年別アーカイブ: 2016年

18件の投稿

吉川英治「新・平家物語」4

以仁王の反乱はあっけなく鎮圧されますが、頼政から王の檄文(令旨・りょうじ)を手渡された行家は、同志をめぐって決起を促します。

伊豆の頼朝にも令旨が届けられ、それを追って平氏からの鎮圧が来ることを予期した頼朝は蜂起を決心します。

頼朝は1180年8月、伊豆の代官を襲い殺害、そのまま北上し、今の小田原あたりで平家側大庭軍と戦いますが大敗(石橋山の合戦)、僅かな手勢と山に逃げ込みます。

ここで、有名な挿話があります。

頼朝達が隠れたいた大きな洞を、敵将・大庭景親が調べようとします。
そこに平家方武将の梶原景時現れ、「自分が調べる」と弓を洞に差し込み、「ここは蝙蝠の巣」だと、頼朝が潜んでいることを知りながら、頼朝を見逃します。

景時は頼朝の将来を見込んだという話です。

実際その後、景時は頼朝の家臣になり、頼朝も景時を重用し、義経・範経が平氏追討で瀬戸内海で戦った時、いわば参謀として参戦します。

「新平家」では景時は、義経に徹底して対抗心をもち、頼朝にあることないこと告げ口した人物として描かれています。

真鶴から房総に逃れた頼朝は、房総の豪族、上総広常と千葉常胤を味方につけ西進、父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉に本拠を構えます。

それに呼応して、平家は頼朝討伐のため東進。
平維盛は富士川で頼朝と対峙しますが、水鳥が飛び立ったのに驚いた平家軍は戦いを放棄して逃散します(1180年11月)。頼朝は追跡しようとしますが、重臣から、「今は深追いするときではない」との進言を受け、鎌倉に引き返します。

このとき、奥州藤原にいた義経が秀郷から授かった武将と共に、頼朝のもとに馳せ参じ、涙の対面をします。

 

富士川での平家の無残な敗走を期に、全国各地に不穏な空気が上ります。

このような騒乱の中、同年6月、清盛は長年の夢であった福原京(現在の神戸市)に遷都します。が、遷都は機能せず、一度は遷都したものの公卿たちは京に戻り始めます。

この大切な時に、清盛は熱病にかかり、重衡を頼朝討伐にあてることを命じ、「あとは宗盛のもとに結束せよ」と遺言し病没します(1181年3月)。

[新平家]では病名はぎゃく=マラリヤだとしていますが、今は諸説あるようです。

1181年4月、平重衡を大将とする平家軍が再度東進し、今の大垣市付近墨俣川の東岸でこれに対峙したのが頼朝とは一線を引いていた行家です。しかし、行家は墨俣川で敗れ、後退した矢作川でも大敗し鎌倉に逃れます。

当時平家には、西は平家、東国は源氏、奥州は藤原が支配するという構図を描いていたので、平氏は源氏軍をそれ以上深追いすることはありませんでした。

鎌倉に逃れた行家は、自分が頼朝の叔父であるとこをいいことに、傲慢な態度を取ったために、頼朝の怒りをかい、やむなく木曽義仲のもとに走ります(1183年)。

行家は[新平家]に頻繁に登場しますが、あまり好意的に書かれていません。
熊野に潜んでいた行家は、以仁王の令旨を盾に、独自に蜂起しますが、合戦は負け続け、頼朝を頼ったり、それがだめなら義仲、義経、上皇と次々頼る相手を変え策を弄しますが、最後は頼朝に討たれます。

義仲の父義賢は、頼朝の長兄義平(悪源太義平)に武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)で討たれますが、このとき義賢の重臣が、幼い義仲を抱いて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、以後義仲はこの地で育ちます。

義仲が頼朝に追放された行家を庇護したことで、義仲と頼朝は険悪な関係になり、結果として義仲の行動を難しくします。義仲は頼朝に敵意はない証として、息子義高を人質として頼朝に差出し、北関東を固め平家との合戦に備えます。

義高と頼朝の娘・大姫は恋仲になります。
後年頼朝と義仲が敵対するに至って、頼朝は義高を斬殺(1184年、享年12)、大姫は頼朝を恨み、若くして病没したと[新平家]では書いています。

富士川の戦い(1180年)で大失態した平維盛は、義仲討伐の10万の大軍を率いて、北陸道に進みます。

しかし、1183年5月、今の金沢の北東・倶利伽羅峠で平家軍は、義仲の奇襲(夜中牛の角に松明を付けて、平家軍に突入させてといわれています)を受け、膨大な戦力を失い無残な姿で京都に逃げ帰ります。

