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永原慶二「下剋上の時代」 2

足利義政
足利義政

前回も書きましたように、この時期農業の生産性が向上し、バラバラに生活していた農民は集結し郷村=地縁的結びつきを重視するようになりました。
また貨幣経済が発展し、京や各拠点の商業が繁栄し、更に朝鮮や明との貿易が盛んになって港町が繁栄し、商人や寺社、幕府も利益を上げます。
文化面でも東山文化と総称される日本らしい、絵画や芸能が発達しました。

こう見てくると、この時代はいかにも平和で平穏な日々であったかに見えますが、実際には真反対の混乱の時代でした。

 

日本は、古来天災や疫病に悩まされ続けていますが、この時代も例外ではありません。
大きな飢饉が1420年、21年、1428年と続き、それから30年後の1459年には深刻な天候不順が続き、大飢饉が発生します。
1460年の記録では京の餓死者が約9万人、京の河原は死体で埋まったといいます。
全国ではどれほど沢山の餓死者をだしたのでしょうか。
最下層の民衆は生活できなくなり、本人あるいは身内を身売りしたり、農地を離れて、浮浪・乞食になり卑賎の民に落ちたりします。

民衆は各地で一揆をおこし、金融業を営む土倉や酒蔵、寺院を襲います。
交易の拠点に在住し慢性的に困窮していた馬借は、真っ先に一揆の先頭に立ち、これに農民が加わり土一揆は頻発します。
1400年代の主な土一揆として、正長の土一揆(1428年)、播磨の土一揆(1429)、嘉吉の徳政一揆(1441年)、享徳の土一揆(1454)、長禄の土一揆(1457)、山城の国一揆(1485~93)、加賀の一向一揆(1488)等があります。

京に詰める守護大名や荘園領主から荘園の管理を任されていた中小武士は、土地に根付き国人や地侍といわれましたが、当然農民からの突き上げを直接受ける苦しい立場にありました。
しかしこの下からの突き上げは彼らにとってチャンスでもありました。
下からの憤懣を自分たちでなく、荘園領主に向けていき、荘園領主からの権利の切り離しに向けます。彼らは時には一揆を取り締まるのではなく一揆を扇動し、最終的には自分たち自身が荘園を支配する当事者になろうとします。
これら国人は自身で力を持たなければいけません。近隣の豪族が語らって国人一揆を結び横の連結を強め、いざという時には連携して行動します。
国人一揆もまた政情不安を助長します。

 

中央の幕府はどのような状態であったか。室町幕府の政権基盤は虚弱でした。本書では次のように説明しています。

関東八か国に甲斐・伊豆をくわえた十か国が関東公方の管轄地域と定められ、
中央政府の直接の支配対象外とおされており、さらに義満時代には奥羽二国も関東府の管轄にいくわえられていた。
他方、九州は九州探題の管轄に属し、これも室町幕府の直接管理の外におかれた。
だから逆にいえば、幕府政治のしいくみでは、九州と甲斐・伊豆以東の国々とを除いた中央地帯だけが幕府の直接管理の国々なのである。(本書より)

そして、「このことが幕政をにぎる有力大名の目を中央地帯にばかりそそがせることとなった」といいます。

中央から遠く離れた九州や東北の守護大名は、もともと鎌倉時代に任命された外様であり、
中央の政権や社会情勢に左右されることが少なかったので独自の発展・闘争を繰り広げていましたが、
中央の幕府の重臣は、京への関心を強く持たざるを得ず、また大抵は自身京に住んでいましたので、
領国での統治は守護代や在地の豪族に依存せざるをえず、
彼らは幕府の混乱と領国の混乱をまともに受ける構造になっていました。

当初室町幕府は守護の強大化を警戒して守護の力をそぐ方針でいましたが、守護領域での地侍の強大化に対抗して守護の権力強化を許す方針が取られ、守護は守護大名として権力強化に努めます。

 

