直義

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九州の歴史 2

そもそも少弐はなぜ、尊氏を応援したのか。

少弐一族の祖先は平安時代・藤原家の傍流が武藤を名乗って中央政権に従う武家だったようです。Wikipediaによると以下のように紹介されています。

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。

少弐は頼朝に恩義があり、足利尊氏は源氏の流れを汲む頼朝の再来と考えたし、また当時太宰府・少弐は鎮西探題・北条から圧力を受け、北条への恨みがあったと思われます。

一方、尊氏上陸を阻止しようとした菊池氏はどのような家系だったか。

菊池は少弐と同じく藤原に祖先をもつようですが、少弐以上に出自ははっきりしません。少弐同様武家として成長しますが、九州への土着性が強く、源平とは距離をおき、その分宮家への忠誠心が強かったようです。私本太平記では次のように書いています。

肥後の菊池郡隈府町がその本拠だった。元々、上古の久米部の兵士の裔でもある。中頃、後鳥羽院の武者所に勤番し、承久ノ乱にも宮方、元寇の乱にも、率先、国難にあたってきた。 要するに、筑紫のくさわけでもあり徹底した防人精神のうえにその家風も弓矢も伝承してきた菊池家だった。

1336年2月末京を追われた尊氏は芦屋ノ浦にたどり着き、3月尊氏・少弐の連合軍は菊池の防戦を破り太宰府を奪還、尊氏は休む間もなく兵を整え東進を開始。尊氏は海路、幼い時から生死を共にした弟直義は陸路から京を目指します。
同年5月、尊氏軍は神戸・湊川で新田義貞を撃破、楠正成を敗死に追いやり、更に京に駆け上って京を奪還、後醍醐は吉野に逃れます。

尊氏が光明天皇をいただき京都で幕府を設立すると、後醍醐は吉野に朝廷を設立します。南北朝(1336年~1392年)の始まりです。

ところで、尊氏が太宰府で兵をととのえ京に上っていったとき、腹心の二木、一色を九州にとどめ九州掃討の任につけます。 一色はよく働き、太宰府で九州探題としての任を果たします。
こうなると小弐は一族の命運を懸けて尊氏を支援したのは何だったのか、不満がくすぶり、小弐はその後複雑な動きをすることになります。

尊氏が北朝を開いた後も、九州では南朝寄りの菊池をはじめとする武将が力を蓄え、また尊氏と一時袂を分かった直義が南朝につき、1348年には後醍醐の皇子・護良が菊池の城下に入ると小弐はこれに加わり、太宰府に九州・南朝を開き十数年にわたって安定した政治を執行します。

この事態を憂慮した北朝・足利義満は1370年、切り札として当代一流の知識人今川了俊を九州探題として送り、了俊は義満の期待に応え、南朝側諸勢力を平定していきます。

1375年了俊は菊池の本城陥落を目前にして祝宴を開くと称して九州三人衆の来陣を求めます。島津氏久 と大友親世は応じますが、小弐冬資 ははなかなか姿をみせません。氏久は了俊の求めに応じて冬資を説得、冬資も氏久の仲介を断れず、祝宴に参加しますが、酒宴の最中に了俊の弟仲秋らが躍り出て、冬資を刺殺します。 氏久は怒りただちの兵を引き上げ、以後反今川の行動を繰り返していきます。

それから約20年後(1395年)、了俊は突然九州探題の職を解かれ、それを機に配下の大内が九州進出を図ります。少弐は探題に加えて大内と度々戦いますが、1400年代になると劣勢を立て直せず、豊前、筑前から追い出されていきます。

1467年応仁の乱が勃発して、大内は西軍山名に、少弐は東軍細川につきます。大内が畿内の戦乱に注力している機に乗じて、少弐は一時九州での勢力を挽回しますが、乱が収束し大内が態勢を整えると、少弐は大内の戦力に抗しきれず、やがて戦乱の表舞台から姿を消していきます。当初は少弐が敵対する当事者であった九州探題も存在感を亡くし役割を終えます。

