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春らしくなってきました

5月11日、ポットに撒いた花の種が芽を出し成長してきました。庭の花が咲き始め、プランターのいちごも実をつけました。

網野義彦「日本の歴史をよみなおす」2

回り道が長くなりました。本題に入ります。

この本は著者がどこかで講義したものをまとめたらしく、その点分かりやすいとも言えますが、逆に重複した話が多く、かったるい印象があります。

それはともかく、著者は沢山の古文書をよく研究していて、話題が豊富で説得力があると思います。(ただし、「と思う」のような部分が沢山あって、学術的に認められていない主張は気を付けて読まなければいけません。)

話題は中世のビッグネームではなく、庶民を中心とした話です。

実はこの本は大分前に読んだので、もう忘れたことが多いのですが、印象に残った部分をご紹介します。

まず、中世日本について、著者が最も言いたかったことのひとつが、日本は農民国家ではなかったということです。
中世日本には農民ばかりではく、すでにたくさんの職業があった。農業の他、漁業・狩猟、織物、鋳掛等を生業とする人々が沢山いたのであり、百姓は農民を指すのではなく、これらの様々な仕事をする民を指す言葉だったといいます。

14世紀後半から15世紀にかけては、これまでとは異なる社会の発展があって、自治権をもった村や町が出現し、町では商業や宿が営まれていて、上のような様々な人や芸能人が、それらの町を移動して生活をしていた。

14世紀には漢字、平仮名、片仮名の3種類の文字が広く使われるようになった。当時の識字率は正確には分からないが、現在日本各地には古文書が広く分布しているとことからみて、相当の人々が文字を使っていた。
また日本各地には方言があって、理解できないことが多々あるが、古文書には方言がなく全国で均質であり、大抵の古文書は読むことができると驚いています。

平仮名、片仮名まじりの文書は10世紀に出現、13世紀には文書全体の20%程度が仮名まじり文だが、15世紀になるとこれが60、70%にもなるということです。

ところがその中では平仮名まじりが大半で、片仮名まじりは1、2%だそうです。

片仮名文書は口頭で伝えられる文書に使われたといい、神仏にかかわりがある、例えば起請文、願文、託宣記等や裁判に使う文書、面白いところでは、落書きに片仮名が使われているということです。落書きは”落とす”行為によって、人の手から落ちて神仏のものになったということです。

また日記にも片仮名が使われたということです。

一方、平仮名は女性の文字として普及しますが、やがて男性も私的な文書に平仮名を使い始めます。15世紀になると平仮名まじり文が多数使われるようになり、下層の侍、村の大名、主だった百姓も文字が書けたといいます。

また、宗教も多数の文字を使い、これも日本における文字の発達に寄与します。

結局、日本は律令時代以来徹底した文書主義を採用したということで、そのために多数の古文書が残っているということです。

次は貨幣の話です。

12世紀までは交換手段は絹や米でしたが、13世紀になると中国、宋から銭が輸入されますが、当初は貨幣本来の使用目的=価値の交換よりも、一種聖なるものと考えられ蓄財に使われたと著者はいいます。
しかし、14世紀になると貨幣は大量に輸入されるようになり、本格的に貨幣が交換手段として使われるようになったが、その契機が市場の発達であったということです。

余談ですが、日本では大量に銅が産出されたし、古くから鋳物の技術もあったのに、中世には日本では殆ど貨幣を鋳造しなかったのはどうしてなのか、著者は不思議がっています。いわれてみればその通りです。

さて、金融(らしきもの)も発達してきます。

日本での金融の起源は出挙(すいこ)だといいます。古代では最初に獲れた初穂は神にささげられその後蔵に収められます。次の年初穂は種籾として農民に貸し出され、秋になり収穫期には初穂にお礼の利稲(りとう、利息)をつけて蔵に戻す。という制度があり、これを公出挙といいます。

鋳物師は12世紀以降、殿上で使う鉄の灯炉を天皇に差出、その代り全国を自由に遍歴して鉄および鉄器ものを販売する特権を認められていた。

中世の商工業者、金融業者、芸能民は神仏、天皇の直属民という地位を得て一種特別な民として市場から市場に遍歴していました。

しかし、13世紀後半になると、畏れと関連づけられていた穢れは、神との繋がりを断ち切りむしろ蔑視する対象へと変わっていき、それを生業にする人々も卑しい人々として蔑む対象になっていった、といいます。