強い権力を持たない足利将軍は、時に言わば虚勢をはって強権的な行動をとります。
6代将軍義教は、関東公方の混乱にこれを鎮圧し滅亡させますし、
力を蓄え始めてきた守護大名を挑発しては討伐します。

義教の行動に危機感を持った赤松満祐は遂に1441年将軍義教を暗殺し(嘉吉の乱-かきつのらん)、
これ以降室町幕府の混乱は決定的に悪化していきます。

銀閣寺
義政に東山山荘・銀閣寺

幼くして将軍職を継いだ8第将軍義政は、政治に興味を持たず、長じても民の苦しみには知らんぷり。金を使い趣味三昧です。
大飢饉の最中、邸宅・花の御所の造営に熱を上げ、能楽・猿楽にうつつを抜かし、巨費を投じて東山山荘を建設します。
仏門に入っていた弟・義視(よしみ)を還俗(世俗に戻すこと)させて、早々に将軍の座を譲ろうとしますが、
幸か不幸かその直後、日野富子との間に義尚(よしひさ)が生まれ、日野富子は義尚を次期将軍にしようとします。
当然跡継ぎ問題は大問題になります。
義視には管領細川勝元がつき、義尚には嘉吉の乱で功績のあった山名宗全がついて、一触即発の事態になります。これに畠山、斯波両家の内紛が絡み、更に各地の武将が入り乱れて大騒乱に突入します(1466年)。応仁の乱です。

山名宗全が西軍、山名宗全が東軍を率い(但し、多くの各武将は節操もなく時に西軍、時に東軍につきます)、大勢は東軍有利でしたが、山口の大内が西軍についたことで、西軍が力を盛り返します。

京都で起こったこの騒乱はやがて地方にも、更には興福寺等大寺社にも飛び火します。
約10年に及んだ乱は決着がつかないまま、守護大名は京より自分の領国の混乱が心配になり、それぞれの国元に帰還し、京の戦乱は京の荒廃を残して一応の終結をみます。

山名宗全も細川勝元も相次いて逝去し、京の大乱は一応鎮火しますが、
混乱の火種は地方でくすぶり続け、やがて嘗てない大規模な騒乱の時代=戦国時代に突入します。

 

この時代は混乱した不毛の時代だったのか。
いやそうではない。
日本中を巻き込んだ下剋上は、従来の京を中心にした特権階級の文化や価値観を粉砕し、
それを民衆に、地方に拡散した。そして次の時代はそれらを吸収し新たな時代を形成した。
この時代はいわば革命の時代であったと見るべきだ、と著者は主張します。
私も「そうだろうな」と同感です。

永原慶二「下剋上の時代」

下剋上のマグマ

室町時代、南北朝の動乱の終結(1392年)から戦国時代が始まるまでの約100年間に何があったのか、歴史知らずにしてみれば、せいぜい足利義政の東山文化と応仁の乱くらいしか知らなくて、印象の薄い時代です。

しかし、永原慶二著「下剋上の時代」(1965年、中央公論「日本の歴史」)は「そうではない」と真向から反対します。
すなわち、「あの民衆の激情的であり、破壊的でさえある行動と、幽玄の極致といわれる東山文化とはきわめて緊密な関連をもっていると思うのである」と。
著者は、「この時代こそ、日本の大変革をもたらすマグマが煮えたぎった時代なのだ」と、その主張をわかりやすく丁寧に説いてくれます。
但し、馬耳東風、馬の耳に念仏で、私はどれほど理解したのでしょうか。

本書は昭和40年中央公論社の「日本の歴史」の一冊として出版され、私が読んだのは2005年改訂文庫本です(この文庫本にはいくつかの誤植があります)。

この本のクライマックスは応仁の乱ですが、この話は後回しにして、時代風景を眺めてみましょう。
著者が力を入れたかったことは、むしろこのことだと思いますから。

荘園

「中世期の日本は『農業国』だったのではない。沢山の職業があったのだ」と、網野義彦氏は強調しますが、
それにしても、農村がどのような状態であったのかを知ることは、日本の社会を認識するうえでは最も重要なことの一つだと思います。

