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ハトの巣作り

今、世界中が大変なことになっています。中国発のコロナウィルスが世界中で猛威を振るい、沢山の肺炎死者を出しています。
私は、慢性呼吸器疾患を抱えていますので、できるだけ家から出ないように、庭仕事をしています。

庭に鳥の巣箱を一つ掛けたのですが、どうやら巣箱は寒い時期に設置するものらしく、一向に鳥が近寄ってくれません。
その代わり、離れの縁側の朝晩雨戸の開け閉めするほんの2、3メートル先に、ハトが巣をつくりました。
メスがもう10日以上雨の日も暑い日も動かず卵を抱えています(多分)。
オスは夕方帰ってくるようで、夕方からオスが交代するのでしょうか。

離れの縁側のすぐそばにハトが巣をつくり、 卵をかかえています(2020/4/30)

 

白い藤の花が咲き始めました。 藤は、花や枝葉が伸び始めるとすさまじい勢いで成長します。(2020/5/8)

 

20205/5/8
コキアが芽を出しました。慎重に茎が倒れないように水をかけています。(2020/5/2)

私説・九州の歴史

九州の中世の歴史について、武士団の発生から西暦1400年ころま勉強し、御紹介しました。

「九州の歴史」
「九州の歴史」2

もう1年も前になり、中途半端で終わっていますので、総括して打ち止めにしたいと思います。

 

邪馬台国が九州にあったのか畿内にあったのか、長い論争があります。
しかし、どちらにしても邪馬台国が存在した西暦2~3世紀、九州は大陸との交易があったでしょうから、当地にはそれなりの勢力が存在したのは間違いないようです。神功皇后の言い伝え(事実かどうかはさておき)は、この時代のものです。

663年大和政権は、交流のあった半島百済の要請を受け、新羅連合軍と白村江で戦いますが大敗。半島経営から撤退すると同時に、半島からの反撃に備えて、九州沿岸に防備体制を敷きます。
その一環として太宰府が建設され、半島からの侵攻の恐れがなくなった後は、九州の政治の要として重要な地位になります。

とはいえ、大和朝廷からすれば九州はいまだ未開の地で、一度叩いておかなければならない存在で、大和朝廷は大友旅人を総大将に任命して、九州隼人の征伐に着手します。720年旅人は国東半島に上陸、宇佐に拠点をおき、九州平定に乗り出します(宇佐には武を祭る宇佐八幡宮が建立されます)。
その後暫くの九州の歴史を私は知りませんが、太宰府を中心に大和政権の統制・仕組み=律令制がこの地にも浸透され、宇佐八幡宮等の寺社も荘園を作っていったと推測します。

平安時代、西暦900年前半、承平・天慶の乱(東では平将門、西では藤原純友の乱)が勃発すると、これを鎮圧したのが国・郡の官人や荘園の名主職・荘官職が組織した武士団、加えて太宰府の退官者が形成した武士団でした。

国人領主から成長した武士団には、秋月・原田・高橋、菊池等があり、荘園から発したのは、松浦党、宗像大宮司、阿蘇大宮司等があります。

頼朝鎌倉幕府を設立すると、鎌倉幕府は博多に鎮西探題を設置、平家寄りの領地は没収し、鎌倉幕府の息のかかった東国武士に地頭職を与えて、九州の荘園に下らせます。
武藤、大友、島津がこれにあたります。

武藤資頼(すけより)は、頼朝から抜擢され(1194年頃)鎮西奉行として下向。太宰府庁の権限も手中に収め、以後少弐と名乗ります。ここに実質的に太宰府の政治的地位は消滅します。

室町幕府初期には、少弐は幕府寄り、菊池は天皇よりでしたが、室町幕府が九州探題を設置、尊氏の腹心を長官に据えたことで、少弐も幕府に反発。
西暦1349年、南朝は後醍醐天皇の皇子懐良(かねよし)親王が菊池を頼って肥後に入ると、少弐もこれに迎合。南朝は一時九州で全盛時を迎えます。
足利義満はこれを鎮圧すべく切り札として今川了俊を九州探題として送ります(1370年)。了俊はよく働き菊池を排除、九州を平定ますが、少弐冬資をだまし討ちにする失態を犯し(1375年)、九州の有力武将・少弐大友島津から猛烈な反発をうけ、自身退任を余儀なくされます(1395年)。なお、義満の時代、南北朝は統一されます。

