日本論

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益井康一「なぜ日本と中国は戦ったか」 2

アヘン戦争(1840年)で清が英国に敗れると、
「眠れる獅子」の実態を知った西欧列強はこぞって中国に襲い掛かる。

日清戦争(1894~1895年)で、日本が清に勝利し、清から遼東半島と台湾の割譲を受けるが、
遼東半島については、ドイツ、フランス、ロシアが反対したために、
日本はその権益を放棄する(三国干渉)。

ところが、日本を牽制した西欧は自分の欲望は拡大し、
ロシアは遼東半島の旅順・大連を、ドイツは山東半島の膠州湾を、
イギリスは九竜半島をフランスは広州湾を租借する。

当然中国国内では、列強の侵略に反対して排外運動が活発するが(義和団の乱等)。
列強は、自国民を守るという名目で、北京や上海に軍隊を配置する。

日清戦争後、満州・朝鮮半島に触手を伸ばすロシアと日本は対立し、
日露戦争(1904年から1905年)が勃発。
日本はこの戦争にも勝利し遼東半島および満州の権益を得るが、
満州の権益をめぐって今度はアメリカとの関係が悪化していく。

中国の国内情勢は益々不安定になり、
日本の支援を受けた孫文が1911年上海で中華民国大統領に選出され、
1912年遂に清国は滅亡するが、
その後も中国の混乱は続き、日本が押す孫文とイギリスが押す袁世凱が対立、
孫文は一時日本に逃亡する。

1914年第一次世界大戦が勃発すると、
日本は日英同盟を根拠に参戦、膠州湾・青島のドイツ軍を撃退、
戦後、日本はドイツが保有していた中国の権益の移譲を求め、
中国と深くかかわるようになる。

革命ソ連は依然として満州への侵攻の機会を伺っていたが、
これに危機感をもった日本は満州への支配を強め、満州事変(1931年)を引き起こす。
批判にさらされた日本は、
第一次世界大戦後結成された国際連盟の常任理貴国の地位を捨て、
国際連盟を脱退、孤立の道を突き進む。

中国では、蒋介石の国民軍と毛沢東の共産党が手を組み(1936年、西安事件)、
いよいよ日本は中国・西欧を敵にまわした大戦争に突入していく。

1937年、盧溝橋事件を契機に日本と中国は全面的に争うことになり、
日本軍は上海や、南京、上海の北徐州で激戦を続け、
更には、南京陥落を前に西部山岳地帯・重慶に逃れた蒋介石を追って、
南京の西・武漢(漢口)に兵をすすめ、ここを拠点に重慶を激しく空爆する。

日米の開戦前、アメリカは義勇兵を募り重慶の蒋介石を支援、
開戦後は、重慶から飛び立った米軍のB29は、武漢や中国に展開している日本軍を攻撃、
更には九州を爆撃する。

その間別働隊は、広州、香港、桂林を占領するが
(日本が香港や桂林を占領したことは知りませんでした)、
このあたりから日本軍は弾薬が欠乏し、敗戦の気配が漂ってくる。

 

この本では、おそらく当時の新聞記事をもとにしているのでしょう。
中国戦線をかなり細かく書いていて、各作戦にどの部隊が参戦し、
日本軍および中国側の損害や捕虜がどれ程であったか数を明記しています。

私は今回初めて中国戦線の勉強をしました。
細かいことは覚えていませんが、色々なことを知り、色々なことを考えます。

一番は、日本が一直線で戦線拡大していったことで、
著者も書いていますが、何度も踏みとどまる機会があったということです。

狂気の中では、人は立ち止まることができません。
日本の軍隊の中にも、戦線拡大に反対する人がいたようですが、
このような狂気では、大抵の場合先に行く方が支持されます。

卑近な話ですが、日本のバブル時代、ブレーキをかけなければいかなかったのに、
アクセルを踏んで会社に多大の損害を出した経営者がたくさんいました。
バブルの中では、冷静な判断ができません。

