私的なこと

73件の投稿

孫のこと、家族のこと、私のこと

コーちゃんの心理

コーちゃんの引っ越しは3月12日に決まりました。遠くの都市ですから、もうあまり会えなくなります。とても悲しいことですが、息子の生活が第一です。コーちゃんがいい子で育つことを願うばかりです。

さて、先日ホームセンターに買い物にいくので、コーちゃんを連れて行きました。
最初に動物のフィギャーを買いました。以前可愛いい犬のフィギャーを買ってやったので、ゾウとか馬とかを選ぶかと思いましたがサメを選びました。

「これがいいの?」と何度も念を押しましたが、「うん」と答えます。正午近くだったので、マクドナルドで食事をし、必要な日用品を買って帰途につきました。

しばらく行くと後ろのチャイルドシートでコーちゃんが「恐竜」といいます。「恐竜」とは、そこから30分ほどの自然博物館で、これまで数度いったところです。そこには恐竜の骨格模型や「ガオー」と動く恐竜模型のほかに、小さな水族館があってサメがいるのです。

なるほど、サメを見たくなったのか。

「恐竜にいくの?」
「はい」

お母さんの留守電に「恐竜を見に行きます」と伝言し、車を反転させて自然博物館に向かいました。

途中コーちゃんは眠ってしまいました。

自然博物館に到着。
自然博物館に到着。

さっそく恐竜の部屋に直行。

それからサメを見に行きました。手にしっかりサメのフィギャーをもって、何度も何度もサメがぐるぐるまわってくるのをガラスに額をくっつけるように観察しています。

標本室に移ると幼稚園の遠足の子供がたくさんいました。コーちゃんは彼らに混じってわが物顔にそこらじゅう駆けまわっています。

幼稚園の子供と一渡り遊んだあと、外に出てここでも駆け回ります。もう3時を過ぎていたので、「帰ろう」とコーちゃんを促して、駐車場に向かいました。コーちゃんはさすがに疲れたらしく、なかなか動こうとしません。何度も「帰るよ」と呼びかけます。

しぶしぶついてきます。

抱いてほしいのです。

彼は私にはダダをこねません。私はいつも彼には優しくしています。しかし私は優しいけれど甘い人間ではありません。もし彼がダダをこねれば拒絶すると思います。

彼は一切ダダをこねません。

車にたどり着いて、チャイルドシートに座らせると、小さい声で「お母さん」といって涙ぐみます。おそらく母親がいれば「抱っこ」を強要したのでしょう。

彼の心理はどのようだったのだろうと思います。私は彼に優しいのですが、彼はその優しさに増長してダダをこねることはないのです。私が怖いと思っているのでしょうか(私はこれまで一度も彼を叱ったことはありません)。あるいは彼はダダをこねて優しいじいちゃんの不評を買い、じいちゃんとの良好な関係を損ないたくないと考えているのでしょうか。

あるいは幼児のそれとは違う心理なのでしょうか。

くたびれた彼にもう少し優しくしてやればよかったのだろうか。あるいはそれでよかったのだろうか。

遠くに行ってしまうと、会うこともなくなるのでしょう。彼の心のなかに優しく気の合うじいちゃんを覚えていてほしいと願っています。

晃一くん2歳6ヶ月。

ボランティア

孫が引っ越すことになり、大変かなしく思っています。

「そうだボランティアをしよう」と思い、近くの中学校にメールを送り、
「できることがあればやらせてください」とお願いしました。

学生のとき中学生を何人か家庭教師で教えた経験がありますので、
「英語なら大丈夫だろう」
「数学は教科書を見ないとわからないが…」
「勉強の方法なら教える自信がある」等々考えて、
補習のお手伝いでもさせてもらおうと思っていました。

中学校の校長先生からお電話をいただき、
「一度お会いしたい」とのこと、
早速、すぐ側の中学校に出かけました。

地域内の二つの小学校の校長先生もお見えで、
具体的お話ではなかったのですが、
「顔合わせ」ということで、
できることをやらせていただくようお願いし、
先生方もそれなりの期待をされた様子でした。

私が住んでいるところはつくばに1時間程度のところですし、
近くには東大の研究所もあります。

これらの施設には私自身多少のご縁がありますので、
子供たちに研究所を紹介したり、
逆に研究者の方に学校に来てもらったり、
子供たちに多少とも科学技術への親近感を持ってもらうお手伝いができればいいな、
と思っています。

まだ具体的ではありませんが、
次の世代の子供たちに少しでも役に立つことができれば、
これはこれでうれしいことです。

コーちゃん

孫のコーちゃんは、2歳5ヶ月になりました。

こちらの言うことのオーム返しが出来るようになり、単語が大分増えました。
「おとうさん」、「おかあさん」は発音があまり上手でなく、
状況がわからないと何といっているか分かりません。

