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私説・九州の歴史

九州の中世の歴史について、武士団の発生から西暦1400年ころま勉強し、御紹介しました。

「九州の歴史」
「九州の歴史」2

もう1年も前になり、中途半端で終わっていますので、総括して打ち止めにしたいと思います。

 

邪馬台国が九州にあったのか畿内にあったのか、長い論争があります。
しかし、どちらにしても邪馬台国が存在した西暦2~3世紀、九州は大陸との交易があったでしょうから、当地にはそれなりの勢力が存在したのは間違いないようです。神功皇后の言い伝え(事実かどうかはさておき)は、この時代のものです。

663年大和政権は、交流のあった半島百済の要請を受け、新羅連合軍と白村江で戦いますが大敗。半島経営から撤退すると同時に、半島からの反撃に備えて、九州沿岸に防備体制を敷きます。
その一環として太宰府が建設され、半島からの侵攻の恐れがなくなった後は、九州の政治の要として重要な地位になります。

とはいえ、大和朝廷からすれば九州はいまだ未開の地で、一度叩いておかなければならない存在で、大和朝廷は大友旅人を総大将に任命して、九州隼人の征伐に着手します。720年旅人は国東半島に上陸、宇佐に拠点をおき、九州平定に乗り出します(宇佐には武を祭る宇佐八幡宮が建立されます)。
その後暫くの九州の歴史を私は知りませんが、太宰府を中心に大和政権の統制・仕組み=律令制がこの地にも浸透され、宇佐八幡宮等の寺社も荘園を作っていったと推測します。

平安時代、西暦900年前半、承平・天慶の乱(東では平将門、西では藤原純友の乱)が勃発すると、これを鎮圧したのが国・郡の官人や荘園の名主職・荘官職が組織した武士団、加えて太宰府の退官者が形成した武士団でした。

国人領主から成長した武士団には、秋月・原田・高橋、菊池等があり、荘園から発したのは、松浦党、宗像大宮司、阿蘇大宮司等があります。

頼朝鎌倉幕府を設立すると、鎌倉幕府は博多に鎮西探題を設置、平家寄りの領地は没収し、鎌倉幕府の息のかかった東国武士に地頭職を与えて、九州の荘園に下らせます。
武藤、大友、島津がこれにあたります。

武藤資頼(すけより)は、頼朝から抜擢され(1194年頃)鎮西奉行として下向。太宰府庁の権限も手中に収め、以後少弐と名乗ります。ここに実質的に太宰府の政治的地位は消滅します。

室町幕府初期には、少弐は幕府寄り、菊池は天皇よりでしたが、室町幕府が九州探題を設置、尊氏の腹心を長官に据えたことで、少弐も幕府に反発。
西暦1349年、南朝は後醍醐天皇の皇子懐良(かねよし)親王が菊池を頼って肥後に入ると、少弐もこれに迎合。南朝は一時九州で全盛時を迎えます。
足利義満はこれを鎮圧すべく切り札として今川了俊を九州探題として送ります(1370年)。了俊はよく働き菊池を排除、九州を平定ますが、少弐冬資をだまし討ちにする失態を犯し(1375年)、九州の有力武将・少弐大友島津から猛烈な反発をうけ、自身退任を余儀なくされます(1395年)。なお、義満の時代、南北朝は統一されます。

その後、九州探題には渋川満頼が任命されますが、凡庸な満頼は山口の大内に助力を要請。大内は願ってもないことと九州北部に侵入。少弐とこれを加勢する豊前(大分)大友は大内との抗争に転じます。

1400年後半の応仁の乱で大内の中心勢力が西軍として力を分散すると、そのすきをついて少弐は一時九州探題を占拠しますが、乱の収束で大内が態勢を立て直したことで、少弐は劣勢になります。

この間一貫して、大内は足利幕府の支持を得ながら、少弐・菊池・大友と対抗する構図で、多くの戦闘を優位に進めますが、やがて室町政権も求心力を失うと、大内は九州探題も手中にし、少弐もまた肥後東部の一小勢力に転落(1500年)、その後少弐の被官であった竜造寺氏が少弐に代わって戦国大名として台頭します。