このような時こそ、知識人やジャーナリズムが全力でブレーキをかけなければいけないのですが、
新聞はむしろ日本軍を囃し立てました。

軍国主義の時代、文民は口出しできない状態だったのでしょうが、
そのような国にならないように、常日頃真剣に国のあり方を議論し行動しなければいけません。

「盧溝橋事件は、中国が汚く仕掛けたのだ」という話がありますが、
中国は国土を侵略されていたのであり、
自分の国を守ろうとする人たちがどのような手を使おうが、侵略者には文句は言えないと思います。

問題は、初期戦線ではむしろ西欧が深く中国を侵食していたのに、
ある時期からは、西欧と中国が手を結び日本だけが敵になった構図です。

これこそ「西欧は汚い」といいたいが、戦争はそのようなもので、
日本の大局観の欠如を反省するべきだと思います。

日本は、日本人あるいは周辺国に多大の損害を与えました。
これは二度とやってはいけないことですが、唯一この経験を肯定できるとすれば、
ここからどれだけのことを学ぶかということです。

それは「すべては日本が悪かった」とか、
逆に「日本は正しかった」とか、
「戦争を放棄すれば、だれも攻撃してはこない」というような単純なことではありません。

日本が危険な状態にならないように布石を打ち、
危険が迫った時、どのように行動すればいいのか、常に考え行動しなければいけません。

賢くしたたかに生きていくことを学び、研究しなければいけません。

益井康一「なぜ日本と中国は戦ったか」

8月に「暫くお休みし、9月には再開します」と告げて、
結局再開がのびのびになってしまいました。

ブログを中断する前には、毎日400人を超える人がこのブログを訪れてくれていて、
それは嬉しいことですが、同時にプレッシャーになります。
中断する理由が、「忙しい」というのは間違いではなかったのですが、
それよりも、「書かなければ…」というプレッシャーがきつくなって、
「お休みしたい」と思ったのが本当のところです。

まとまったことを続けるのは、結構しんどいことです。
五木寛之は何十年も新聞にコラムを書いているそうですが、
職業とはいえそれだけで尊敬します。

私は職業としての文筆家ではないので、
今後は無理をしないで、「休むもよし、始めるもよし」と気楽にブログを続けたいと思います。

 

さて、中国との戦争はどうして起き、どのような経過を辿ったのか勉強しようと、
益井康一「なぜ日本と中国は戦ったのか」(2014年、光文社)を読みました。

著者は1911年生まれ、毎日新聞の記者として、終戦まで中国で戦場を駆け回った人です。
本の内容はまさに新聞記事のごとく、淡々としかしかなり詳細に戦況を語っています。

どの時期から従軍したのか、私が読み落としたかもしれません。
おそらく、1937年の盧溝橋事件あたりから、日本軍と行動を共にしたのだと思います。

本では日清戦争の戦後処理から始まって、日中戦争に至ったいきさつをざっと語り、
その後はかなり詳細に日本軍の動向について、
敗色を帯びてきた昭和19年までの、中国戦線の模様を書いています。

大半は中国での蒋介石軍との戦いについてであり、
毛沢東の名前は殆どでてきませんし、太平洋戦争についても書かれていません。

ピーター・ドース他「帝国という幻想」

日本は「大東亜共栄圏」をどのようなものと考え、どうしたかったのか知りたいと思い、
ピーター・ドース他「帝国という幻想」(1988年 青木書店)を読んでいます。
話が重くなかなか先に進みません。

この本は日米の専門家による共著で、
大東亜共栄圏構想のなかで、
朝鮮や満州や中国等をどのように位置づけたのか、位置づけようとしたのかについて書いています。

全7章からなっていて、次のように章立てなっています。

朝鮮観の形成
東亜同文書院とキリスト教ミッションスクール
引き裂かれたアイデンティティ
ミクロネシアにおける日本の同化政策
植民帝国・日本の構成と満州国
東亜聡盟運動
東条英機と「南方共栄圏」

序章「想像の帝国」(ピーター・ドース):

日本が開国した当時、ヨーロッパはダーウィンのいう「適者生存」の「科学的知見」からして、
弱者を支配するのは自然の節理であると、自分たちの世界戦略=帝国主義を正当化しました。

