日本論

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永原慶二「下剋上の時代」 2

足利義政
足利義政

前回も書きましたように、この時期農業の生産性が向上し、バラバラに生活していた農民は集結し郷村=地縁的結びつきを重視するようになりました。
また貨幣経済が発展し、京や各拠点の商業が繁栄し、更に朝鮮や明との貿易が盛んになって港町が繁栄し、商人や寺社、幕府も利益を上げます。
文化面でも東山文化と総称される日本らしい、絵画や芸能が発達しました。

こう見てくると、この時代はいかにも平和で平穏な日々であったかに見えますが、実際には真反対の混乱の時代でした。

 

日本は、古来天災や疫病に悩まされ続けていますが、この時代も例外ではありません。
大きな飢饉が1420年、21年、1428年と続き、それから30年後の1459年には深刻な天候不順が続き、大飢饉が発生します。
1460年の記録では京の餓死者が約9万人、京の河原は死体で埋まったといいます。
全国ではどれほど沢山の餓死者をだしたのでしょうか。
最下層の民衆は生活できなくなり、本人あるいは身内を身売りしたり、農地を離れて、浮浪・乞食になり卑賎の民に落ちたりします。

民衆は各地で一揆をおこし、金融業を営む土倉や酒蔵、寺院を襲います。
交易の拠点に在住し慢性的に困窮していた馬借は、真っ先に一揆の先頭に立ち、これに農民が加わり土一揆は頻発します。
1400年代の主な土一揆として、正長の土一揆(1428年)、播磨の土一揆(1429)、嘉吉の徳政一揆(1441年)、享徳の土一揆(1454)、長禄の土一揆(1457)、山城の国一揆(1485~93)、加賀の一向一揆(1488)等があります。

京に詰める守護大名や荘園領主から荘園の管理を任されていた中小武士は、土地に根付き国人や地侍といわれましたが、当然農民からの突き上げを直接受ける苦しい立場にありました。
しかしこの下からの突き上げは彼らにとってチャンスでもありました。
下からの憤懣を自分たちでなく、荘園領主に向けていき、荘園領主からの権利の切り離しに向けます。彼らは時には一揆を取り締まるのではなく一揆を扇動し、最終的には自分たち自身が荘園を支配する当事者になろうとします。
これら国人は自身で力を持たなければいけません。近隣の豪族が語らって国人一揆を結び横の連結を強め、いざという時には連携して行動します。
国人一揆もまた政情不安を助長します。

 

中央の幕府はどのような状態であったか。室町幕府の政権基盤は虚弱でした。本書では次のように説明しています。

関東八か国に甲斐・伊豆をくわえた十か国が関東公方の管轄地域と定められ、
中央政府の直接の支配対象外とおされており、さらに義満時代には奥羽二国も関東府の管轄にいくわえられていた。
他方、九州は九州探題の管轄に属し、これも室町幕府の直接管理の外におかれた。
だから逆にいえば、幕府政治のしいくみでは、九州と甲斐・伊豆以東の国々とを除いた中央地帯だけが幕府の直接管理の国々なのである。(本書より)

そして、「このことが幕政をにぎる有力大名の目を中央地帯にばかりそそがせることとなった」といいます。

中央から遠く離れた九州や東北の守護大名は、もともと鎌倉時代に任命された外様であり、
中央の政権や社会情勢に左右されることが少なかったので独自の発展・闘争を繰り広げていましたが、
中央の幕府の重臣は、京への関心を強く持たざるを得ず、また大抵は自身京に住んでいましたので、
領国での統治は守護代や在地の豪族に依存せざるをえず、
彼らは幕府の混乱と領国の混乱をまともに受ける構造になっていました。

当初室町幕府は守護の強大化を警戒して守護の力をそぐ方針でいましたが、守護領域での地侍の強大化に対抗して守護の権力強化を許す方針が取られ、守護は守護大名として権力強化に努めます。

 

強い権力を持たない足利将軍は、時に言わば虚勢をはって強権的な行動をとります。
6代将軍義教は、関東公方の混乱にこれを鎮圧し滅亡させますし、
力を蓄え始めてきた守護大名を挑発しては討伐します。