ところが九州に足掛かりを築いた大内義隆は、1551年家臣陶隆房に殺されます。大内家では一時大友晴英(義長)を養子として迎え大内家の存続を図りますが、義長は毛利に厳島で大敗し、大内氏も16世紀中葉滅亡します。

 

大友家は頼朝から鎮西奉行の任を受けて、豊後に下向し、元寇との戦いで武功を上げ豊後に定着します。
大友義鎮 / 大友宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、嫡男であるにも関わらず、実父に嫌われ家督騒動の原因になりますが、父や弟を殺害して、1550年大友家の当主になります。信長が織田家の当主になったころです。
1551年には上記のように長年の宿敵大内家に内紛が起き、宗麟の弟晴英を大内家の養子にだすことで、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に北九州における大内氏に服属する国人が同時に大友家にも服属、周防・長門方面にも影響力を確保。1570年頃には、南の津島(播磨、鹿児島、大隅)とその北部のほんの一部を除いて、九州全土を大友の支配下に置きます。

しかし、宗麟が1578年耳川の戦い島津に敗れると、大友は急速に力を失います。宗麟が部下の反対を押し切ってキリスト教に寛容な政策を取ったことも一因であったようです。
大友が弱さを見せると、少弐の被官であった佐賀の竜造寺孝信が頭角を現し、1580年頃には筑前、筑後、佐賀(現在の佐賀・長崎・熊本)を支配下に置きますが、竜造寺もまた真鍋家が実権を持つことになります。

 

島津家は大友と同じく、頼朝から薩摩・大隅の守護に任命され着任しますが、その後長い間内紛が続きます。1552年貴久が島津家当主に認められますと、漸く一味同心を誓う起請文をとって、領内の統一に成功します。
貴久の4人の息子(義久、義弘、歳久、家久)はそろって優秀で、義久が貴久から家督を譲られると(1566年)、兄弟結束して領土の拡大と安定にあたり、1584年には、竜造寺家も従え島津の支配は全九州から豊前・豊後の大友を残すだけになります。

窮地にたった大友は、秀吉に援軍を頼みますが、島津は秀吉をも恐れず、大友軍を府内(大分)に押し込めます。
いよいよ秀吉が大軍を率いて豊前に入ってきたとき、ようやく島津は降伏し、九州の戦国時代が終了します。

 

秀吉が統一するまでの九州の歴史をざっと見てきました。
特に、室町時代以降は、戦いの連続です。太宰府の退官・官人、寺社荘園護衛の武士団、頼朝から任じられた守護・地頭から発した武士団が、室町幕府の弱体と表裏をなすように下剋上・戦国の時代を戦っています。

大内が少弐を潰しにかかったとき、大友が領土を拡張したとき、竜造寺が台頭したとき、島津が北上し全九州を支配下に置いたとき、当然激しい戦闘があったのです。弱小武力集団は、自分たちの生存をかけて、右に左に大樹に身を寄せ、苦悩の中に生き・死んでいきます。

秀吉が、続いて家康が天下統一し、それぞれの国を安堵し、やっと前世とは異なる平穏な日々が九州に訪れたのだと思います。

 

 

 

石平「朝鮮通信使の真実」2

「朝鮮通信使の真実」を解き明かすには、当時の江戸幕府と李氏朝鮮が、相手国をどのように見ていたかを理解しなければなりません。

本書には日本側の対応は書いていますが不十分だと思いますし、まして朝鮮側=李朝の考えには触れていません。

歴史的に日本は半島をどの様に観てきたか、史料は豊富にあると推測しますが、私はまとまった文献を知りません。
この点について「こうだ」と自信をもって述べることはできませんが、Wikipadiaその他で調べて、素人なりにこういうことなのだろうと推測しています。

 

西暦700年代初頭編纂された古事記および日本書紀には、西暦200年ころ神功皇后が半島に渡り三韓(新羅、高句麗、百済ー異説あり)を討伐したと記されていて、長く(戦前まで?)史実として信じられたいたようですし(現在では史実ではないと否定されています)、古墳時代4世紀以降では、実際大和朝廷は百済と友好関係を結び、朝鮮半島の南端を支配経営していましたので、これらの伝聞が日本人に半島に対しる優越感を抱かせていたと思われます。