そこで、農民が基盤としていた荘園はどのようなものだったのか。
この話からしたいのですが、専門的にはこれがなかなか難しい話で一言では言えないようですが、
取り敢えず次のように解釈しておきます。

中央の公家、寺社が所有した荘園には、通常在地の豪族を荘官として実務にあたらせていましたが、
鎌倉時代、幕府は義経追討とか平氏残党掃討とかの名目で、地頭を送り地方の警察監督をさせます。
時代を下るに従って、土着したこれらの荘官や地頭は、実質的に荘園を支配しはじめ荘園領主の力はどんどん削がれていきました。

荘園の詳細は理解していません。興味がありますので、更に、勉強してみたいと思います。
既に、以下の本を購入しました。永原慶二著「荘園」(2009年、吉川弘文館)、関幸彦「武士の誕生」(1999年、日本放送協会)、服部英雄「武士と荘園支配」(2004年、山川出版社)、石川進「中世武士団」(2011年、講談社)(既読)

 

農村の萌芽

一方、荘園で生活する民百姓はどのような状態であったか

当時の農地は、荒れ地に交じって農地が点在していたのが実情で、
しかも、特定の荘園領主が一帯の農耕地を面的に所有したというより、色々な荘園がモザイク状に農地を所有したようです。

それまでの農業は生産性が悪く、農民は荘園に出かけて協同で作業する状態でしたが、
この時代は農業の生産性が向上して、農民はそれぞれに自分の土地を耕作する形になってきました。

農業の生産性は、土地の有効利用、水の有効利用が欠かせませんので、農民は近隣の農民との協同が必要となります。
すなわち、荘園の垣根を越えてまた血縁関係よりも地縁関係が重要になってきます。
隣接する農民は数戸が集まって濠をめぐらし外敵に備えます(この構えを垣内(かいと)といい街道に通じるそうです)。
更に農民達は更に大きく村=惣を結成していき、
村によっては長い血みどろの争いの末に、守護不入自検断=すなわち守護に立ち入らせず自らが警察、裁判権と行使する権利を勝ち取る土地も現れます。

農村のリーダー

これらの村はいわゆる水飲み百姓だけではなく、武力をもっとリーダーがいました。
それは、在地のいわゆる国人と言われる人々で、本来中央の権力者の指示を受けて、農村を管理支配している人たちでした。
さらに、農民のなかにはこれらの在地武士に従事して、勝手に侍名字を使うものが現れます。

 

様々な産業の発達

この時代農村以外の発達も目覚ましいものがありました。
貨幣経済の発達と共に、商業が発達し、京都上京では、薬・唐物・白布・綿・酒・味噌・そうめん・襖・材木・炭等々、
下京でも綿・小袖・絹・袴腰・材木、今宮魚座・麹座等々があったそうです。
地方にもそれぞれに特産品の生産が活発になっています。

大商人特に土倉や酒屋は、幕府や戦国大名を支える大きな柱にさえなります。

当時、京都への海の交通路は、瀬戸内海から淀川を北上するルートと日本海小浜から陸路琵琶湖の北岸今津、木津に至り、琵琶湖を南下するルートが使われました。
朝鮮、明との貿易が盛んで、堺や博多や瀬戸内海の港は相当に繁栄したようです。

「中世ヨーロッパの騎士」 4

乱暴者の集団だった中世騎士は、
ローマ教会から「神聖な神の戦士」の称号を与えられ、聖なる十字架を紋章に十字軍に従事、名声を高めます。
12世紀になると、吟遊詩人が騎士の英雄譚と宮廷ロマンスを歌い上げ、
また頻繁に行われた騎乗槍試合はあらゆる階級の人々を熱狂させます。
やがて騎士は貴族の末端に列せられ、更には国を救う英雄まで出現しますが、
15世紀になると鉄砲の出現に居場所をなくしていき、やがて騎士道は「ドン・キホーテ」で揶揄されるようになります。