義教の行動に危機感を持った赤松満祐は遂に1441年将軍義教を暗殺し(嘉吉の乱-かきつのらん)、
これ以降室町幕府の混乱は決定的に悪化していきます。

銀閣寺
義政に東山山荘・銀閣寺

幼くして将軍職を継いだ8第将軍義政は、政治に興味を持たず、長じても民の苦しみには知らんぷり。金を使い趣味三昧です。
大飢饉の最中、邸宅・花の御所の造営に熱を上げ、能楽・猿楽にうつつを抜かし、巨費を投じて東山山荘を建設します。
仏門に入っていた弟・義視(よしみ)を還俗(世俗に戻すこと)させて、早々に将軍の座を譲ろうとしますが、
幸か不幸かその直後、日野富子との間に義尚(よしひさ)が生まれ、日野富子は義尚を次期将軍にしようとします。
当然跡継ぎ問題は大問題になります。
義視には管領細川勝元がつき、義尚には嘉吉の乱で功績のあった山名宗全がついて、一触即発の事態になります。これに畠山、斯波両家の内紛が絡み、更に各地の武将が入り乱れて大騒乱に突入します(1466年)。応仁の乱です。

山名宗全が西軍、山名宗全が東軍を率い(但し、多くの各武将は節操もなく時に西軍、時に東軍につきます)、大勢は東軍有利でしたが、山口の大内が西軍についたことで、西軍が力を盛り返します。

京都で起こったこの騒乱はやがて地方にも、更には興福寺等大寺社にも飛び火します。
約10年に及んだ乱は決着がつかないまま、守護大名は京より自分の領国の混乱が心配になり、それぞれの国元に帰還し、京の戦乱は京の荒廃を残して一応の終結をみます。

山名宗全も細川勝元も相次いて逝去し、京の大乱は一応鎮火しますが、
混乱の火種は地方でくすぶり続け、やがて嘗てない大規模な騒乱の時代=戦国時代に突入します。

 

この時代は混乱した不毛の時代だったのか。
いやそうではない。
日本中を巻き込んだ下剋上は、従来の京を中心にした特権階級の文化や価値観を粉砕し、
それを民衆に、地方に拡散した。そして次の時代はそれらを吸収し新たな時代を形成した。
この時代はいわば革命の時代であったと見るべきだ、と著者は主張します。
私も「そうだろうな」と同感です。

永原慶二「下剋上の時代」

下剋上のマグマ

室町時代、南北朝の動乱の終結(1392年)から戦国時代が始まるまでの約100年間に何があったのか、歴史知らずにしてみれば、せいぜい足利義政の東山文化と応仁の乱くらいしか知らなくて、印象の薄い時代です。

しかし、永原慶二著「下剋上の時代」(1965年、中央公論「日本の歴史」)は「そうではない」と真向から反対します。
すなわち、「あの民衆の激情的であり、破壊的でさえある行動と、幽玄の極致といわれる東山文化とはきわめて緊密な関連をもっていると思うのである」と。
著者は、「この時代こそ、日本の大変革をもたらすマグマが煮えたぎった時代なのだ」と、その主張をわかりやすく丁寧に説いてくれます。
但し、馬耳東風、馬の耳に念仏で、私はどれほど理解したのでしょうか。

本書は昭和40年中央公論社の「日本の歴史」の一冊として出版され、私が読んだのは2005年改訂文庫本です(この文庫本にはいくつかの誤植があります)。

この本のクライマックスは応仁の乱ですが、この話は後回しにして、時代風景を眺めてみましょう。
著者が力を入れたかったことは、むしろこのことだと思いますから。

荘園

「中世期の日本は『農業国』だったのではない。沢山の職業があったのだ」と、網野義彦氏は強調しますが、
それにしても、農村がどのような状態であったのかを知ることは、日本の社会を認識するうえでは最も重要なことの一つだと思います。

そこで、農民が基盤としていた荘園はどのようなものだったのか。
この話からしたいのですが、専門的にはこれがなかなか難しい話で一言では言えないようですが、
取り敢えず次のように解釈しておきます。