西暦663年百済と密接な関係にあった大和朝廷は、百済を支援する目的で参戦した白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗し、半島への関与を自重しますが、その後も日本は唐から国としての扱いを受けるも、半島は唐の属国であり日本からすると一段格下の国だという意識を持ち続けます。

下って13世紀蒙古高麗連合軍=元寇の撃退と神風神話、その後の復讐戦としての倭寇の反撃、16世紀の秀吉の朝鮮出兵等、半島に対する武力の優越が続き、半島への侮蔑感を募らせたと思われます。

 

一方の朝鮮は、確かに中国の属国に甘んじてはいるものの、中国王朝への朝貢では一流の知識人を大量に送り、中国文明を真剣に勉強したようで、中国王朝が明や清に代わっても「我こそは中華文明の真の継承者である」という自負心が強く、従って、半島=李朝からみれば、逆に日本こそが野蛮な周辺国にすぎないという、精神的優越観を持っていたと思われます。

 

しからばなぜ李氏朝鮮は日本に通信使を送ったのか。Wikipediaでは次のように書いています。本書でも同意見です。

(秀吉の朝鮮出兵で)朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を結びたいと考えていた。
また、北方からの脅威も日本との国交再開の理由となった。ヌルハチのもとで統一された女真族が南下してきており、文禄・慶長の役では加藤清正軍が女真族と通じる状況もあったため、女真族と日本が協力する危険も朝鮮では検討されていた。そこで日本とは国交をして、南方の脅威を減らすという判断がなされた。

すなわち、李氏朝鮮は安全保障上やむなく日本とよしみを通じておく必要があり、日本の高圧的態度を甘受せざるを得なかった。一方の江戸幕府は李朝の弱い立場を見透かして幕府の威を朝鮮はもとより国内にも示す絶好の機会として、朝鮮を見下した扱いをしたのです。

秀吉の朝鮮侵攻の戦後処理として始まった江戸時代の通信使ですが、三回目来日では家光は通信使に日光参拝を強要しています。

このイベントの内実は日朝双方の見栄の張り合いであり、表面上の友好をしかも屈辱的な朝貢の儀を演じさせられる朝鮮通信使たちは、憤懣やるかたない気持ちを抱き、その憤懣を報告書や日記に書いたものと思われます。

表面しか知らない日本の大衆は、韓流にワーワー、キャーキャーいったのでしょう。当初は儒学者も朝鮮朱子学を学ぼうと参集します。

 

やがて江戸幕府の側にこのイベントへの疑問を持つ人たちが現れます。
一因は、通信使の饗応に大金がかかる点です。通信使は400ないし500人の大所帯で、対馬から江戸までの往復で半年以上かけて通り、幕府および沿道の諸藩は最大限の対応をしますので、当時の幕府直轄領400万石の4分の1、すなわち100万石の費用が掛かったといわれています。

最初は日本の儒学者も朝鮮から学ぶところが多いと思っていたのですが、やがて硬直した朝鮮の性理学に疑問を抱き、敬遠し始めます。
また。傲慢にふるまう通信使の態度を苦々しく思う人たちもいました。
初回の朝鮮通信使から約100年経過した第八回通信使当時、幕府の最高ブレーンだった新井白石もその一人で、白石は饗応の簡素化の方針を建議します。

1764年第11回通信使(第11代将軍家治の治世)を受け入れた後、天明の大飢饉があり、老中松平定信は緊縮財政等の観点から、朝鮮通信使を簡素化することを決め、第12回通信使を対馬止めにします(これを易地聘礼ーえきちへいれいーと言います)。これが最後の使節団になりました。

 

今回、朝鮮通信使を少し勉強しましたが、このイベントが善隣友好・文化交流のようなハッピーなものではなかったと理解しました。

私は、日韓の険悪な関係は明治時代に始まったと思っていましたが、どうやらそれも間違いで、数百年来いやもしかしたら有史以来両国は不仲だったのではないかと推測しています。

世界中の隣国同士は不仲だとよく言います。隣り合う国は直接利害が衝突しますので、これもやむを得ないことかも知れません。

韓国と友好関係を結ぼうとするなら、まず歴史を徹底的に議論することが必要でしょうが、どちらがいい悪いの結論はでないのでしょうから、事実関係を認め合い、後は「過去は未来永劫水に流そう」と極めて日本的な心情を共有しない限り、善隣友好関係は構築できないと思います。

