私的なこと

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孫のこと、家族のこと、私のこと

登園停止

孫のコーちゃんは去年8月弟が生まれたのでお兄ちゃんになり,
この4月には3歳8ヶ月になりました。

彼らが昨年3月に遠くに引っ越してから、私は昨年3回会いに行きました。

最初は6月にランニングバイクを届けにいき、
そのことはこのブログで書きました。

8月にコーちゃんに弟が生まれましたので、
お見舞いとコーちゃんの相手をするために、
妻と2泊3日で2度目の訪問をしました。

コーちゃんは4月には幼稚園に入る予定でしたが、
引っ越したり母親の出産があったりしたので入園が遅れ、確か10月ころ入園したと聞きました。

その後コーちゃんが幼稚園でみんなと仲良く過ごしているか気にかけていましたら、
幼稚園から「しばらくの間登園禁止」になったと知らせがありました。

「乱暴で他の子供から嫌われている」
「勝手な行動をして、他の子供の指導の邪魔になる」とのこと。

幼稚園の指摘は私たちには思い当たります。
コーちゃんはゴレンジャーに夢中で、
私たちは内心大反対だったのですが、
息子夫婦はコーちゃんがゴレンジャーのマネをしてミエを切るのを囃し立てていたのです。

私たちが孫のことについてあれこれいうと、
息子夫婦は反発することが多いのですが、
今度ばかりはこたえたようです。

「コーちゃんが悪いわけではないのに、親のしつけが悪いからだ」
コーちゃんがとてもかわいそうで3度目の訪問となりました。

コーちゃんは元気な子ですが、
性格的に乱暴ではないのです。
ゴレンジャーのマネをするのはいいのですが、
手加減がわからないので、手加減なしに相手をぶったり、蹴飛ばしたりします。
彼は自分では「正義の味方」なのです。

幼稚園の先生にもお会いし、
色々お話をしました。

私たちが考えていた通りで、
いけないことを「いけない」といって聞かせなければいけません。

その後息子夫婦もコーちゃんをゴレンジャーから遠ざけて、
「乱暴はいけないよ」と教えたみたいです。

今年3月母親と電話で話した時、
幼稚園の保護者会で、
「コーちゃんは泣いている子がいると『どうしたの』と慰める優しい子です」
と先生からいわれましたと喜んでいました。

コーちゃんは勉強については、まだどうなのかわかりませんが、
なにごとも積極的で運動神経抜群なのは間違いないことです。

喧嘩をしても多分強いのでしょうし正義感の強い優しい子だから、
私は「コーちゃんはすばらしい少年になる」と信じています
(爺馬鹿の予想があたるでしょうか)。

それから

確か夏目漱石に「それから」という小説がありました。内容は忘れました。

このブログの終了を宣言して半年以上経ちますが、いまだに毎日たくさんの方がこのブログを覗いてくださっています。

だからといって私に何の責任もないのですが、なんだかまた続けなければいけない気持ちになって、書くことがあれば続けてみようかと思います(気ままに)。

さて私の毎日は大して変化がありません。もうほとんど出来上がっているソフトを何度も何度もテストし、「もう少しよくならないか」と書き直しています。「多分これは私の最後の仕事になるのだろうな」と予感しながら。

 

話は違いますが、以前書きましたが、私は肺に陰を持っていて、それと関係があるのかないのか、昨年2月に血液検査でPro-GRPなるマーカーの値が正常値の3倍近くありました。

これは肺の小細胞癌のマーカーだそうです。ただし小細胞癌は数週間で大きくなるらしいのですが、私は数か月それらしい変化がありません。

CTを3度撮り、血液と痰の検査を何度も繰り返すのですが、マーカーが高いことの他は癌の兆候がありません。

この間ずっと近くの総合病院(今K病院といいます)にかかっていたのですが、専門医も「よくわからない」と、「がんセンターに行ってくれ」とのこと。

昨年の暮れ近くにあるがんセンターに行きました。我が家から車で10分程度のところで、羽田からの高速バスが止まるので、九州から帰ってくる妻を何度か迎えに行ったところです。これまでは中に用があった訳ではないので、外観はよく知っていたのですが、中に入ったことはありませんでした。

国立(今は独立行政法人だと思います)で、広い病院の中には、そこら中沢山の患者が不安げな顔で(私にはそのように見えました)、順番を待っています。世の中にはこんなに沢山の癌患者がいるのだと実感しました。

今はどの病院も同じですがとても丁寧な対応です。(当然といえば当然ですが、癌に関する設備はやはり充実しています)