中央の公家、寺社が所有した荘園には、通常在地の豪族を荘官として実務にあたらせていましたが、
鎌倉時代、幕府は義経追討とか平氏残党掃討とかの名目で、地頭を送り地方の警察監督をさせます。
時代を下るに従って、土着したこれらの荘官や地頭は、実質的に荘園を支配しはじめ荘園領主の力はどんどん削がれていきました。

荘園の詳細は理解していません。興味がありますので、更に、勉強してみたいと思います。
既に、以下の本を購入しました。永原慶二著「荘園」(2009年、吉川弘文館)、関幸彦「武士の誕生」(1999年、日本放送協会)、服部英雄「武士と荘園支配」(2004年、山川出版社)、石川進「中世武士団」(2011年、講談社)(既読)

 

農村の萌芽

一方、荘園で生活する民百姓はどのような状態であったか

当時の農地は、荒れ地に交じって農地が点在していたのが実情で、
しかも、特定の荘園領主が一帯の農耕地を面的に所有したというより、色々な荘園がモザイク状に農地を所有したようです。

それまでの農業は生産性が悪く、農民は荘園に出かけて協同で作業する状態でしたが、
この時代は農業の生産性が向上して、農民はそれぞれに自分の土地を耕作する形になってきました。

農業の生産性は、土地の有効利用、水の有効利用が欠かせませんので、農民は近隣の農民との協同が必要となります。
すなわち、荘園の垣根を越えてまた血縁関係よりも地縁関係が重要になってきます。
隣接する農民は数戸が集まって濠をめぐらし外敵に備えます(この構えを垣内(かいと)といい街道に通じるそうです)。
更に農民達は更に大きく村=惣を結成していき、
村によっては長い血みどろの争いの末に、守護不入自検断=すなわち守護に立ち入らせず自らが警察、裁判権と行使する権利を勝ち取る土地も現れます。

農村のリーダー

これらの村はいわゆる水飲み百姓だけではなく、武力をもっとリーダーがいました。
それは、在地のいわゆる国人と言われる人々で、本来中央の権力者の指示を受けて、農村を管理支配している人たちでした。
さらに、農民のなかにはこれらの在地武士に従事して、勝手に侍名字を使うものが現れます。

 

様々な産業の発達

この時代農村以外の発達も目覚ましいものがありました。
貨幣経済の発達と共に、商業が発達し、京都上京では、薬・唐物・白布・綿・酒・味噌・そうめん・襖・材木・炭等々、
下京でも綿・小袖・絹・袴腰・材木、今宮魚座・麹座等々があったそうです。
地方にもそれぞれに特産品の生産が活発になっています。

大商人特に土倉や酒屋は、幕府や戦国大名を支える大きな柱にさえなります。

当時、京都への海の交通路は、瀬戸内海から淀川を北上するルートと日本海小浜から陸路琵琶湖の北岸今津、木津に至り、琵琶湖を南下するルートが使われました。
朝鮮、明との貿易が盛んで、堺や博多や瀬戸内海の港は相当に繁栄したようです。

秋月氏

戦国末期、足利幕府の力は地に落ちていましたが、田舎大名にとっては、その権威は捨てがたく、大友宗麟(そうりん)は幕府に莫大な献金をして、九州六国(豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後)の守護職と九州探題職を獲得します(1559年)。
唯一気がかりだった毛利との消耗戦も、幕府に仲介を頼んで講和を結びましたので(1564年)、この時期宗麟は平穏な絶頂期を迎えていました。

 

一方元就(もとなり)はといえばそんな呑気なことは考えていません。
前門の虎・大友と和睦したことで、後門の狼・山陰の尼子に全力であたり、遂には尼子を滅ぼすと(1566年)、とって返して、再び九州への触手を動かします。

 

元就はまず宝満城城主・高橋鑑種(あきたね)が宗麟に不満をもっていることを察知し、反大友を持ちかけます。
鑑種といえば宗麟の最も信頼している家臣の一人で、大友家のためによく働き、秋月文種攻めにも十分な働きをした人物です。
しかし、この時鑑種は宗麟を非常に恨んでいたのです。
その一因は、宗麟が鑑種の兄・一万田親実を殺害し、その美貌の妻を妾にしたことだと言われています(異説あり)。

