後、1316年貞時の子高時が14歳で14代執権に就きます。

高時はもはやなす術を見つけられず、政治を放り出し、田楽・闘犬等遊興に耽る有様です。

社会の不満が頂点に達したとき、後醍醐天皇が登場します。後醍醐は即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てます。

1324年、後醍醐の蜂起計画が露呈し、日野資朝・日野俊基など側近の公家が処罰(比較的軽い)されたますが、後醍醐は諦めず、1331年再度倒幕計画を立てます。が、これも事前に発覚し後醍醐は翌年隠岐島へ流されます(元弘の乱)。

しかし、仏門にいた護良(もりよし/もりなが)親王は父・後醍醐に同調し還俗、参戦します。護良は、令旨を発して反幕勢力を募り、呼応した得宗専制に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)などの[悪党]が各地で反幕府の兵を挙げ、善戦します。

1333年、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された御家人・足利高氏(尊氏)が、一転して後醍醐側へつき、5月7日に六波羅探題を落とします。

ときを同じくして、御家人・新田義貞は上野国で兵をあげ、多くの武将を味方をつけながら鎌倉を目指し、同年5月21日、遂に稲村ケ崎から干潮の由比ヶ浜に入り御内人軍団と激闘、これを打ち破って鎌倉を陥落します。

鎌倉陥落を知った後醍醐は京都へ帰還し親政を開始します(建武の新政)。

幕末の攻防の構図は、(得宗 + 御内人)対(天皇 + 御家人 + 悪党)とみることができます。

山本幸司「頼朝の天下草創」

頼朝は鎌倉幕府をどのようなものにしようとしたか、頼朝の死後、彼を引き継ぐ妻・政子や北条家、また源平合戦での功労重臣が、どのように鎌倉幕府を作っていったか、あるいは離反(=滅亡)していったか、山本幸司「頼朝の天下草創」(講談社 日本の歴史、2001年)は、鎌倉幕府の草創から、最盛期の北条時頼(1250年中葉)までの政治動向を解説しています。

この本の最初に、頼朝のひととなりを描写していますが、結論からいえば私は納得しない。

理由は、筆者の主観が入りすぎていて、いくつかの事例をひいて、頼朝を天才に仕立てているからです。

私は頼朝は革命家だと思うが、それを一個の天才のなせる業にしては元も子もないと思います。

1180年、以仁王の挙兵。義仲、頼朝の挙兵。
1185年、平家が壇ノ浦で壊滅的敗北。
1189年、奥州で義経自害。藤原泰衡討たれる。
1190年、頼朝上洛。
1192年、後白河上皇死去、頼朝が征夷大将軍就任。
1198年、後鳥羽院政始まる。
1199年、頼朝死去。

平家打倒を掲げて10年、目的を達し、念願の上洛を果たした頼朝は、1192年征夷大将軍に就任します。

昔、私たちはこの年を鎌倉幕府成立年と教わりましたが、今は、鎌倉幕府の成立年を何時とするか諸説あるようです。

専門家は「○○をもって幕府成立と考えるべき」と議論していますが、私達素人は、取り敢えず80年代の中葉には、幕府が発足したと考えておきましょう。

 

さて、頼朝は、義経を討ち奥州藤原を討って、当面の敵をすべて排除しますが、もちろん朝廷を蔑ろにはできません。

朝廷と鎌倉の関係がどうであったか、私は正確には理解していませんが、基本的には朝廷はそのまま温存し、これとは別の武士の全国組織を作ります。

律令制度は中国の制度を見習ったもので、複雑で高度でしたが、鎌倉幕府の諸制度は、シンプルで実務的なものです。

主な機関を挙げると次のようなものです。

中央は将軍とそれを補佐する執権、連署で構成、その下部組織として政所(財政)、侍所(軍事、警察)、問注所(訴訟)、京都には京都守護、六波羅探題を置き、地方には守護、地頭、九州には鎮西奉行、奥州には奥州総奉行を配置します。

主だった政務は、将軍とこれを補佐する執権、連署からなる評定会議で決定します。

1199年頼朝は急死します。
諸説あるようですが、落馬が原因と言われています。

頼朝の死後1202年、長男頼家が征夷大将軍に任命されますが、彼は凡庸だとして、家臣団から信頼されません(ただし、この当時の史料がすくなく、真実は藪の中のようです)。

頼朝なきあとの様々な難しい政務を抱え、頼家ではこの難局を乗り切れないと判断した 政子は、頼家に引導をわたし出家を強要、頼家の弟・12歳の実朝を将軍につけ、その実務者として政子の実父・北条時政が執権職につきます。