「じいちゃん」ははっきり発音し、時々「じいちゃん」を連発します。
わたしはコーちゃんが大好きですし、
コーちゃんも私が気に入っていると思います。

同年輩の幼児に比べて並外れて活発で、
わたしと散歩する時などそこらじゅう駆け回り、
50センチ程度のところからは飛び降ります。
顔には小さな傷が絶えません。
大きな怪我をしないことを祈っています。

好き嫌いがハッキリしていて、
何でも「好き」、「嫌い」を即答します。
恐らく母親が可愛がりすぎたためだと思いますが、
母親には強烈に駄々をこねます。

親がいないとき私に対してはとてもいい子です。
私のいうことをよく聞いてくれます。

コーちゃんは活発で頭のいい子だと思っていますが(爺馬鹿です)、
唯一気がかりなのは、少し年上の子に無条件で近づいていくことです。

おとなに媚を売るのではないので、
そのような心配ではないのですが、
少し年長の子にはほぼ必ず近づいていき遊ぼうとします。
恐らく、今いい遊び友達がいないのだろうと思います。
同年輩の子供とは波長があわないので、
「いい兄貴が見つかるといいのだが」と思っています。
4月から幼稚園にいくので友達ができることを期待しています。

妻は九州の実家に手伝いにいっていますので、
時々私はコーちゃんと二人きりでお出かけします。
そういうとき私はコーちゃんの家に迎えにいき、
半日コーちゃんと遊んで、彼の家に送っていきます。

お正月妻が我が家に帰ってきました。
4日には、コーちゃんを我が家で遊ばせようと息子に連れてきてもらいました。
遊んでいる間に息子はこっそりと帰ったのですが、
しばらくすると、お父さんを探し始め、「おとうさん、おとうさん」と悲しがります。
彼はお父さんと一緒に来たのであり、
「お父さんがいなくなった」という認識があります。
わたしが彼を連れ出すときは、そのような悲しがりはしません。
「じいちゃん」とのお出かけで親から分かれてきた状況と、
気がついたら親がいなくなったのでは違うのでしょう。

6日には妻と私とコーちゃんでデパートに行きました。
母親と一緒のときはわがままが出るのですが、
お子様ランチはどれも「嫌い」を言わず食べました。

お子様ランチのおまけにオモチャがついていて、
かごの中からプラスチックの包丁で切るトマトのオモチャをもらいました。
家にすでに一式持っているのですが、
とても好きでトマトの真ん中をマジックテープでくっつけたり、
包丁で切ったりして遊んでいます。

食事がすんであまりにチョロチョロするので、
私はコーちゃんを抱き上げて妻の買い物に移動途中トマトを落としてしまい、
衝撃でトマトが欠けました。
コーちゃんはとても悲しそうに「おかあさーん」と泣きそうになります。

妻が食器を物色している間、
コーちゃんと階段に座って、「チューリップ」の合唱をしました。
「さいた さいた チューリップの花が、 
ならんだ ならんだ あか しろ きいろ」
全部は歌えませんが、節回しのところどころで声を出して、
彼なりに精一杯歌います。

この世に生を受けて僅か2年半で歌を歌うようになる子供の成長に感動します。

息子がもしかしたら引越します。
とても悲しく思っています。

人生を変える

今若者が学校を出ても職につけなくて大変厳しい時代が続いています。

私が若い頃はまだ日本に貧乏があって、私の通っていた公立中学から高校に進学したのは、男子で1/3、女子では1/5程度ではなかったでしょうか(もっと少なかったかもしれません)。さらに公立高校から大学に進学したのは同じく男子で1/3、女子も1/5程度だったのでしょう。

当時が今と人々の気持ちで違うのは、当時はたとえささやかであっても、それぞれが「目標」を持てたということでしょう。一つは「アメリカ」が象徴する豊かさへの憧れであり、可能性への期待感があったと思います(可能性を求めて多くの若者が東京を目指しました)。

今の時代は、私たちの時代より数倍物質的には恵まれていますが、心のよりどころをどこにも求めることのできない絶望感があるもかもしれません。

 