 

1557年、秋月文種が大友に攻められて古処山城で敗死したとき、周防の毛利に逃れた3人の息子達は、1560年頃に毛利の支援を受けて、旧臣と共に秋月の山城・古処山城を攻めとり、秋月の地盤を固めていきます。このとき嫡男秋月種実(たねざね)は17、8歳の若武者になっていたといい、嘗て父文種を討った高橋鑑種は種実の帰還を大いに喜び、親子の契りを結んだといいます。

同じく筑紫惟門(これかど)も毛利の支援を受けて、五ケ山に帰還します。

元就の誘いを受けた鑑種は種実や惟門と同盟し、鑑種は太宰府に近い宝満、岩屋で、種実は古処山で、惟門は五ケ山で反大友の狼煙を上げます(1565年、1567年説あり)。

これに呼応し大友に不満を持つ豊筑の豪族たち(麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤寺)、更には大友一族の立花城主・立花鑑載(たちばな あきとし)も毛利に味方します。

当時宗麟は多くの守護職を独占していたので、さぞかし絶大な権力を誇っていたのだろうと思っていましたが、九州で覇権を競う竜造寺や島津が大友に敵対するのは当然としても、関門海峡の向こうから手出しする毛利に、地元の武将がいとも簡単に味方するのを見るにつけ、宗麟がいかに人望がなかったかの証明ではないのかと思います(歴史を知らない私の偏見でしょうか)。

反大友の旗揚げに対して、大友軍が大軍を組織して敵の城を攻めます。大友家には沢山の猛将がいました。立花道雪(どうせつ)、高橋紹運(しょううん)、立花宗茂(むねしげ)等の勇猛ぶりは語り草になっています。

これから数年間、北九州、特に福岡県全域は大友対反大友の戦乱に明け暮れ、結局反乱は大友に鎮圧されます。

毛利・秋月側が破れた一番大きな原因は、毛利が予想外に十分な戦力を投入できなかったことだと思います。すなわち策士宗麟は、尼子、大内の残党を刺激して毛利の背後をつかせ毛利の動きを封じたのです。

戦闘の詳細は、諸説あってよく分からないところがありますが、おおよそ次のようなものかと理解します。

1567年6月、宝満城・高橋鑑種、五ケ山・筑紫惟門蜂起、惟門は同年陣中で死亡(死因は諸説あり)し、筑紫軍は大友に投降。
1568年4月、立花鑑載蜂起、立花城で敗死。
1569年5月、毛利軍が多々良浜の戦いで大友軍に敗北、同年11月毛利軍九州から撤退。
同年高橋鑑種、秋月種実投降(時期は異説あり)。

立花城、宝満城、岩屋城:吉永正春「筑前戦国史」より

高橋鑑種も秋月種実も辛くも助命され、鑑種は高橋家の家督を奪われ小倉城に移され、鑑種で断絶した高橋家の家督は吉弘鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)が高橋紹運と改名して継ぎます。また種実は拡張した領地を没収され、父文種の時代の領地に封じられます。

反大友の居城であった立花城には立花道雪(後の名前)が、宝満城、岩屋城には高橋紹運が入り大友は博多および太宰府の守りを固めます。のち道雪に熱望され、紹運の嫡男統虎が道雪の養子となり、宗茂と改名して立花城を守ります。

 

それから約10年後の1578年、宗麟が耳川の戦いで島津に敗れると、佐賀の竜造寺が大友領を侵食し、続いて、1584年竜造寺が沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津に敗れると、今度は島津が竜造寺の領地と大友の領地を侵食します。秋月も時に応じて竜造寺、島津に味方して、大友の領土を侵食し、一時は36万石の領地を支配します。

島津・秋月は太宰府・博多に迫り、1586年高橋紹運(立花宗茂の実父)が岩屋城で玉砕。立花城主・立花宗茂は懸命に持ちこたえます(立花道雪は1585年病没)。
この間、宗麟は上阪、秀吉に謁見し、秀吉の家臣になることを申し出、同時に九州出征を要請します。