K病院からの紹介状とCT画像のCDをもって、初診を受け、結局PETを受けることになりました。

ブドウ糖は腫瘍に集まる性質があるそうで、ブドウ糖の注射の後、全身と特に肺の放射線写真を撮りました。

ここでも癌の兆候を確認できなかったため、胃カメラの撮影に臨みました。

さすががんセンターというべきか、丁寧に何度も何度も内視鏡を胃に深く挿入したり、のど元まで抜き出したり、胃カメラはこれまで何回か経験していますが、今回ばかりは少し大変でした。

しかしここでも兆候がありません。

それではといよいよ肺(気管支)にカメラを入れることになりました。これは私は初めての経験で、「内視鏡を肺に入れると、いったい息ができるものか」ととても緊張しました。

気体状の麻酔薬をたっぷり吸いこみ、肺の内視鏡検査を受けました。

胃カメラと違って仰向けに寝て、胃カメラよりも細いケーブルを肺の中に挿入します。呼吸はまったく阻害されないのですが、何せ緊張のせいで息苦しい状態でした。

大きく息を吸うと呼吸も楽になりましたが、組織を摘出したら多量の出血があったらしく、その処置に時間がかかり、そのため痰がからんできて、後半は少し苦しくなりました。

ケーブルを取り出し終了しましたが、やはり痰とともに血液がでてきました。

これも止血剤と抗生物質の服用で3日程度で止まり、「想像したよりもきつくはなかったかな」という感想です。

結局「肺がんではないようですね」という結論をもらいました。少し辛い目にあいましたが、「まあ不安を抱えているより、良しとするか」と考えています。

ただし、PRO-GRPはなぜ高いのかわかっていません。医者は「こういうこともある」というのですが…

「それにしてもたくさんの放射線を浴びてしまった」「もうしばらくX線はごめんこうむりたいものだ」と思っています。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり

信長が好んだという能「敦盛」の一節。
「人生は、天の摂理に比べればたった一日の出来事。夢幻の如くだ」と。

人は愛し、悩み、挫折し、
成功し、失敗し、
泣き、笑い、沢山のことをしてきたようだけど、どうってことはない。
夢のようだと。

されど人生。

私は男ばかり6人兄弟の4番目です。
建築関係の職人一家でしたので、若い頃は家に勢いがありましたが、
兄弟はこの10数年で次々に他界し残ったのは私一人になりました。
さみしい限りです。

私は兄弟の中でひ弱な方だったので、私が最後まで生き延びるとは思いませんでした。

私が小さい頃はまだ自動車が珍しく、車の排気ガスがいい匂いだと、
車が通ればわざわざ車を追いかけて排気ガスを吸っていたことが原因だと思いますが、
小さいときから肺に影があり、
その結果肺に負担がかかる運動がとても苦手でした。
マラソンは走れないし、水泳も息がつづきません。

ごく最近精密検査ではじめて肺の機能が正常の80%程度しかないことが分かったのですが、
小さい頃はそんなことを知る由もなく、
運動でみんなについていけないことがコンプレックスになっていました。

それと、私は生まれながらに左目が悪く、そのために顔を左に向ける癖がありました。
野球で右バッターボックスに立つと極端に顔をサード側に向けるので、
小さいとき子供らしい野次を受け、とても傷ついていました。

これらのことは当然少年期・青年期の私には心の深い部分で負担になり、
落ち込み考えこむことがよくありました。

球を打つ野球や卓球は目のことが原因で敬遠するようになり、
サッカーのような走り回る競技はついていけないので、
結局運動は嫌いではないのですが苦手でした。

ゴルフもするつもりはなかったのですが、
他人に勧められ始めましたが、右打ちでは球がよく見えません。
左で打つことにしました。

セオリーからいえば「レフティーは右手主導でいけばいいので都合がいいはず」ですが、
そうは問屋がおろしません。
不慣れな左手がスウィングの邪魔をします。

私はハンディキャップをもって生きてきましたが、
もう兄弟のだれよりも長生きをしました。
ゴルフも長いトンネルの先に、
やっと光明が見えてきたような気がします。

また考えてみればハンディキャップをもった「お蔭」で、
自分を見つめ周りを見つめ、「正義とは何か」と考えることになりました。

多くの人は多かれ少なかれハンディキャップを持っています。
解消できるものはさっさと解消しなければいけません。

しかしどうにも解消できないものもあります。
どうしても解消できないのであれば受け入れるしかありません。

何の問題もないのに、
努力しないで不満を他人や社会のせいしたり、
嘆いたり、ぼやいたりグズグズする人は、私は心底嫌いです。
ハンディをもって前に進んでいる人がたくさんいるのに…

そして歳をとってみると、

「そんなことはどうってことはないのだ」と。
「それによって得ることもあったのだ」と。

「気高く誇り高く生きてきた」と。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。

 