石平「朝鮮通信使の真実」

下関だったか、「朝鮮通信使まつり」を開催したとかするとか、何かで読みました。

このようなイベントでよく言われるのは:

現在日韓関係は冷え込んでいるが、
江戸時代には朝鮮から使節が来て、仲良く交友を温めていたではないか。
また、昔のように仲良くしよう。

のようなもので、善隣友好、文化交流を必ず強調しますが、私は常々「何か嘘くさい」と思っていました。

江戸時代、通信使が通る沿道には、沢山の人々がでて大騒ぎだったらしいですが、反面通信使は色々事件を起こしていたようです。「本当に友好的だったのだろうか」とずっと疑問に思っていました。

 

石平著「朝鮮通信使の真実」(WAC、2019年)がアマゾンで高評価だったので読んみました。

最初にいいたいことですが、この本は編集が悪い。
著者は中国人だから、日本語が多少おかしいところがあっても、それは編集者がカバーすべきだし、それ以上に日本語として読み難いだけでなく、論述が何か所も冗長(これは言語に関係ない)で編集者の力不足に苛立ちます。

この本を読んだついでに朝鮮通信使について少し調べてみました。
最初に「百科事典マイペディア」の「朝鮮通信使」の解説を転記しておきます。

(朝鮮通信使は)朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。江戸時代に将軍の代替りやその他の慶事に際し,李氏(りし)朝鮮(李朝)の国王から派遣された使節。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)後,徳川家康は対馬の宗(そう)氏を通じて国交回復につとめ,1605年の日韓和約で国交が回復。この結果1607年から1811年まで計12回にわたって使節が来日。最初の3回は朝鮮侵略の際に日本へ拉致(らち)された朝鮮人の送還を兼ね,回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と呼ぶ。総勢400名前後の大使節団で,沿道の大名が盛大に饗応。国内に将軍の国際的地位を示す上でも来日は重視されたが,1711年新井白石は使節の待遇を簡素化した。

さて本書は3章からなっています。

第一章 朝鮮通信使は事実上の朝貢使節だった
第二章 朝鮮知識人の哀れな「精神的勝利法」
第三章 「日本コンプレックス」の塊だった通信使たち

全200ページ足らずですから、大したボリュームではありません。

■ まず、本書では通信使は朝鮮から日本側への朝貢だったと次のような理由を挙げています。

  • 通信使は朝鮮から日本への一方通行で、日本から彼の国へは一度もいっていない。
  • 通信使が来たのは、徳川将軍が新しく就任したとき祝賀の挨拶としてきている。
  • 通信使の将軍への接見も「朝貢の拝礼」を行っている。
  • 将軍家光は家臣に求めるように、通信使に対して家康が安置されている日光東照宮の参拝を強要。通信使はしぶしぶそれに従っている。

Wikipediaその他を調べてみても、日本側(幕府)は使節団を朝貢として遇していたようです。

■ 一方朝鮮側はこの使節をどのように考えていたのか。

通信使は報告書や日記を沢山残しています。
これらを書いたのは李朝のトップクラスの官僚・教養人で、彼らはすべての行動規範を朱子学・性理学に置いていますので、これに反することはすべて非難・批判、侮蔑の対象です。

彼らが日本に対していかに酷いことをいっているか、本書の巻頭で第11回通信使であった金仁謙の言葉を引用しています。

「(日本人は)穢れた愚かな血を持つ獣人間だ」。

通信使の日本および日本人に対する記述は悪意に満ちた極端な罵詈雑言のオンパレードです。
道中の日本の風景や繁栄する街並みは淡々と、が日本の民度には激しく攻撃。
詩を書けば最低、礼儀は無礼、習慣や衣服は野蛮、食べ物は不味い。
自然にしても、日光の二荒山は朝鮮の○○山と形は似ているが大したものはないし、東照宮の配置が間違っている。富士山も言われるほどのものではない。とすべて自分の国のものを一番にしてケチをつけています。

 