その後、この時政も政子と衝突、幕府を追われ、政子は甥の泰時を第三代執権につけ、二人で実朝を補佐します。

1219年、実朝がかつて政子に排除された二代将軍頼家の子・公暁に誅殺されると、実朝に子がいなかったので、源氏嫡流は途絶えます。

政子は天皇家から将軍を迎えようとしますが、時の後鳥羽上皇に拒否され、やむなく源氏との血縁のある幼少の摂関家・九条三寅(後の藤原頼経)を迎え、その後見人として政子が将軍の代行をします。

このとき、政子が描いた政治の構図は、京都から傀儡の将軍を頂き、北条氏が執権として実権を握る、源氏・北条家に血のつながりのある女を祭祀の主役にする、というもので、政子が重視したのは、女の力すなわち政略結婚で幕府の安泰を図ることでした。

政子の孫(2代将軍頼家の娘)竹御所を4代将軍頼経に、北条時氏の娘・檜皮姫を5代将軍に嫁がせます。

頼朝のカウンターパートであった後白河の後を継いだ後鳥羽は、王政復古を目指し準備します。すなわち、元々京には皇室を護る北面の武士がいましたが、後鳥羽は西面の武士も組織します。

後鳥羽は、実朝暗殺のどさくさを好機とみて兵を動かしますが、安直な後鳥羽の情勢判断は、政子のもとに一致団結した鎌倉武士に一たまりもなく粉砕され、沢山の京側武士は処刑、後鳥羽以下の貴族も配流されます(1221年、承久の乱)。

後鳥羽は王権の復活を願った筈が、逆に朝廷と幕府の力関係がはっきりして、国の政治は鎌倉主導になります。

1225年、政子逝去。
藤原頼経が8歳で4代将軍になります(1226年)。

三代執権泰時は人望も厚く、これまで続いた独裁政治を改め、評定衆による合議を基本に、集団的指導体制をとります。

開幕以来、鎌倉幕府に平穏な日々はなく、騒乱に次ぐ騒乱が続き、頼朝と共に戦った、梶原景時や千葉氏も幕府から排除されます(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変、1205年:牧氏事件、1213年:和田合戦)。

当時の騒乱の解決は、当事者の武力による決着すなわち私戦が主流でしたし、幕府が裁定するときは将軍の即決が基本でした。

泰時は紛争に公平性、一貫性の裁定が必要と考え、1232年、武家法・御成敗式目を制定します。

この式目は、首尾一貫したものではありませんが、実情に合わせた簡潔なものでした。

泰時は病を得て退官出家し、泰時の孫北条時頼が第五代執権に就任(1246年)、時頼は鎌倉幕府の最盛期を築きます。

すなわち、時頼は泰時の執権政治を継承、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年裁判の公平化のため、引付衆を設置します。

同時に、執権権力の強化にも努め、1246年時頼の排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放(宮騒動)、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅(宝治合戦)します。

1252年、幕府への謀叛に荷担したとして、頼経の子・将軍藤原頼嗣を廃し、代わりに宗尊(むねたか)親王を新将軍として迎えることに成功します。政子が希望した天皇家からの将軍です。

これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられますが、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となり、その分北条宗家は権力を集中します。

その後、時頼は、病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲りますが、実権は自分が握り続け、あたかも院政のような政治形体を作り上げました。(得宗専制)

 

NHKスペシャルで司馬遼太郎の「この国のかたち」を放映していました。日本・日本人の精神構造がどのようにして形づけられたか、というテーマで、大変興味をもっていましたが、期待外れでした。

律令時代、民は搾取されていたが、武士はいわば武士道精神で庶民に思いやりをもって接した。

という話がありましたが、少なくとも、江戸になるまで、日本に平穏な日々はなかった、と私は思います。

鎌倉時代は、頼朝の時代、それ以降の北条の時代、血で血を洗う闘争の連続です。私は「ヤクザの抗争と何も変わらない」というイメージを払拭できません。

庶民は朝廷と鎌倉から二重の抑圧に苦しみ、深刻な飢饉に見舞われています。何度も人身売買の禁止令を出すほどです。

司馬がいうように「名こそ惜しけれ」と行動した人がどれほどいたか。私はリアリティを感じません。

現実は悲惨で、だからこそら奈良や京都の大寺院の戒律主義ではなく、民衆(武士も含めて)の苦しみに寄り添った法然や親鸞や日蓮や鎌倉仏教に、
多くの人々が帰依したと思います。