1年も続かないのだろうと始めたブログです。
「プログラミンを中心に」と思っていたのですが、
ついでに日頃思っていることのいくつかを書かせてもらいました。

このブログも終わりにしたいと思います。

毎日沢山の方々に立ち寄っていただきありがとうございました。
皆様のご健勝をお祈りいたします。

2011年6月吉日 toytoy

ランニングバイク

4月でしたかNHKの朝のニュースの時間に、幼児がランニングバイクに乗ってレースをしているのを紹介しました。「ランニングバイク」は商品名かもしれませんが、幼児用のペダルがなくて足で地面を蹴って進む自転車です。ペダルを漕ぐことに気を取られない分、バランスをとって運転することができ、自転車の練習の前の乗り物としてもいいということです。

私は「これは孫のコーちゃんにいい」とすぐ思い、コーちゃんがヘルメットをかぶって、元気にレースをしているのを想像しました。もうじき3歳になるコーちゃんは運動神経抜群ですぐに乗りこなしてくれるだろう。と予想しました。

3月にコーちゃんが静岡に引っ越して以来、一度もコーちゃんにあっていません。
息子の都合もあったので、6月9日やっと静岡に訪問することができました。
3ヶ月振りの孫は私のことを覚えているのだろうかと少し不安でしたが、彼の家のピンポンを押すと小さい足音が「とんとんとん」と走ってきて、ドアの向こうにコーちゃんが迎えてくれました。

早速あらかじめ送っておいた自転車を組み立てて、彼にとっては大きすぎるプロテクターを何とか、膝と肘に取り付けて、かっこいいヘルメットをかぶって、ランニングバイクに初めて挑戦しました。

しかし私の期待に反し、彼は上手に乗れません。
足をけっていると、ハンドル操作がおろそかになります。
岩にぶつかりそうになって、早々に戦意喪失です。

プロテクタで完全装備のコーちゃん
プロテクタで完全装備のコーちゃん

私は彼の身になって考えていませんでした。
「軽い」と思った自転車も彼にしてみれば重く容易には扱えません。
もう少し自転車に「なれる」ことから始めなければいけませんでした。

練習は早々に切り上げて、近所の湖のそばの遊歩道に三輪車に載せて散歩に行きました(三輪車もまだ漕げません)。以前の住居と違って、こちらはいはゆる住宅地なので、小さな子供の遊び場がありません。
それに友達もまだいないのでしょう。
気持ちが鬱積していたと思います。

道端の砂をいじり始めました。
靴も二の腕も砂埃で真っ白に汚れてきました。

私は何度も「もうやめなさい」と注意しましたが、意地になって砂をまき散らします。

私のコントロールが効かなくなったので、私は三輪車を押して帰り始めました。

彼はあわてて私の方にやってきました。
ちょうど手洗いがあったので、言っても聞かないコーちゃんを抱えて手を洗おうとしました。

彼はギャーギャー泣きわめきます。私は構わず手を洗い、
「やかましい」と大声で叱責し、彼のかぶっている帽子をむしり取り、その場に叩き付けさらにその帽子を踏みつけました。彼は私の権幕にたじろぎ、泣くのをやめました。

私はかれの涙を拭いてやり優しく話しかけながら、三輪車に乗せて彼の家に帰りました。

その日私はホテルに宿をとりましたので、帰ろうとすると、コーちゃんはドアの前に立ちふさがり、帰らないでと私を制します。

彼は私に対して初めて聞かない態度をとりました。私は初めて彼に対して怒りました。彼はそれをどう受け止めたのだろうかと内心心配でした。

しかし、彼は私の愛情をしっかり受け止めてくれたと思います。いろいろな意味で「よかった」と思いました。なによりも彼が人の真意を直裁に感じるとても素直な性格の子だと確認しました(これも爺馬鹿かもしれません)。

ランニングバイクを二日にわたって練習するつもりでしたが、あきらめて二日目はコーちゃんと二人で遊園地にいって遊びました。

変わらず元気で活発な孫です。また会おうね。

5ヶ月経って、ずいぶん上手になりました。
5ヶ月経って、ずいぶん上手になりました。

考えてみれば、私は正式な「授業」を受けたのは大学の建築の授業が最後です。

大学院はどこも同じだと思いますが、授業らしい授業はなく研究室で自分で勉強するのが普通ですので、教室で何かを教わったということは殆どありません。

正式な授業のよさは、嫌いなものも無理やり勉強されられ、後で役立つということがありますが、
独学ではついつい自分の興味あることだけを勉強しますので、
「大切なものが」抜け落ちることがあります。