私も比較的安価で入手しやすい第九回(1719年)使節団・申維翰著『海游録』(1983年、平凡社)を買って拾い読みしました。本書はソウルから対馬、下関、瀬戸内海、大阪、京都、東海道、江戸の往復の日記と、日本の風物の報告からなっています。

道中のでき事、風景については、ことさら抑揚もなく記述していますが、日本の風俗、日本人の行動については一々上から目線でイチャモンを付けています。

以前ご紹介しました、やはり江戸時代長崎の出島から江戸に参府したオランダ人医師(シュンペリーケンペルシーボルト)が淡々の書いた紀行文に比べると、いかに偏狭なものの見方をしているか、寒々しい気持ちになります。

 

こうまでして、またいったいどうして、朝鮮通信使は来日したのでしょうか。

吉川英治「親書太閤記」6

秀吉は、信長の初期の領土拡張戦=美濃(岐阜・斎藤)、北近江、越前(浅井・朝倉)や京都の治安に業績を上げ、信長から信頼され、琵琶湖東岸長浜に築城を許されます。大変な出世です。更に1577年には信長から全幅の信頼を得て、中国・毛利攻めを命じられます。

秀吉は自分の長所も短所もよくわかっていたのでしょう。
いわゆる「人たらし」で、軍師を重用しました。
一人は美濃戦から加わった竹中半兵衛、もう一人は播磨戦から加わった黒田官兵衛(後如水)です。
病弱な半兵衛は播磨攻めのとき病没しますが、黒田官兵衛は嫡男長政ともども秀吉から重用され、長く仕えます。

秀吉の戦法は信長とは異なり可能な限り武力を使わないで、調略・外交で相手を下していきますので、それだけに時間がかかったと思われます。

毛利討伐を命じられた秀吉は、瀬戸内海側の播磨から始まって、日本海側の但馬へ進軍。
苦戦の連続ですが、82年には毛利一族の東端・備中(岡山市)まで進み、高松城を取り囲みます。
城主清水宗治は湿地に囲まれた高松城をよく守り、秀吉軍を寄せ付けません。秀吉は正攻法では攻め切れないとみるや、同年4月から水攻めに取り掛かり、信長の出陣を待っています。

 

信長は秀吉の要請を受けて、当地に向かおうとしていた1582年6月2日、光秀によって京都本能寺に襲われ、自害します。

6月3日急報が秀吉に届けられ、秀吉は官兵衛の進言を入れて早急に高松攻めを終結し、光秀討伐に舵を切ります。
信長の死が毛利方に漏れないよう通過する早馬を遮断、直ちに城主清水宗治の切腹を条件に毛利方と講和し(6月4日)、整然としかし急いて京都に引き返えします(中国大返し)。

当時信長家臣の武将たちは、信長の命を受けてそれぞれの戦いに全力を掛けていて、反明智に即応できません。
ただ一人秀吉は京都を目指し、京都の西南山崎の地で天王山を支配し、光秀軍を撃破(6月13日)。その勢いを駆って、残党を討ちいち早く京都を支配します。

この時家康は境見物をしていましたが、どこに明智方の兵がいるか分からないなか、少数の家来と共に決死の覚悟で三河に逃れ、態勢を整えて直ちに光秀討伐に向かいますが、時すでに遅し、秀吉が光秀を討ち入京していました。

光秀掃討後の6月27日、清州城で有名な清須会議が開催され、秀吉の他柴田勝家、丹羽長政、池田恒興が集まって、信長亡き後の方針を議論します。

本能寺の変では、京都にいた信長の長男・信忠も二条城で戦死しましたので、秀吉は信長の後継者として信忠の長男すなわち信長の孫・三法師(当時三歳、後の織田秀信)を推し、柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推します。
両者激論になりますが、あらかじめ手を打っておいた丹羽長秀と池田恒興が秀吉方につき、「家督を三法師が継ぎ信孝を後見人とする」という秀吉の案に勝家も妥協せざるを得なくなります。

ところが日が経ってくると、秀吉は清須会議の決定事項を無視して、自分勝手な行動を始めます。
秀吉は信長の4男・秀勝を養子にしていましたが、この秀勝を喪主にして、一存で10月信長の大葬儀を開くし、さらに凡庸だとして信長後継者の候補から外されていた信長の次男・信雄を三法師が幼い間という言い訳をつけて、勝手に織田家の当主に仕立てて信雄と主従関係を結びます。