鎌倉新仏教の「浄土宗、一向宗、時宗や禅宗までも悪人や非人、女性にかかる悪や穢れの問題に、それぞれ、それなりに正面から取り組もうとする宗教だった」が、世俗の権力によって弾圧され、15世紀には日本の社会のなかに、被差別部落や遊郭、さらには「やくざ」つまり非人や遊女、ばくち打ちに対する差別が定着していった、と著者は主張しています。

その他にも女性の問題、天皇の問題等議論していて、思想的偏向はフィルターに通してみると割り切って考えれば、大変濃い内容の本だと言えます。

ただし、必ずしも学会で認められていない主張もあり、自分なりに捨象して理解する必要があると思います。

網野義彦「日本の歴史をよみなおす」

先月「九州の歴史」について私なりに整理して、2回に分けて書きました。そこで取り上げた時代は、足利尊氏から室町第三代将軍義満あたりまでで(ほぼ南北朝時代にあたります)、特に九州の豪族少弐と菊池の盛衰について取り上げました。

アマゾンで「九州の歴史」で本を検索して、買って読んだのは、大半は戦国時代、戦国武将の攻防についてです。ですから、南北朝以降から戦国時代が始まるまでのおよそ100年の間の九州の歴史がどうだったのか、纏まった本を見つけることができませんでした。

この時代は、私の貧弱な歴史の知識の中でもとりわけ空白の時代なのですが、網野義彦が「15世紀という時代は、政治的には相対的に安定期であり」と書いていますので、あまり大きな事件がなかったので、この時代は歴史の教科書にも多く書かれていないし、私の知識が欠落しているのもやむなしということでしょうか。

但し1467年には約10年続く応仁の乱があり、戦乱の時代になっていくので、網野がなにをもって15世紀は安定期だったといっているのか、私には分かりません。

となると、逆に中世のビッグネームではない庶民がどのような生活をしていたのか大変興味をそそられ、数冊読んでみました。

桐畑隆行「筑前 歴史風土記」(文理閣、1978年)、網野義彦「日本の歴史をよみなおす」(筑摩書房、2011年)がその趣旨に沿うもので、永原慶二「下剋上の時代」(中央公論、2008年) はこの時代のメインストリームを丁寧に語っています。

最初、網野著「日本社会の歴史」(1997年、岩波書店)を読んだのですが、 なぜか読みにくくて半分くらいで読むのをやめました。

以前このブログでもご紹介しましたが、網野は左寄りだとわかっていたのですが、それはそれとして、庶民の話を期待して読みました。その期待はおおむね間違っていなかったのですが、なかでとんでもない左寄の記述があり、おったまげました。

将来、いつかは天皇が日本の社会にとって不要になる時期がくると思いますが、その時には、われわれは、日本という国号そのものをそのままつづけて用いるかどうかをかならず考え直すことになると思います。

私は、中世の特に庶民の歴史を勉強しようと思ったのに、どうして天皇制廃止論がでてくるのか。私ははっきりいって天皇制廃止論には反対だし、なぜここで著者はこの話を書かかければいけないのか私には理解できません。

現住所

現在家内の実家で生活しています。広い敷地に大きな家が建っています。

住宅はもう25年以上前に私の友人が設計した和風の建物で、親たちは気に入っているので、それはそれでいいのですが、友人の事務所が遠方で十分に施工管理ができていなくて、最近あちこち傷んだところを修理する段になって、なんと当時の施工がいい加減であったか驚き憤っています。

広い敷地は一応日本風庭園ですが、あまり手入れもよくなくて、木ばかり多いので手間がかかります。

日本庭園の手入れは、私には手に負えないのでこれは諦めて、空いたスペースは雑草の温床になりますので、そこら中花だらけにしようと、鍬で耕しますが、一鍬ごとに小石にぶつかり、酷い庭土にこれまた腹を立てています。

思い立ったら待ち遠しくて、寒いうちにサカタのタネで数種類のタネを購入し、発芽用の容器や底の浅い容器に発芽用砂をしいてタネをまきました。 カンパニュラ、金魚草、アスター、インパチエンス、ミックスフラワーガーデン等 です。

私は、種から育てるのは初めての経験です。

これらのタネはとても小さいのですが、今4月が近づいてきて、温室の容器の表面に小さな芽を沢山出しはじめました。種が小さいので撒くのが難しく、結構密集してしまいました。せっかくですから発芽した芽を可能な限り生かすために、もう少し大きくなったら、 一度苗として育てる容器に移そうと思います。