日本は開国にあたっても、また開国以降も西欧に対する被害者意識が後々まで続きます。

アメリカの歴史学者はアメリカの右翼の政治活動を「[パラノイド・スタイル]と名付けました。

ここでいう[パラノイド・スタイル]はありもしないことを妄想するのではなく、
「事件を陳述する際、ある特定の点に関して常になされる想像上の奇妙な飛躍」と定義しています。
(日本を論ずるときわざわざこのような言葉を使うこともないと思いますが。)

日本は開国後の不平等条約についても、
(ドウスは書いていませんが、
日露戦争でロシアから権益を移譲された遼東半島のを3国干渉で放棄せざるを得なかったことについても、)
第一次大戦後関東軍の満州侵攻に対する西欧の横やりも、
被害者意識をつのらせますが、これらはすべて[パラノイド・スタイル]の概念で説明できるといっています。

1937年盧溝橋事件が発生し、日本は日中戦争に突入しますが、
これに西欧は反発し、日本への圧力を強めていきます。

日本は西欧からの圧力に比例して、独自の帝国の概念の構築しようとします。
その本質は西欧に植民地支配されたアジアに国々との共同を前面にだしすことです。

言葉は、東亜共同体、東亜連邦、東亜民族、東亜新秩序、
そして最後には大東亜共栄圏と変化しますが、
「日本の帝国」ではなくあくまでも「アジアの共同体」を謳います。

アジアは西洋とは異なる東洋の仲間の国は同じ文化を持つべきだと、
まず、台湾と朝鮮の「同化」を試みます。

しかし、日本が満州の実権をにぎると同化思想には無理があり、
むしろ独立を認め独立国との連盟という考えに舵を切ります。

第一次世界大戦後の西欧の考えでは、
「植民地は植民される側に利するような支配がなされるべき」という考えが力を持ち、
この延長としてこの信託統治とか委任統治といわれる統治が正当化されますますが、
その実態は、「先進国」が後進国の「後見」をするのだという論理になります。

1941年太平洋戦争が勃発し、日本が領土を東南アジアに広げると、
問題はさらに複雑になり、むしろ西欧植民地主義に近いものになってきますが、
被害者であるアジアの国々と共同体をつくり、
「ヨーロッパの植民地体制の抑圧と搾取、従属、奴隷状態が、
地域内の人々との協力と平等と友愛と相互の絆にとってかわる」と主張します。
実際、多くのアジアの独立運動家は、日本に期待を寄せ行動を共にします。

しかし、日本は戦争に敗れ、大東亜共栄圏の構想は幻想に終わります。
この戦争の終結についても、著者は次のようにいいます。

日本は戦争に敗れたが、アジアの国々に敗れたのではなく「白人帝国主義者」に敗れたので、
結局のところ、被害者意識がなくならないし、
「日本はアジアの解放者たろうとしたのだ」という幻想も依然として残存したままになった。

(西欧は戦後の植民地の独立により辛い経験をしたので、
けじめをつけたといっていますが、日本人である私には実感がありません。)

アジアの国々の指導者も、大東亜共栄圏構想の欺瞞を認識していてが、
それでも日本への期待をもっていました。

ビルマの総理大臣バ・モオは、
「日本ほど、アジアを白人の支配下から解放するのに尽くした国は、他にどこにもない。
にも拘わらず、解放を援助しまたは、いろいろな事柄の手本を示したその人々から、
これほどまでに誤解されている国もまたない」と述べています。

その原因は、軍部の蛮行につきる、
アジアの人々にしてみれば、
結局支配するものが西欧から日本に代わっただけだったと著者はいいます。

集団的自衛権

集団的自衛権の容認が閣議決定されました。

首相官邸前では、これに反対して多数の人がデモをしました。
「戦争が起こる危険が増し、若い人が死ぬことになる」という主張のようです。

しかし、私には反対する論理が理解できません。

TVで「私は悲惨な戦争に反対です」という街の声を流します。
誰ひとりとして、この言葉を否定する人はいないでしょう。

しかし、私はこの言葉にどれだけの重みがあるのか疑問に思います。

誰だって戦争が嫌いに決まっています。
だが、人類の歴史では、ほぼ休みなくその嫌いな戦争をしてきたのがです。

「戦争が嫌いだから、私は戦争をしません。
私が戦争をしないと言っているのだから、誰も私に戦争を仕掛ける筈がありません」。

小さな国で、他国と利害が反することがなければそれもありかもしれませんが、
世界有数の経済力を持つ日本が、他国と何の利害の対立もないと考える方がおかしいでしょう。

何もできない国だから、近隣諸国は日本の領土を侵すのです。
ロシアも韓国も中国も。

集団的自衛権を容認すると、
「アメリカのために日本人が死ぬことになる。だから反対」という意見もあります。
「日本のためにアメリカ人が死ぬのはいいが、そのは逆は反対」という正義感は理解できません。