 

これを受けて、秀吉は大軍を従えて九州に押し寄せ、島津に降伏を迫りますが、拒絶。
同様に秋月の重臣が秀吉にまみえ秀吉の力を認識し、降伏の条件を聞き出し種実に伝えますが、種実はこれを拒否、重臣は切腹(重臣が切腹したと伝えられる「切腹岩」が秋月城址近くにあります)。

秀吉が、じきじきに兵を従え古処山攻めを開始、種実は秀吉と戦火を交えで初めて、秀吉の強大さに驚き投降します。戦前に示された降伏の条件はすべて反故にされ、約400年間住み続けた秋月の地は没収され、僅か3万石の日向高鍋に領地替えさせられます。種実が秋月を去るとき、「たとえ10石でもいいから、秋月に残りたい」と言ったということです。

秋月種実は結局時代を読み切れなかった、井の中の蛙だったのでしょうか。

 

 

私は北九州戦国史を勉強していて、とても興味を持ったのは、秋月家にまつわる人々の生き様、ものの考え方が実際はどうだったのかということです。もちろんインタビューできるわけではないので、推測するしかありません。

最初、高橋家についてです。
高橋は大蔵系の家柄ですが、跡取りがなくなったとき、その存続のために大友系一万田左馬之助が高橋鑑種と名前を変えてが家督を継ぎ、高橋鑑種が宗麟に反旗を翻したことで、家督を没収され、今度は吉弘鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)が高橋紹運を名乗り高橋の家督を継ぎます。優秀な大友一族がどうして2度までも大蔵系の家系を継いだのか。高橋家は特別の家柄だったのでしょうか。

第二に、高橋鑑種は宗麟の命で秋月文種を討ちますが、のち文種の嫡男・種実と同盟し宗麟に反功します。
高橋鑑種は結局敗れ、小倉城主になりますが、ここでも秋月種冬を養子に迎え小倉城を任せませます。鑑種の秋月に対する思いはどのようなものだったのか興味がわきます。

第三に、どうしてこれほど秋月は大友に反抗したのか。
秋月は一時期大友の家臣だった時期もあったようですが、ほぼ一貫して反大友を貫きます。なにがそうさせたのでしょうか。

第四に、秋月種実の兄弟、子供は各地の城主の養子になっています。
筑後秋月には黒田家が入り、黒田と秋月は婚姻関係を持ちます。黒田家も秋月家に敬意を払ったようです。また高鍋藩6代藩主秋月種美の次男・治憲(はるのり)は、米沢藩に養子に出て、上杉鷹山(うえすぎようざん)を名乗り江戸時代屈指の名君として知られています。

秋月家について今回勉強した以上のことを私は知りませんが、秋月家は小粒ながら優秀な子孫を残しているように推測します。秋月家の家風はどのようなものだったのか興味が尽きません。

秋月

福岡県のほぼ中央・朝倉市の山間部に秋月という城下町があります。
私が現在住んでいる町からさほど遠くなく、
城下町にしてはロマンティックな地名に、どういう由来があるのか前々から気になっていたので、昨年紅葉の季節にちょっとだけ行ってみました。

萩や姫路のように大きな町ではないし、何度も戦乱に荒らされたのでしょう、
往時の史跡も余り残っていませんが、それでも観光地特有の雰囲気があり、お土産さんが数軒並んでいました。

秋月城の城主秋月氏の祖先は中国・漢王朝の血統をひく帰化人で、
平安時代大蔵性を名乗り、藤原純友の乱(940年頃)で武功をあげたことで、
平安朝から九州の所領を与えられ、大宰府の官人となって北部九州に土着したと言われています。

時代が下り、源平の合戦(1185年頃)では源氏に味方したのですが、
鎌倉幕府から重視されず、幕府から送られてきた生え抜きの東国御家人=少弐、大友、島津より一段下の立場に置かれ、
戦国の世では在地武将は何れも同じでしょうが、大蔵党も少弐、大友、島津等の大大名の家臣になることで自家の存亡をかけることになります。

 