小さな種が小さな芽を出し始めました。

庭にたくさん花が咲き始めました。寒い時期に植えたチューリップも

九州の歴史 2

そもそも少弐はなぜ、尊氏を応援したのか。

少弐一族の祖先は平安時代・藤原家の傍流が武藤を名乗って中央政権に従う武家だったようです。Wikipediaによると以下のように紹介されています。

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。

少弐は頼朝に恩義があり、足利尊氏は源氏の流れを汲む頼朝の再来と考えたし、また当時太宰府・少弐は鎮西探題・北条から圧力を受け、北条への恨みがあったと思われます。

一方、尊氏上陸を阻止しようとした菊池氏はどのような家系だったか。

菊池は少弐と同じく藤原に祖先をもつようですが、少弐以上に出自ははっきりしません。少弐同様武家として成長しますが、九州への土着性が強く、源平とは距離をおき、その分宮家への忠誠心が強かったようです。私本太平記では次のように書いています。

肥後の菊池郡隈府町がその本拠だった。元々、上古の久米部の兵士の裔でもある。中頃、後鳥羽院の武者所に勤番し、承久ノ乱にも宮方、元寇の乱にも、率先、国難にあたってきた。 要するに、筑紫のくさわけでもあり徹底した防人精神のうえにその家風も弓矢も伝承してきた菊池家だった。

1336年2月末京を追われた尊氏は芦屋ノ浦にたどり着き、3月尊氏・少弐の連合軍は菊池の防戦を破り太宰府を奪還、尊氏は休む間もなく兵を整え東進を開始。尊氏は海路、幼い時から生死を共にした弟直義は陸路から京を目指します。
同年5月、尊氏軍は神戸・湊川で新田義貞を撃破、楠正成を敗死に追いやり、更に京に駆け上って京を奪還、後醍醐は吉野に逃れます。

尊氏が光明天皇をいただき京都で幕府を設立すると、後醍醐は吉野に朝廷を設立します。南北朝(1336年~1392年)の始まりです。

ところで、尊氏が太宰府で兵をととのえ京に上っていったとき、腹心の二木、一色を九州にとどめ九州掃討の任につけます。 一色はよく働き、太宰府で九州探題としての任を果たします。
こうなると小弐は一族の命運を懸けて尊氏を支援したのは何だったのか、不満がくすぶり、小弐はその後複雑な動きをすることになります。

尊氏が北朝を開いた後も、九州では南朝寄りの菊池をはじめとする武将が力を蓄え、また尊氏と一時袂を分かった直義が南朝につき、1348年には後醍醐の皇子・護良が菊池の城下に入ると小弐はこれに加わり、太宰府に九州・南朝を開き十数年にわたって安定した政治を執行します。

この事態を憂慮した北朝・足利義満は1370年、切り札として当代一流の知識人今川了俊を九州探題として送り、了俊は義満の期待に応え、南朝側諸勢力を平定していきます。

1375年了俊は菊池の本城陥落を目前にして祝宴を開くと称して九州三人衆の来陣を求めます。島津氏久 と大友親世は応じますが、小弐冬資 ははなかなか姿をみせません。氏久は了俊の求めに応じて冬資を説得、冬資も氏久の仲介を断れず、祝宴に参加しますが、酒宴の最中に了俊の弟仲秋らが躍り出て、冬資を刺殺します。 氏久は怒りただちの兵を引き上げ、以後反今川の行動を繰り返していきます。

それから約20年後(1395年)、了俊は突然九州探題の職を解かれ、それを機に配下の大内が九州進出を図ります。少弐は探題に加えて大内と度々戦いますが、1400年代になると劣勢を立て直せず、豊前、筑前から追い出されていきます。

1467年応仁の乱が勃発して、大内は西軍山名に、少弐は東軍細川につきます。大内が畿内の戦乱に注力している機に乗じて、少弐は一時九州での勢力を挽回しますが、乱が収束し大内が態勢を整えると、少弐は大内の戦力に抗しきれず、やがて戦乱の表舞台から姿を消していきます。当初は少弐が敵対する当事者であった九州探題も存在感を亡くし役割を終えます。

菊池もまた大きな流れに翻弄され、やがて没落していきました。