十字軍の遠征

十字軍の遠征は、1096年の第1回から1270年の第7回まで決行されています。
それを呼びかけたローマ教皇、運動に参加した国王、諸侯、商人、一般民衆はそれぞれ違った思惑をもっていましたが、
少なくとも当初は皆共通して宗教的情熱をもって十字軍を応援したのは間違いありません。

十字軍は聖地を奪還しイェルサレム王国を建設。
東方貿易の活発化に寄与し、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となりましたが、
結果的にはイスラーム側の反撃によって、騎士たちが描いたかの地での祝福された国の経営は果たせぬ夢に終わります。
すなわち、十字軍は期待ほどの成果は挙げられませんでした。

ただはっきり言えるのは、この過程で騎士の地位が社会的に認知されたことです。
荒くれ戦士の一団は、キリスト教によって「高貴な戦士」になり、貴族の末端の地位を占めるようになります。
十字軍の遠征には貴族の子弟も参加すると、騎士は階級として世襲されるようになり、ますます存在価値を高めていきます。

吟遊詩人

一種憧れの対象になった騎士をさらに鼓舞したのは、戦争とは対極の文芸的な流れです。
12世紀になるとトルバドゥールと言われる吟遊詩人が各地の宮殿を巡り歩いて、騎士の英雄譚や騎士のロマンスを表現豊かに歌い上げます。
演者も騎士自身だったり、高貴で教養豊な人々であったりしたので、文芸に限らす広く社会の文化全般に影響をあたえたようです。

ヨーロッパ各地にはもともと英雄伝説があり、英雄の功績をたたえる叙事詩がたくさんあったようですが、
イギリスも例外でなく、
12世紀聖職者ジェフリー・オブ・モンナスは幾つかの叙事詩をベースに中世騎士道の味付けをした「ブリタニア列王史」なる著書を出し人気を博し、その後も様々な人々の改編を経て「アーサー王の物語」が出来上がります。

馬上槍試合

もう一つ騎士の人気を助長したものに、馬上槍試合があります(これはトーナメントといわれ、現在の野球等のゲーム形式の語源なのでしょう)。
これは疑似戦争で、実際負傷したり、命を落とすことがあったようですが、大変盛んで、
数日間にわたって、競技場や街中で団体戦、個人戦を行い、
勝った騎士は相手を捕虜にし、高価な武器・武装を没収、高額な身代金を稼ぎます。腕に自信のある騎士にとっては貴重は収入源になります。

おそらく現在の、プロスポーツのようなもので、優勝者は高く栄誉を称えられます。

このように騎士を盛り上げる動きが、騎士の人間的質の向上に寄与したのは、間違いないでしょうが、
しからば当時の騎士たちがすべて聖人君子だったかといえば、
そんなことはなく、やはり粗暴な暴力集団が日常だったようです。

騎士が騎士であるためには、武装品は鎧兜や良質な馬や数人の従者等を自前しなければいけないので、
結構お金がかかります。戦場や試合での身代金や略奪が大きな収入源であったのは変わりなかったようです。

騎士の十戒

教会はそのような粗暴な騎士をなだめなければ、教会の制御下に置くことはできません。
以下のようなキーワードを使って、騎士のあるべき姿を熱心に説きます。

PROWESS:優れた戦闘能力
COURAGE:勇気、武勇
DEFENSE:教会、弱者の守護
HONESTY:正直さ、高潔さ
LOYALTY:誠実、忠誠心
CHARITY:寛大さ、気前よさ、博愛精神
FAITH:信念、信仰
COURTESY:礼節正しさ

1275年頃、騎士にして神学者であるラモン・リュイが著した「騎士道の書」は「騎士道の法典」とも呼ばれ、
中世を通し騎士の必読書であったのみならず、聖職者にも教本として親しまれたということです。
この中で下に示す騎士の十戒を説いていますが、
教会への服従、弱者への敬愛を説いくものの、
目上の人(日本でいえば、天皇や貴族や将軍や戦国大名や親)への服従=「忠」や「孝」について説いていません。
武士道の精神的基盤になった儒教と根本的に異なるところだと思います。