大蔵党には沢山の分流=分家があります。
原田(筑前国御笠郡)、高橋(筑後国御原郡)、秋月(筑後国朝倉郡)、田尻(筑後国山門郡)、江上(筑後国三潴郡)は同族です。

1200年頃、秋月種雄は秋月の地に築城、以来中小領主としての精いっぱいの戦いを重ね、
反大友、最後は島津の一翼として秀吉軍と戦い、降伏、日向高鍋に配置換えになるまでの約400年間、当地を根拠地にして、戦い続けます。

秋月家と同族の高橋家では、
宗麟の家臣だった高橋長種に嗣子(しし、跡継ぎ)がなかったことから、
宗麟は大友一族の一万田左馬之助に高橋の後を継がせます。左馬之助は高橋鑑種(あきたね)を名乗り、若くして武勇に優れ、
宗麟から大いに信頼され太宰府の宝満山、岩屋の城主に任じられますが、
後日鑑種は秋月と組んで激しく宗麟を攻撃します。

余談ですが、豊前・筑前の歴史を読んでいて誰が誰だか分からなくなります。
第一の理由は、大友・大蔵共に分流が多く、当主に実子がいないときは、他家から養子をもらう習慣があったので、
途中から本人の名前が変わって、同じ人物の複数の名前を繋合わせる作業が必要になります。
第二の理由は、武家では通字(大友けでは鑑-あき、鎮-しげ、秋月家では種)を使うので、
似たような名前の人物が沢山登場します。よくよく見ないと違う人物のことがあります。
第三の理由は、大蔵の支流の家名であったはずの「高橋」氏が、大友流の重要な家名になります。
しかも、大友の重鎮の高橋家と反大友の高橋家があり、敵だが味方だか分からなくなります。

 

さて、前回もご説明しましたが、九州北部特に博多は戦国武将の争奪戦の場になります。
博多への進出に熱心だった大内が毛利に敗れる(1555年)と、
その隙をついて大友は、大内が支配していた門司城を奪取(1557年)。しかし直ちに毛利は反撃し、1558年にはこれを奪いかえします。
これを契機に毛利と大友の攻防戦は長きに亘って続くことになります。

基本的に毛利の侵入・大友の防戦の構図です。
1557年毛利元就は大友配下の不満分子=秋月文種や筑紫惟門(これかど)の調略に動きます。
いち早くこれを察知した大友宗麟は大軍を動員して、秋月文種を古処山城(秋月)に、筑紫惟門を五ケ山に攻め壊滅します。
このとき上記の高橋鑑種は大友軍の大将の一人として古処山城を攻め、秋月文種を敗死させます。

秋山城主・文種は落城直前、家臣に3人の子供達を託し、山口の毛利家に逃します。
この時筑紫惟門も敗れ毛利に逃れます。

大友宗麟

戦国時代の一時期、九州に覇権を誇ったキリスタン大名大友義鎮(よししげ、後宗麟ーそうりん)はいったいどういう人物だったか。

評価は真っ二つに分かれるようです。
才気煥発、正義感にあふれ、宗教に深い関心を持つ等々の評価を受ける反面、行動粗暴、実父に嫌われ、策略を弄し、好色家で多くの妾を蓄え、冷酷で優柔不断だというものです。

私は彼と会ったことは勿論ありません。が、私の独断と偏見によると、後者の評が正しいと思います。私には義鎮(宗麟)が賢君だったとはとても思えません。

 

大友家
出自は藤原氏を祖先にする説と頼朝落胤説があるようですが、はっきりしているのは初代大友家当主能直(よしなお)は鎌倉幕府、頼朝に豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任され、九州に下向したということです。鎌倉幕府からの命令で九州に下向したのは少弐、島津と同じです。
それから戦国時代までの300年あまりの間、大友家は多くの庶流=分家(吉弘、戸次、立花、臼杵、田原、一万田等)を輩出しながら、府内(大分)を中心に勢力を固めていきます。

義鎮(宗麟):1530年~1587年。父大友義鑑(よしあき)は嫡男義鎮を嫌い、家督を義鎮の異母弟である塩市丸に譲ろうと画策しますが、義鎮を推す一派が反義鎮一派を襲撃(「二階崩れの変」といわれています)、義鎮は重症を負った義鑑から家督を強奪します(1550年、義鎮21歳。以下宗麟といいます)。