それはともかく、独学では本を読むことが第一の勉強法になります。
本の話はあとにして…

上京して大学院生になって、大学院の授業は殆どありませんでしたが、
学生の特権で、自分の興味がある学科をどこでも出かけて聴講しました。
確か、心理学と哲学の授業を聴講しました(勿論、都市工の丹下教授の授業も)。
本でしか知らなかった心理学の宮城音弥さんの講義を受けましたし、
哲学では実存主義の授業を受けました。

また、東京には(当時)どこかで無料(あるいは低額)の公開講座が開催されていて、
言語哲学の大森荘蔵さんや脳生理学の時実利彦さんの講座を受けたことを覚えています。

そういえば、コンピュータの勉強を始めたとき、職場に汎用コンピュータがありましたので、
メーカーの講座が無料で受講でき、アセンブラ、Fortran、Cobol等たくさんの講座を受けました。
(近年はマイクロソフトの無料の講座もたくさん受けました)

さて本のことです。
私は小さいときから「よく出来る子」ではなかったので、本を読むことが苦手でした。
職人の家でしたので、親は「勉強なんか必要はない」というくらいでした。

大学に入ってクラスメートと並んで本を読んでいると、隣の友人はページをめくるのが断然早いのです。どうしてそんなに早く読めるのだろうと、その友人の本の読み方を盗もうとしましたが、わかりませんでした。

それまで文学書など読んだことがなかったので、
「読まなきゃ」と大学の前の書店で文庫本を買ってきて文学の世界に踏み入りました。
これぞ文学書と思って購入したのは「罪と罰」です。
ドストエフスキーの憂鬱なほどに長ったらしい話を最初に取り上げたのは最悪でした。
のたうちまわりながら、読み終えるのに数ヶ月かかりました。

当時嫌いなことをしかも効率よく勉強するには、
どのような方法がいいのだろうと「方法」に関心がありました。

大学時代ずっと自分なりに勉強の「方法」を研究して、
大学院を受験するときは大分自信をもっていました。

大学院生になってから勉強の「方法」で一番影響を受けたのは、
加藤周一さんの河童ブックかなにかの新書本で、
たとえば、「外国語を勉強するのならエロ本を読め」とか、
戯曲は「劇場では2時間程度の上演なのだから、2時間で読むものだ」という話に納得しました。

本は随分沢山購入しました。
しかも私は自分の人生を何度か大きく舵を切り替えましたので分野も多岐に亘ります。

建築学科の学生のときは当然建築関連の本、
大学院では学生運動の季節でしたので思想書、
研究所に就職してからは人工知能や数学基礎論、のちにはCAD関連。
ビジネスの世界に入ってからは、経営やWindows関連のコンピュータ書。

おそらく累計では優に1万冊を超えていたと思いますが、
引越しの多いアパート暮らしでしたので、引越しの度に本を処分せざるを得ず、
大半は処分し、今は殆どコンピュータ関連の本しか手元にありません。

本棚の隅っこにいまも遠慮がちに並んでいるのは、
建築ではライトの原書[The Future of  Architecture]、マルセル・ブロイヤーの[対立と調和]等数冊、
文学書は吉川英治の[三国志](文学書といわないか)他ほんの数冊の文学全集、
思想書は[世界の名著]等これも数冊。
コンピュータ関連もMS-DOS当時の本は殆ど処分しました。

漱石や鴎外や
ヘッセやトルストイやカフカや
サルトルやカミユや
エンゲルスやマルクーゼや
ラッセルやウィトゲンシュタインや
カルナップやクワインや
IBMやフォード創業者の伝記本や
(吉田拓郎流にいえば)「みんなみんないっちまった」

沢山の本を購入しましたが、実際に読んだのはその何分の一かです。
本は何冊もっていたかではなく、
どれだけ読み自分の実になったかが重要なのは分かりきったことですが、
「沢山購入すれば結局のところ沢山読むことになる」と思っています。

1万冊の本全部を読んでいませんが、(小説は別にして)仮に5分の1の2000冊読んだとしても、
それは「本を読もう」として買い込んだ効果だと思います。

今はチョットしたことを調べるにはインターネットをよく使います。
ソフト開発のときもオンラインヘルプを使いますが、
初めての事柄をまとめて独学するには本が最善だと思います。

本の良さは何度もページをめくって確認できる点です。
本のシミや鉛筆で引いた下線が記憶の役に立ちます。

「あの話題は前から何ページあたりにあったかな」という視覚的触覚的記憶は、
初めての勉強で知識を紡いでいく作業には最適で他に替えるものがないと思います。

また、たとえばC#を習得するために、
3万円の本を買い、結局2冊の本だけ読んで他は埃をかぶっているとしても、
それでC#が書けるようになったのなら、
私はまったく気にしません。

そして仮に職業プログラマであれば、
それくらいの投資で自分の間口を広げられるのなら、これほど安い投資はないと思います。