第一の戒律 不動の信仰と教会の教えへの服従
第二の戒律 社会正義の精神的支柱であるべき“腐敗無き”教会擁護の気構え
第三の戒律 社会的、経済的弱者への敬意と慈愛。また、彼らと共に生き、彼らを手助けし、擁護する気構え
第四の戒律 自らの生活の場、糧である故国への愛国心
第五の戒律 共同体の皆と共に生き、苦楽を分かち合うため、敵前からの退却の拒否
第六の戒律 我らの信仰心と良心を抑圧・滅失しようとする異教徒に対する不屈の戦い
第七の戒律 封主に対する厳格な服従。ただし、封主に対して負う義務が神に対する義務と争わない限り
第八の戒律 真実と誓言に忠実であること
第九の戒律 惜しみなく与えること
第十の戒律 悪の力に対抗して、いついかなる時も、どんな場所でも、正義を守ること

社会的地位を得た騎士は契約によって領主に仕えるようになり、更には自身が領主になるケースもあったようです。
初期の騎士は名前を残していませんが、吟遊詩人としての騎士は名前を残していますし、
その後は更に「成功し」後の世に名前を残した騎士も少数ですがいたようです。

ウィリアム・マーシャル、テンプル騎士団、ゲグラン、ドン・キホーテ

12世紀、イングランドで小地主の次男として生まれたウィリアム・マーシャルは、
放浪の騎士生活の末に、イングランド国王に仕え上流貴族に列せられ、
広大な領地とイングランドの摂政の地位を手に入れ、ヨーロッパで最も有力な人物の一人になります。

教会はイスラムから奪ったイェルサレムに巡礼する人々を守る目的で騎士団を経営します。最も有名な騎士団はテンプル騎士団です。
テンプル騎士団は莫大な資産を持つことになり、12世紀から13世紀に亘って人々の利便性から金融に力をいれ、後のヨーロッパの金融市場に大きな役割を果たします。
この強力な権力を奪おうとフランス王とローマ教会は、テンプル騎士団に無実の罪を着せて滅亡させます(1307年10月13日金曜日)。
所謂呪われた「13日の金曜日」です。

14世紀の最も有名な騎士は、フランスのベルトラン・デュ・ゲクランです。
後に100年戦争といわれるイングランド(フランス系王朝)と争ったフランスが当初完敗しそうな状況で、
ゲクランはフランスのために奮戦、フランスを救った英雄として語り継がれています。

15世紀になると、鉄砲・大砲が戦争の主要武器になり、戦争も個人戦よりも組織戦になります。
かつて騎士が主役であった戦争は一種の競技あるいは競技の延長でしたが、今や戦争は仕事であり、騎士の役割が減少していきます。

1605年セルバンテスは「ドン・キホーテ」を著わし、大ベストセラーになります。
ドン・キホーテの解釈は色々あるようですが、当時は騎士道を茶化したものと受け止められたようです。

小説「ドン・キホーテ」と共に、騎士道も遠い昔のよき時代のお話になったのでしょうか。

「中世ヨーロッパの騎士」 3

ローマ教会対神聖ローマ帝国

ローマ教会は自身十分な武力を持っていなかったので、神聖ローマ帝国に皇帝の王冠を授ける見返りとして、神聖ローマ帝国の庇護を受けていました。その結果、力に勝る神聖ローマ帝国はローマ教会の上位にあり、教皇の人事権すなわち教皇を信任する権利(叙任権)さえも皇帝が握っていました。

11世紀後半、熱狂的なローマ市民の声援を受けてグレゴリウス7世(在位1073~1085年)が教皇に就任すると、これまで腐敗し堕落したローマ教会の改革に取り組むと同時に、神聖ローマ帝国と一線を画する動きに出ます。