宗麟が生きた時代背景をおさらいしておきましょう。
室町幕府は15世紀中葉には弱体化し、将軍足利義教(あしかが よしのり)が赤松満裕(あかまつ みつすけ)に殺される(1441年)始末で、日本中混乱を極めていき、1467年から約10年間に亘って応仁の乱が勃発し、下剋上=力の論理が幅を利かしていきます。15世紀末から16世紀末まで戦国時代といわれ、宗麟は戦国時代末期、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉とほぼ同時期に活躍しました。

宗麟が家督を継いでからの20年間大友家は順調に勢力をのばし、1570年頃には南の島津を除く九州全土を勢力下に置きます。
宗麟がこの時期順調に勢力をのばした外的要因は、一つには北部九州では室町幕府の力が落ちて、残ったのが比較的弱小の武将であったこと、大内は毛利に後ろをつかれる恐れで全力をこの地に傾注できなかったこと、等時の運があったと思います。
宗麟は戦争の最前線で指揮を執るのではなく、先に記したような頼りになる多くの武将がこれらの戦いでは十分な働きをしてくれます。宗麟自身はもっぱら在地武将の凋落や室町幕府に多額の献金をしたりの裏工作で成果を上げます。室町幕府からは九州各国の守護職を獲得、さらに九州探題の地位まで獲得します。

 

北部九州には、他の地域とは異なる戦乱の火種があったと思います。
第一に博多は明との貿易で莫大な富を生みだしていましたので、室町幕府はじめこの地を支配しようという勢力が絶えません。
室町幕府が弱体化すると、山口の大内が触手を伸ばし、そうはさせじと九州の豪族、少弐や菊池や大友が反抗しますが、力に勝る大内は1530年ころには博多を手中にいれます。ところが領主大内義隆が奢侈に走ると、武闘派の陶隆房は義隆を殺害(1551年)、大内家は混乱に陥ります。これを逃さず毛利元就が大内を攻め、今度は毛利が博多を狙ってきます。

このように、この時代筑前(福岡)では博多が常に火種になり、大友、大内、毛利、竜造寺等々が敵になり味方になり強奪戦を繰り広げます。

この地のもう一つの不安定要因としては、在地の武将の存在です。

日本中に在地の武士団はいたのでしょうが、他所と少し違うのはこの地には太宰府があり、その退役官人が武士団を作っていましたし、平安時代藤原純友の乱の鎮圧に力があった荘園出の武士団がいたことです。彼らからすれば、鎌倉、室町時代より古い名家で、幕府が送り込む守護大名とくらべ、家柄としての誇りがあったでしょう。新参者に対してそれなりの反発心があったと思います。秋月家や菊池家等が該当します。

最後にこの地の紛争のタネは領主自らが作ります。

一つは宗麟のキリスト教への傾斜です。
宗麟としてはキリスト教がもたらす経済効果も期待したのでしょうが、説得力に欠け多くの家臣は反対し、大内家の不安定要因になります。

そして、決め手は宗麟の女癖の悪さです。手当たり次第に妾を作り、あろうことか家臣を殺害してその妻を妾にします。
この殿様についてくる家臣はいないでしょう。

 

宗麟絶頂期1578年、宗麟は大軍を日向に送り島津と戦争を始めますが、耳川の戦いで大敗し、衰退の道をまっしぐらに転げ落ちます。
勢いづいた島津軍は北上し、大友軍を府内(大分)に追い詰め、大友家を守ってきた立花道雪高橋紹運等の猛将も倒れていきます。

後は大阪に上って、秀吉の配下になることを条件に、秀吉を九州征伐に仕向けるのが残された方策でした。秀吉が大軍を引き連れて久留米に到達したとき島津は降伏、しかし宗麟はことの決着を見る前に死去します。近親者による毒殺とも病死ともいわれています。

 

いつの間にか雛が2匹かえっていました
いつの間にか雛が2匹かえっていました(5/25)。そして26日には巣立ちしました