そのような日本に対して、
アメリカがお人よしに自国の若者の命を賭して日本の窮状に必ず加勢する筈がありません。
加勢するとすれあ、自国の利益に抵触するときだけでしょう。

アメリカのあらゆる紛争に日本が加担する必要はありませんが、
「本当にアメリカが困った時には加勢します。
その代り日本が困った時には加勢してください」というのでなければ、
アメリカにしても日本が困った時に加勢する気にはならないでしょう。

今回政府が発表した[集団的自衛権]は、あくまでも日本の事態について米軍を支援するもので、
まったく双務的な防衛協定ではありません。

そのような日米の軍事的緊密関係は、近隣からの武力に対する抑止力になります。

そうでなく、日本が全面的に米国の軍事力の庇護のもとにあるというのは、「普通の国」とはいえません。

「普通の国」の人々は、ぼんやりしてはいけません。
政治家や政治を自分のこととして真剣にチェックし、深みに入らないようにしなければいけません。
本来知識人やマスコミこそが、政治に対してしっかりしたチェック機能を果たさなければいけません。

先の大戦で、大衆を煽ったのは大新聞だったのです。
日本の新聞は、命を賭してもブレーキをかけなければいけないときアクセルを踏み、
ハンドルを切らなければいけないときに、「このまま。このまま」と思考停止しています。

「『普通の国』でなくていいのだ」。
となれば、話はまた違ってきますが、「それでいいのか」ということです。

いじめられっ子のように、あちらでもこちらでも「ごめんなさい。ごめんなさい」と首をすくめている民族。

李氏朝鮮がこのようだったと理解しています。
軍隊といえるほどの軍事力を持たず、中国の顔色を常に伺いう国。

気位だけは高く、ひねくれた精神。

こうはなりたくありません。

会田雄次「アーロン収容所」

会田雄次さんは、私が若いころ今でいうコメンテーターとしてチョクチョクテレビに出てきて、
どんなことを言っていたのか覚えていませんが、コメントの後、シャクレタ顎で必ずニヤットするのを覚えています。

その後、あまりお見かけしませんでしたが、およそ15年前(1997年)にお亡くなりになっています。時の移り変わりを改めて気付かされます。

当時京大の教授で、
「アーロン収容所」(初版1962年、中公文庫版 1973年)の著者だということは知っていましたが、これまで読む機会がなくて今回初めて読んでみました。この本は教授が収容所で捕虜生活を送った日々を書いたものです。

著者は敗色濃厚だった昭和18年冬、初年兵としてビルマ戦線に送られ英軍に対峙しますが、戦力不足によりビルマ(現ミャンマー)東南に追い詰められ全滅を覚悟したとき終戦を迎えます。
英軍に武装解除され、その後約2年間ラングーンのアーロン収容所で重労働を強いられます。

この経験で著者は、
「英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰った来た」
といっていますが、この本では具体的な反感を持つに至った事件について、赤裸々な書き方をしていません。

収容所が楽しい筈はありませんが、面白そうな話を色々書いています。
著者は、辛いことがなかったのではないが、悲惨そうに書くのは「照れた」といっています。
分かる気がします。

一つ注意すべきは、彼らはいわゆる捕虜ではなく「被武装解除軍人」だったことで、戦時中に捕虜になった人たちは、更に悲惨だったろうといっています。

時々、垣間見る日本人捕虜はまったく別集団のように見えたといっています。

 