その後、九州探題には渋川満頼が任命されますが、凡庸な満頼は山口の大内に助力を要請。大内は願ってもないことと九州北部に侵入。少弐とこれを加勢する豊前(大分)大友は大内との抗争に転じます。

1400年後半の応仁の乱で大内の中心勢力が西軍として力を分散すると、そのすきをついて少弐は一時九州探題を占拠しますが、乱の収束で大内が態勢を立て直したことで、少弐は劣勢になります。

この間一貫して、大内は足利幕府の支持を得ながら、少弐・菊池・大友と対抗する構図で、多くの戦闘を優位に進めますが、やがて室町政権も求心力を失うと、大内は九州探題も手中にし、少弐もまた肥後東部の一小勢力に転落(1500年)、その後少弐の被官であった竜造寺氏が少弐に代わって戦国大名として台頭します。

ところが九州に足掛かりを築いた大内義隆は、1551年家臣陶隆房に殺されます。大内家では一時大友晴英(義長)を養子として迎え大内家の存続を図りますが、義長は毛利に厳島で大敗し、大内氏も16世紀中葉滅亡します。

 

大友家は頼朝から鎮西奉行の任を受けて、豊後に下向し、元寇との戦いで武功を上げ豊後に定着します。
大友義鎮 / 大友宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、嫡男であるにも関わらず、実父に嫌われ家督騒動の原因になりますが、父や弟を殺害して、1550年大友家の当主になります。信長が織田家の当主になったころです。
1551年には上記のように長年の宿敵大内家に内紛が起き、宗麟の弟晴英を大内家の養子にだすことで、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に北九州における大内氏に服属する国人が同時に大友家にも服属、周防・長門方面にも影響力を確保。1570年頃には、南の津島(播磨、鹿児島、大隅)とその北部のほんの一部を除いて、九州全土を大友の支配下に置きます。

しかし、宗麟が1578年耳川の戦い島津に敗れると、大友は急速に力を失います。宗麟が部下の反対を押し切ってキリスト教に寛容な政策を取ったことも一因であったようです。
大友が弱さを見せると、少弐の被官であった佐賀の竜造寺孝信が頭角を現し、1580年頃には筑前、筑後、佐賀(現在の佐賀・長崎・熊本)を支配下に置きますが、竜造寺もまた真鍋家が実権を持つことになります。

 

島津家は大友と同じく、頼朝から薩摩・大隅の守護に任命され着任しますが、その後長い間内紛が続きます。1552年貴久が島津家当主に認められますと、漸く一味同心を誓う起請文をとって、領内の統一に成功します。
貴久の4人の息子(義久、義弘、歳久、家久)はそろって優秀で、義久が貴久から家督を譲られると(1566年)、兄弟結束して領土の拡大と安定にあたり、1584年には、竜造寺家も従え島津の支配は全九州から豊前・豊後の大友を残すだけになります。

窮地にたった大友は、秀吉に援軍を頼みますが、島津は秀吉をも恐れず、大友軍を府内(大分)に押し込めます。
いよいよ秀吉が大軍を率いて豊前に入ってきたとき、ようやく島津は降伏し、九州の戦国時代が終了します。

 

秀吉が統一するまでの九州の歴史をざっと見てきました。
特に、室町時代以降は、戦いの連続です。太宰府の退官・官人、寺社荘園護衛の武士団、頼朝から任じられた守護・地頭から発した武士団が、室町幕府の弱体と表裏をなすように下剋上・戦国の時代を戦っています。

大内が少弐を潰しにかかったとき、大友が領土を拡張したとき、竜造寺が台頭したとき、島津が北上し全九州を支配下に置いたとき、当然激しい戦闘があったのです。弱小武力集団は、自分たちの生存をかけて、右に左に大樹に身を寄せ、苦悩の中に生き・死んでいきます。

秀吉が、続いて家康が天下統一し、それぞれの国を安堵し、やっと前世とは異なる平穏な日々が九州に訪れたのだと思います。

 

 

 