このような秀吉の勝手な行動に当然信長家臣団は反発します。

 

反秀吉の最右翼は越前(福井)の柴田勝家です。秀吉は勝家が雪のため動けないことを見透かして、勝家と歩調を合わせる信孝に言いがかりをつけ、同年12月岐阜城で降伏させます。

勝家は、滝川一益、前田利家等と呼応して、各地で秀吉と戦闘を開始。
しかし一益および若いころから秀吉とは仲がよかった利家が勝家から離反、琵琶湖北賤ヶ岳の戦い(83年4月)で勝家は大敗し、越前・北ノ庄に逃れますが、落城が迫るなか勝家はお市の方共々自殺します。

信長の妹・お市の方は、信長が美濃攻めのとき浅井長政と同盟を結ぶ必要があったため長政と政略結婚させられ、長政落城の直前救出されますが、今度は清須会議で不満が残る勝家の希望をいれて、またも政略結婚させられます。この仲介を誰がしたかは諸説があるようです。勝家が敗北を認め自殺するとき、お市の方は今度は死を選びます。

秀吉は苦戦の末、大きな障害・柴田勝家を排除。と同時に勝家と共同歩調をとる織田信孝も切腹させ、勢いづいた秀吉は信長家臣団を次々に掌握していきます。

 

信長の次男・信雄は当初、秀吉と行動を共にしますが、やがて利害が衝突し家康に接近、不満分子と共に反秀吉の戦闘を仕掛けます。
84年4月秀吉は大軍を編成し、犬山付近で信雄・家康連合軍と激突します(小牧・長久手の戦い)が、決着がつかないまま、一時兵を引き上げます。
なお、この時の居城は秀吉:大阪城、信雄:清州城あるいは伊勢長島城、家康:岡崎城あるいは浜松城です。

その後秀吉は懸命の外交戦を展開、信雄と和議を交わしたことで、家康は秀吉と戦う名分を失い和議に応じます。
家康は、秀吉から大阪への上洛を求められますが、応じません。それは秀吉への服従を意味し、家康には受け入れられないことです。

小説は、ここで終わりです。

 

小説は全11巻、秀吉の生涯の途中で終わりますが、この間も沢山の脇役が登場します。

若いころの前田犬千代(利家)との話、信長が朝倉戦で浅井の離反にあい九死に一生を得た金ヶ崎の退口、秀吉対柴田勝家の賤ヶ岳の戦いで活躍した加藤清正等の七本槍の活躍、半兵衛と官兵衛の信頼関係、尼子氏の家臣であった山中鹿之助の話、真田と秀吉と家康の関係、浅井長政との間に生まれたお市の方の3人の娘たち(茶々、初、江)、当初家康の重臣であったが後秀吉についた石川数正の話等々。

 

信長、秀吉、家康が戦闘を繰り広げた中部地方や京都や畿内のほか、北は伊達、東には北条、上杉、武田、西には尼子、毛利、大内、四国に長曾我部、九州では大友、竜造寺、島津等々日本中の戦国大名が地域の武将を巻き込んで血で血を洗う戦いをしていました。

吉川英治の「新・平家物語」のなかで出てくる話ですが、
保元・平治の乱(1156年、60年)では京都の町で平家と源氏が戦うのを民衆は物陰からみていて、卑怯なことをするとハヤシたてた、といいます。やくざの喧嘩を民衆が見ていたような印象です。
ところが、戦国時代では侵略戦争ですから数段激しく、相手方の村や町を焼き尽くし、略奪も横行したと思います。
信長は延暦寺焼き討ちだけでも非戦闘員を含めて数千人の人々を殺害しています。
また、この小説で、光秀が信長暗殺で決起した朝、進軍の途中で信長方に動きを察知されることを恐れ、朝仕事で通りがかった民衆をすべて殺害したという話が出てきます。
さらに、同盟を結ぶとき、弱い立場の武将は近親者を人質として相手方に差し出しますが、これを裏切った場合預かった方では容赦なく人質を見せしめとして殺害します。
日本人は残酷さを楽しむという気風はないと思いますが、人の命を虫けら同然に扱ったこの時代は血生臭いおどろおどろしい時代だったとイメージします。