私は戦中生まれで、西日本の1地方都市で育ちました。私の父は建築の職人(親方)で、兄3人も父の手伝いをしていました。

私は男ばかり6人兄弟の4番目で、兄弟の中で唯一公立高校に進学し、職人一家の中では「出来る」子供でした。

しかし公平にみれば高校は中くらいの成績で平凡な生徒でしたが、それでものんきに地元の大学に進学して、将来は建築家になることを夢みていました。

家計のことは無関心でしたが、恐らく父の会社は経営が困難になっていて、私を大学に進学させる経済的余裕がありませんでした。

高校3年の正月を前に、父と一緒に働いていた兄から「大学にはやれない」と涙ながらに告げられました。
頭が真っ白になりました。
卒業を間近に就職活動を始めてみても、どこも使ってくれるところはありませんでした。

残された道は私も兄達と同じく父の仕事を手伝うことでした。

3月になると高校の授業もなく、それぞれに就職や進学の準備をしています。
とても皮肉なことに父は地元の大学の工事を請け負っていました。
国立大学の発表の日でした。
天気のいい寒い朝だったと思います。
私も朝から大学の建築現場で、鍬を使ってトロ箱でモルタルを捏ねていました。

誰かが私の目の前を通りすぎようとしています。
「ふっと」目をやると、数日前まで席を同じくしていたクラスメートでした。
小倉君と井口君と北川先生です。

私は声を上げることができませんでした。
かれらが私に気づいたのかどうか知りません。
影絵のように彼らの横顔が「スーと」通り過ぎていきました。
今も鮮明に覚えています。
目の前何メートル先だったのでしょうか。
遠い昔の映像は今も私の脳裏に焼きついたままです。

「なぜこういうことになったのか」私は深く反省しました。
「誰のせいにすることも出来ない」。
「すべては自分のせいだ」。

しばらく建築現場で働きました。
幸い兄弟が沢山いたので兄弟のサポートを受け、2年遅れて地元の(そう私自身土方仕事をしていた)国立大学の建築学科に進むことができました。

 

私は意志の強さを信じています。

「同じ人間に出来ることが自分に出来ないはずがない」と。
(スポーツ等生まれながらの身体能力にかかわることでない限り)

僭越ですが、苦悩する若者にエールを送りたいと思います。
「負けるな」

治療経過そして退院

先月29日入院以来朝晩抗生物質の点滴を受け、24時間鼻から酸素の吸引をしました。治療はこれだけで、だいたい一日おきに血液とレントゲン検査をします。

月日
白血球数
赤血球数
CRP
GOT
GPT
35~94
376~493
0.3以下
8~38
4~44
7月29日
113
462
6.35
16
6
7月31日
88
430
16.26
29
26
8月2日
78
416
14.11
50
111
8月4日
72
410
10.50
24
73
8月9日
61
416
2.68
14
27
8月11日
59
400
1.21
14
22

肺炎なので当然ですが白血球数は入院当初高い値を示していました。
が、早くも治療3日目には抗生物質が効いてきたようです。ただしその代わり肝臓にダメージを与え、8月2日には GOTの値が跳ね上がりました。その日から肝臓を保護する薬の注射が始まり、8月9日にはこれも押さえ込みに成功です。

ただCRPという炎症反応値は高いままです。これがなかなか下がりません。

主治医が肺に水が溜まったいるようだと、8月5日肺の水を抜きました。
当然初めての経験ですが、病室のベッドのそばの丸椅子に座って背中から針を刺し
およそ700mlの胸水を抜きました。
350ml缶ビール2本分です。水とはどのようなものなのだろうと興味津々でしたが、半透明で血液が少し混じって桃色でした。例えようが分かりませんが、想像していたたとえば痰のようなものではありませんでした。

肺にダメージがあるので、「酸素」が一つの肺機能測定のバロメータで、入院以来ずっと酸素を鼻から吸入していましたが、体内に取り込んだ量を示す数値がなかなか改善しません。健常者では97から100の値をとるようですが、私は酸素吸入してやっと95を超える程度です。

入院当初少し大きく呼吸すると、肺が引っ張られる感覚がありましたが、胸水を採って2日目あたりから、呼吸が楽になりました。

体温は朝は平熱ですが、夕方に微熱がでる状態でしたが、入院10日目あたりから37度を切るようになりました。

酸素吸入なしでなんとか96を超えることを確認し、8月10日酸素を外ました。

胸水を抜いたとき一部を細菌の検査に出していましたが、「問題なし」との回答が返って来ました。とても心配していたのでほっとしました。

2才になったばかりのお気に入りの孫が見舞いにきてくれました。元気が出ました。

孫が見舞いに来てくれました
孫が見舞いに来てくれました

11日血液検査をして、CRPがまだ少し高いのですが、退院になりました。

ほぼ2週間の入院でした。この間エアコンの効いた病室にいましたので、
外界の暑さがまだひどいのか心配です。

なにはともあれ退院はうれしいものです。