これに対して神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世はグレゴリウス教皇に圧力をかけ解任に動きますが、逆に教皇は皇帝の王位剥奪に動きます。激しい攻防の後、結局教皇がローマの民衆を味方にしたことで、教皇への賛同は大きくなり、ローマ教会は皇帝を破門、皇帝は謝罪しますが、その後も皇帝VS教皇派の対立は長く続き、結局皇帝は皇帝位を失います。

ここで注意すべきは、神聖ローマ帝国皇帝は、日本の戦国大名とは異なる点です。戦国大名は地域を力でねじ伏せ、その支配地域の独裁者になりますが、神聖ローマ皇帝は帝国内の諸侯(選帝侯)の選挙で決定されますのですので、ハインリヒ4世が教会から破門されたことにより、反対勢力が結集して、皇帝の地位までもはく奪します。

勢いづいた教会は、「騎士と正面対決して、彼らの略奪行為に制限をかけた。次に集団としての騎士たちに、禁欲的規律を処方する一方、彼らば本質的には善であり、高潔であって、教会の祝福に値する」(本書より)と騎士を手なずけ、更に、教会が世俗権力より上位にあると宣言します。

「グレゴリウスは、『神の平和』と『神の休戦』の運動に立脚しつつ、世俗の問題に対する教会の介入を思い切って大きく飛躍させた。グレゴリウスによると、教会の利益は他の何よりも優先した。平信徒、中でも騎士の役割は、俗世の政治その他の場で、教会の利益に仕えることだった。対立がおきたときには、教会に対する忠誠心は、領主に対するそれを超越し、臣従の誓いを撤回させることさえあるとされる。」(本書より)

十字軍宣言 ウルバヌス二世

続くウィクトル3世ウルバヌス2世もグレゴリウス7世の路線を踏襲し、キリスト教徒が同じキリスト教徒を殺害するのは許されない行為だが、反面キリスト教の敵に対しては正当な戦闘であるとします。

教皇ウルバヌス二世は、1095年11月27日、フランス中部クレルモンで、歴史的大(アジ?)演説を行います。

「この国は、四方を海と山の峰に囲まれ、汝らのあまたの民を擁するには狭すぎる。しかも富にも恵まれない。農民すべてを養うだけの十分な食料も備えていない。汝らが互いに殺しあうから、そうなのだ。戦いの挙句、互いに傷を受け滅びることを繰り返すから、そうなのだ。(中略)戦いをやめさせ、あらゆる不和を論争を休止させよう。聖なる墓所へと向かう道に入ろう。邪悪な人種からかの地を奪い返し、汝ら自身で治めるのだ。(中略)その地(イェサレム)は、神がイスラエルの子らのものとしてあたえたもうた土地だ。」

「イェサレムの地を邪悪なイスラム教から奪い返そう。それが聖戦だ」と騎士たちを焚きつけ、かくも高貴な仕事にふさわしい印として、十字架の形を「神の紋章」として与えます。ここに第一回十字軍遠征のうねりが起き上がります。

 

教会は騎士にとって最も名誉ある儀式「叙任式」を教会で行います。叙任式は多分日本の元服式のようなもので、若者が晴れて名誉ある騎士になる厳粛な式です。

かつて、騎士は乱暴な身代金商売をしていた身分の低い兵士にすぎませんでしたが、今や高貴な「キリストの戦士」、憧れの戦士になります。

従来貴族は財産を子供達に分散贈与していましたが、権力の集中が必要になって、家長に集中して相続するようになると、生活の基盤を失った次男、三男は家長に従属するか、それが嫌なら独立するしかありません。彼らの一部は、名誉ある騎士になっていきました。

 

1096年、五つの騎士団がコンスタンチノーブルからイェサレムを目指します。参加した戦士30,000人、騎士4,000人、当時としてはとてつなく多人数だったということです。1099年7月15日イェサレムの攻撃でクライマックスを迎えます。