庭の花

4月22日、色々な花が咲いています。クリックしてください。大きな画像を表示します。

今年、色々苗を育てています。

春らしくなってきました

4月7日、今日は天気が良く、庭の花も春らしくなってきました。クリックすると拡大画面を表示します。

 

義母の看病ー花のタネ撒き

昨年暮れ、義母が体調を崩し市立病院に入院しました。
「正月には帰ってくるだろうか」と妻と話していましたが、予想外に悪化。
3か月過ぎた現在も入院したままです。

義母は10年以上前に心臓を悪くして緊急入院したのですが、このとき腎臓も悪くして、高齢(95歳)ですから、一度体調を悪くすると回復力もないので、なかなか元に戻りません。

総合病院では3か月入院すると追い出されるようで、
転院のために介護認定を受けて(最上位の要介護認定のようです)、転院の準備もできているのですが、ここにきて、何かの感染症で微熱があるようで、転院もできない状態です。

3か月間毎日、昼食に合わせて、妻と私が病院に出かけて、細々を世話をしていたのですが(私はただの運転手です)、どうやらこの病院にコロナ感染者が入院しているらしく、先週から家族の面会もできないくなりました。

私たち自身も高齢だし、私は慢性呼吸器疾患を抱えていますので、
「病院には行きたくないな。コロナウィルスに感染したら、一巻の終わりだな」と思っています。

 

読みかけの本が数冊あります。

国際法や興味があったが読む機会がなかった本です。
早く読み終えたいのですが、纏まった時間が取りにくく、中途半端なままです。

 

少し前、梅とリンゴが花を付けていた時期には、メジロが来て花をついばんでいたのですが、今は代わりに毎日鶯が鳴いています。
家は川のそばに建っているのですが、鶯は基本向こう岸にいて、なかなかこちらに来てくれません。鶯はメジロに比べると警戒心が強く、一度も姿を見たことがなかったのですが、一昨日初めて我が家のつつじの木の枝を飛び回って遊んでいたのを見ることができました。

庭には恐らく10種以上の鳥が現れていると思います。
鳥のえさをトレーにまいて、庭に置いているのですが、気づいてくれません。
巣箱を注文したので、適当なところに取り付けようと思っています。何かの鳥が住み着いてくれないかなと期待しています。

 

暖かくなってきたので、花のタネをポットに撒いて、苗を育てています。
ペチュニア、ベゴニア、マリーゴールド、カスミソウ、スイートピー、ナデシコ、カーネーション等です。多分500株以上になると思います。

根っこが地中深く枝別れせず伸びていくいわゆる直根性の植物(コキア、スィートピー、ゴデチャ等)は植え替えを嫌います。
ピートモスでできた種まき用のポット(ジフィーポット)が市販されていて、この中に種を撒いて苗が育ったら、そのまま地中に植えてしまえが、根を痛めることなく、地植えができるようですので、今年はコキア等にこのジフィーポットを使ってみたいと思います。

今大半のタネはやっと葉っぱが出てきた程度ですが、少し前に撒いたカンパニュラは苗として成長してきたので、庭に移植しました。葉が元気になっています。

 

今庭で咲いている花は、レンゲ、チューリップ、芝桜、アネモネ、ヒヤシンスが中心です。八重桜の蕾が少し膨らんできました。

 

スイートピーのために昨日庭を耕しました。
スイートピーは直根性で移植を嫌うようです。葉っぱが2、3枚出てきましたので、できるだけ早く地植えしようと思います。

他の花も苗がもう少し大きくなって、茎がしっかりして根が張ってきたら早めに地植えしようと思います。

 

4月になったら、昨年失敗したコキアに再挑戦したいと思います。
直接地植えとジフィーポットと大きめのプラスチックポットに種を撒いて移植する方法を試してみようと思っています。

 

よさそうな朝顔の種を購入しましたので、今年は多めにプランターに直播したいと思います。
そのほかに朝顔のタネを1500粒買ったので、フェンスに可能な限り広範囲に植えようと思います(まだ届いていません。こんなにたくさん使いきれないでしょう)。

昨年レンゲと同時期菜の花も撒いたのですが、見たこともない矮性で、そのうち大きくなるのだと信じていたら、種を付けて終わるようです。
レンゲが終わったら、コスモスやひまわりを沢山植えようと思っています。

庭の土を余すところなく花で埋め尽くそうと構想しています。