著者らは一か所に集められ、自由に外出することは禁じられます。基本、収容所では英軍の雑用や町の汚物掃除や港の荷役作業等をしたそうです。

その一方、衣服はもちろん、生きていくだけの食糧も与えられなかったので、英軍倉庫から盗んだり、様々なものを作ってビルマ人に売ったりして生き延びています。

何もない中で演劇をやったり、楽器を作ったり、本を書いて回覧したりそれなりの気分転換をしていたそうです。

この本で私が関心を持ったのは2点、日本軍・英軍の残虐行為がどうだったのかと、ビルマやインド人等の東南アジアの人達が日本人をどのように思っていたのかということです。

著者自身は英軍から肉体的な残虐は受けなかったそうですが、だからといって優しかったということではなく、精神的な残虐を受けたといっています。

要するに日本人を人間とみないで、まるで動物のように見ていたということです。これは前回ご紹介した[容赦なき戦争]の中でダウのが言っていたことを裏付けています。

彼らは、英人の女兵士の世話を当番でしますが、彼らに汚れたパンツの洗濯をさせたりしたということです。

また著者が、ある日女兵士の部屋に入ると一人の女が全裸で鏡の前で髪をすいていたが、女は何の恥じらいもなく、彼を完全に無視したし、同僚の女兵士も全く知らんぷりだったということです。

また、「禿鷹」とあだ名されたイギリス人収容所長は、夜の護衛役として日本人を使ったのだが、夜な夜な、ビルマの売春婦を連れ込み、日本人を無視して乱行に耽ったということです。最初のうちは日本人も面白がったが、やがて自尊心を酷く汚され落ち込んだといっています。

日本人捕虜と話す機会はほとんどなかったそうですが、ある時一人の捕虜と話す機会がありました。日本人捕虜から次のような話を聞いたといっています。

泰緬鉄道(映画[戦場に架ける橋]の舞台)の建設を指揮した日本軍100数十名が捕虜になっていて、彼らは戦犯部隊として川の中州に集められていました。その中州は潮が満ちれば水をかぶるので、兵士たちは一日数時間水につかっていなければなりませんし、もちろん草木も生えていません。

彼らは食糧は与えられず飢えに苦しんでいました。

そこには”毛ガニ”がたくさんいましたが、英軍はカニには病原菌がいるので、食べてはいけないといっていたそうです。

日本兵は飢えに耐えられず、火を入れる手段もないので、結局みんな生で食べたということです。

当然の結果、日本兵は赤痢にやられ、血へどをはいて死んでいきました。

英兵は対岸から双眼鏡で毎日観察して、全員死亡したのをみて、「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく (中略) 全滅した」といったそうです。

 

ビルマ人の残虐行為について、著者の体験を一つ書いています。

上官と二人で本隊に追いつこうと死線をさまよっていたとき、累々とする日本兵の死体の中で一夜を過ごすことになりました。

温厚なビルマ人が日本人の金歯をとる現場に遭遇したのです。暗闇に中で、日本人の断末魔の叫びを聞きます。女子供を連れたビルマ人の集団がまだ息のある日本人の頭を砕いて、金歯を取り出したということです。

 

残忍性については、文化によって生命を絶つ方法は異なるので、どの方法がより残忍だとはいえないと筆者は言っています。

なお、日本軍の残虐行為については、具体的に書いていません。

 

私は関心があったもう一つのこと。
東南アジアの人々は日本人をどう見ていたのかといことです。

著者が接したのは、ビルマ人、インド人、ネパール人(グルカ兵)です。インド人とグルカ兵はイギリス軍の一部ですし、ビルマ人は民衆です。

グルカ兵は一徹で、日本人にはとても厳しかったそうです。

しかし、インド兵とビルマ人は日本人に好意的だったようで、インド兵はイギリス軍の一員だったので、それなりに厳しい態度も見せましたが、酷く日本人に敵対することはなかったようです。

現地のビルマ人と接することは禁じられていましたが、イギリス兵の目を盗んで、ビルマ人と接触したし、時にはご馳走してくれたりしています。

 

私は幼いとき、終戦で韓国ソールから引き揚げましたが、ソールからの引き上げではそのようなことはありませんでしたが、満州や朝鮮の奥地からの引き上げは大変悲惨だったようです。

こうしてみると、今の韓国や東南アジアの対日関係は、そもそも戦争中あるいは終戦直後からの根の深いものだと推測します。