菊池もまた大きな流れに翻弄され、やがて没落していきました。

佐藤進一「南北朝の動乱」

佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論、2011年)の初版は、1974年に中央公論社から[日本の歴史]の一冊として発行されたもので、エポックメイキングな書籍といわれ大変有名な本のようですが、私にはその重要性が分かりません。

なぜなら、私はこの時代の歴史書を読んだことがないので、比べようがないからです。

ただ、一読して何の違和感もなかったので、その意味で現在もなお真新しいということなのでしょうか。

この本では、尊氏が京都で、義貞が鎌倉で北条軍を壊滅し、これに呼応した後醍醐が伯耆船上山から帰京するところから始まり、その後南北に分かれた朝廷が、結局南朝が北朝に屈するという形で統一され、室町三代将軍義満が権力を確立するまでの70年間を、武家と公卿の綱引き、守護、地頭・御家人、寺社や庶民の変節等、かなり詳しく解説しています。

尊氏と直義(ただよし)は一つ違いで仲の良い兄弟で、二人は若いときから共に戦います。

尊氏には激しい感情の起伏があり、躁状態が多い躁鬱質だった、一方、直義は冷静沈着な性格だったといわれています。

尊氏に沢山の贈答品が届いた時、尊氏は全部みんなに分け与え、夕方には何もなくなっていた。直義はそもそも贈答品を受け取らなかったという話が残っています。

後醍醐が吉野に去り、尊氏が京に居を構えると、尊氏は軍事面以外の政治はすべて直義に任せ、世に両将軍といわれました。これは尊氏がいかに直義を信頼していたかを示すものですが、悲しいかな、やがてこの2頭政治の本質的矛盾が噴出します。

厳格な直義とある意味適当な執事・高師直との関係が悪化、一時師直が直義を武力攻撃し、尊氏の仲裁で直義は出家しますが、後、直義が反撃、師直を殺害します。

反直義派は尊氏につき、これで尊氏と直義の関係が悪化し、尊氏と直義と南朝の三つどもえの抗争が続きます。

やがて1339年後醍醐が死にその後を後村上が、1352年には直義が死にその後を養子・直冬が、1358年に尊氏が死ぬとその後は嫡男の義詮が、戦闘を続けます。

戦いの中心部分はそれなりの理由があって戦っているのですが、これに加勢する武士は、割り切ったものだっとといいます。

加勢武士が寝返ることは何の不思議もなく、寝返るにあたって、所領の半分を差し出せば味方にしてもらえるという慣例があったので、寝返りは日常茶飯事のことでした。

それに家の存続を考えて、一家が敵味方に分かれることも多々あったようです。

すなわち、負けた方は領地を召し上げられますが、その領地は勝った方に与えられますので、家としては損得ゼロになり、それを考えて親兄弟が敵味方に分かれた例もあるようです。

そんなわけで、南北の戦闘の中心は変わりませんが、末端の武将はあっちについたり、こっちについたりで、戦闘の帰趨もどうなるかわからない状況です。

南北の和平交渉は何度もあったようですが、どうしてもまとまらず、この間も、南朝は4度のわたって京を攻め落とします。

が、南朝の衰弱は止めることが出来ず、1392年南朝後亀山は、義満の講和条件を呑み遂に南北朝は和睦します。

義満の提示した和睦案は、南朝が保持していた神器を北朝に引き渡すこと、今後天皇は南北から交代で立てるというものでしたが、実際には、その後北朝・武家の好き勝手にするというのが実態でした。

長い騒乱で、結局公家の領地はどんどん武家に取られていきます。天皇家といえども、京都の近辺に所領を持つだけの状態になります。

足利三代将軍義満の母が、皇室の出ということで(実証できないようです)、義満は、朝廷で前例のない出世をし、公武の最高権威を獲得します。

但し、さすがに天皇にとって代わる(簒奪する)ことはできず、その分大陸の明に属国として朝貢し、国王の称号を得ます。

当時から明の属国になることに強い反対があったようですが、義満は、貿易や貨幣の流入等実質的な利益を選択します。

また、「義満によって、天皇は歴史的に完全に骨抜きにされた」と理解できます。