「中世ヨーロッパの騎士」 2

中世の騎士は、ローマ帝国の騎士の延長ではなく、10世紀ころ新たに現れたというのが専門家の共通した認識ですが、いつ、どこで、どのように出現したかは、学問的になかなか難しい問題ということです。

 

ところで10世紀ころのヨーロッパはどのような状態だったか。おさらいしておきましょう。
4世紀後半、ローマ帝国は東西に分裂、直後東からゲルマン民族が西ローマ帝国に侵入、以後数世紀に亘って西ローマ帝国は混乱しますが、9世紀には東フランク、西フランク、中部フランク王国が成立、東フランクがローマ教会の後押しにより神聖ローマ帝国を名乗ります。
しかし、その後も東ローマ帝国を含めてヨーロッパ全体は内部抗争を繰り返すと同時に、北からはバイキング、南からはイスラムによって継続的に侵入を受けています。

混乱の中で守る側の王侯は、なんとか団結しなければいけません。

王は家臣との団結で、いわゆる封建制度ー王が家臣からの忠誠・軍事的奉仕と引き換えに、封土を与えるーを採用するようになり、これに平衡して、子孫への財産分与の方式が変化してきます。従来家の財産は子供達が分散して相続していましたが、これでは家の力が分散します。家長が独りで相続して財産を分散させないようになりました。しかし、これには時間がたっぷりかかりました。

封建制と家長への集中的財産分与も国によって大分ことなるようで、13世紀封建制が成熟した時期には、
北フランス、ドイツ、イングランドでは私有財産地はなくなりますが、
南フランスやスペインでは完全私有地が主要な土地保有形態のまま残りました。

 

ヨーロッパの混乱の時期に、鉄の鎧をまとい馬にまたがった騎士が登場しますが、彼らはいったいどんな人たちだったか。

「10世紀の生身の騎士は、上品な円卓の騎士とは殆ど共通点がない。10世紀の騎士は無知、無筆、言葉遣いもするまいも粗野。
主な収入源は暴力だった。彼らを制御するはずの公共の正義は事実上、消滅していた。
民事の紛争であろうと刑事犯罪であろうと、力を失った王たちに裁きを期待することはできず、すべては剣で決着がつけられた。
丸腰の教会と農民は、被害者や傍観者に甘んじるほかなかった。」

騎士の目的の一つはできるだけ高貴な人を人質にし、身代金を得ることが主要な戦利品でしたので、人質として役に立たない敵は殺害するのは当然のルールだったようです。また、騎士の武装(鎧兜や馬)や従者を従えるには、結構お金がかかる商売だったようで、簡単に騎士になれるわけではありません。

この無秩序の蔓延に何とかしなければと動いたのは、ローマ教会でした。

989年、ローマ教会は「神の平和」の名のもとに、「教会を冒涜したり、農夫やその他の弱者に暴力をふるったものに精神的刑罰を与える」と次のような宣言をします。

(1)教会に侵入したり、教会から何かを強奪しないこと。違反すれば破門。
(2)農民やその他貧者から雄牛、雌牛、驢馬、山羊、豚などを掠奪してはならない。賠償しなければ破門。
(3)武器を携帯せずに歩いている聖職者や家に住んでいる聖職者を襲ったり傷つけたりした者は、その聖職者の方が罪を犯しているのでなければ、贖罪しないかぎり、「神の神聖な教区から追放されねばならない」。

更に1030~50年代にかけて、「神の休戦」の名のもとに、一週間のうち水曜から月曜までの四日間及び祝祭日での戦闘を禁じることを騎士たちに誓約させました。

これらの規則・あるいは誓いが直ちに騎士たちに遵守されたわけではないのですが、しかし徐々にしかも確実に騎士の行動を規制していきました。

教会は更に世俗権力=騎士に圧力をかけます。その一つが騎士の叙任を教会が行うとしたことです。
これによって、騎士は「キリストの兵士」になっていきます。