最近評判の倉山満著[ウェストファリア体制](2019年、PHP新書)で、ヨーロッパ中世は「殺し合いが日常であり平和が非日常だった」、それに比べれば日本の戦国時代は「平和が日常で戦争は非日常であり平和な時代だった」のようなことをいっています。

私は、戦国時代が平穏な日々だったとはとても思えません。それでも日本は西欧よりマシだったということでしょうか。

吉川英治「親書太閤記」5

その後の信長の軌跡は歴史の教科書に書かれていますので、ここではざっとおさらいします。(但し、歴史的事実はそんなに単純なことではなく、日に日に敵味方が入れ替わって、入り乱れた戦闘が続いたようです。)

 

信長は足利義昭を奉じて、岐阜から京都まで反対勢力を討伐しながら遂に入京(1568年)、休む間もなくそのまま大阪まで侵攻し、畿内を支配、境を直轄にします。
更にとって返して、反抗する越前(福井)朝倉を攻めますが、信長の妹お市の方を妻にする浅井長政の離反にあって一度は敗走する(金ヶ崎の退口)ものの、態勢を整え、姉川の戦い(70年)で浅井・朝倉連合軍に勝利。
朝倉が延暦寺と連合すると、71年信長はあろうことか比叡山の大焼き討ちを決行、遂には朝倉・浅井を壊滅します(73年)。

また、信長は本願寺、能登、伊勢等での一揆にも情け容赦のない弾圧を決行、滅亡させます。

72年には武田信玄が西上してきて、三方ヶ原で織田・徳川の連合軍を破りますが、翌年信玄が突然死去、退却します。(家康は66年松平から徳川に改姓)

一方の歴史の主役、将軍義昭はその間どのような動きをしたのか。

義昭は、68年信長の力を借りてようやく上京し第15代将軍の座に座るが、やがて武力で天下統一を目指す信長とは相いれないことが明白になります。

義昭は信長包囲網を構築すべく各地の大名に呼びかけるがことごとく失敗。
信玄が死に、謙信や他の大名も中央に打って出る力がなく、義昭自身も戦闘を指揮しますが、浅井・朝倉が滅亡すると、もはや義昭の望みは断念せざるを得なくなり、73年義昭は信長に京都を追放され毛利に身を寄せることになります。ここに足利幕府が終焉します。

 

78年、信長は信玄の後を継いだ武田勝頼との戦いで、鉄砲の威力を存分に発揮し長篠で勝利し、さらに82年には、織田・徳川連合軍が甲州に攻め入り、勝頼を天目山に追い自決させ、ここに武田家は滅亡します。(上杉謙信は78年病没します。)

 

明智光秀は、足利義昭を信長に取り次いだり、信長に仕えてから多くに業績をあげ、信長重臣として重く用いられますが、一方で信長と肌が合わず、小説では武田攻めの際、言葉の行き違いから信長の怒りを買い、多くの武将の面前で罵倒され、直後の本能寺の変の伏線になります。

武田を壊滅した信長は家康には関東平定を任せ、秀吉からの要請もあり、自身で中国の平定にかかります。
武田戦が一段落した同82年5月下旬、家康は武田戦での論功行賞として信長から駿河を拝領した礼として安土城にやってきます。

このとき光秀は信長から家康接待の責任者に任じられますが、接待の仕方で信長の怒をかい(小説では、信長が調理場を視察すると、用意した魚介が悪臭を放っていたということです)、接待役を解除され、直ちに毛利と対峙する秀吉の援軍に出兵することを命じられます。

その数日後、家康は京都で天皇に拝謁、大阪・境の見物に出立し、信長は秀吉援護のため西に向かうべく途中少人数の護衛だけで本能寺に宿をとります。

 

光秀が家康接待の不手際を叱責された話は、新書太閤記第7巻の30%程度読み進んだところに出てきます。
光秀が悩んだ末に信長を討つ覚悟を決め、家臣と相談し決行する82年6月2日までの話は当巻の半分以上を使って細々と書いています。

そこからがやっと秀吉中心の話になっていきます。