義仲は勝利の勢いを保ったまま、6月には延暦寺を恫喝して味方につけ、入京の構えをみせます。

清盛をなくし、義仲との戦いで軍事力の大半を失った平家は、押し寄せる義仲軍におびえ、一戦も交えず、女子供もみな引き連れて、京の都を明け渡すことを決めます。

このとき最も大切なことは、天皇家を平家方につけることです。

高倉(後白河上皇と平慈子の間に生まれた)は既に逝去していましたが、高倉と清盛の娘徳子との間に生まれた安徳は、弱冠8歳の、しかし既に天皇になっていました。

安徳天皇は幼いので当然、母徳子と一緒に行動します。

平家は、もう一人の重要人物・後白河上皇を味方に引き付けておかなければなりませんでしたが、不覚にも、京都撤退のどさくさで、策士・後白河に逃げられてしまいます。

後白河がいないものの、平家一族は安徳天皇と三種の神器を携えて九州目指して落ち延びます。ところが、味方だと思っていた大宰府を初めとする九州の諸武将は平家に敵対し、九州にも居場所がありません。清盛が一生をかけて築いた福原に近い、四国屋島に拠点を築きます。

義仲が都の統治に失敗し、源氏の内輪もめが始まっていました。

吉川英治「新・平家物語」3

そもそも源氏とか平氏とかはどういう人たちか。

実は、源氏も平氏も天皇の末裔で、天皇の子や孫が皇族から離れ民間に下るときに授かる姓が源氏、ひ孫以遠の子孫が民間に下るときに授かる姓が平氏ということです。

多くの天皇から源氏や平氏が分岐しています。ということは、源氏は頼朝一族だけではないし、平氏は清盛一族だけではありません。

清和天皇の孫の経基がいただいたのが清和源氏、嵯峨天皇の皇子・源信、源融がいただいたのがの嵯峨源氏、桓武天皇から五代下って高望王がいただいたのが高望王流平氏です。

また、当然天皇からの分流だけでなく、源氏は源氏、平氏は平氏の中で分流していきます。

清和源氏からは河内源氏、摂津源氏等の武家が分岐し、高望王流平氏からは、将門等の坂東平氏、その末裔からは清盛を輩出した伊勢平氏があります。

下に、平家物語で度々登場する源氏の武将の続柄を示します。

以仁王の旗揚げに加わってのは摂津源氏の源頼政でしたし、以前ご紹介しました前九年の役、後三年の役等で活躍した頼義や義家は河内源氏の属します。

頼朝、義仲は従弟同士ですが、良好な関係ではありません。
彼らの祖父為義と義朝は仲が悪く、義朝が南東国に下ったのに対して、為義は二男義賢を北関東に送ります。

ところが、義賢は義朝の長男・義平(上の系図ではかいていません)によって敗死、
その後保元の乱では、為義・義朝親子は敵対し、父為義は実子義朝に斬殺されます。

一方、平清盛は平氏の遠縁の時子と結婚します。
時子との間にできた子供を含めて、清盛には、重盛、知盛、重衡、安徳天皇を生んだ建礼門院徳子がいます。

時子の兄弟=清盛の義兄弟の中には、後白河の側室になった建春門院・慈子や、清盛をよく補佐し、生涯をまっとうした時忠がいます。

さて、平治の乱で敗れた義朝・頼朝は東国目指して逃げます。

途中頼朝は一人道に迷い平氏に捕らえられ、義朝は今の名古屋あたりの長田忠致の邸にたどり着きますが、裏切られ部下とともに斬殺されます。

慣例から義朝の息子たちも殺される運命だったのですが、当時13歳であった頼朝については、清盛の継母=池禅尼が涙の命乞いをし伊豆に流罪となり、まだ幼かった牛若(当時2歳、義経)と二人の兄弟は、成長した後には出家するという条件で寺に預けられます。

牛若は元服=出家を前に鞍馬山を出奔、琵琶湖湖畔の近江源氏や各地の同志を転々とし、一時奥州藤原に身を寄せます。

吉川英治「新・平家物語」2

新・平家物語は長過ぎます。

朝日新聞社版、全24巻。講談社版、全16巻。私がこれまで読んだ中で一番長い小説です。

私はKindleで読んだのですが、Kindleでは、今何パーセント読んだかが表示されます。
その数字が、読めども読めども上がらないのです。うんざりしながら意地になって読みました。「新・平家物語を読んでいる」と、昨年11月このブログで書いていますから、10月には読み始めたと思います。途中1ケ月強はNPOの仕事をしましたので、この小説を読み終えるのに正味2ケ月弱かかりました。作者の創作と思われる部分は斜め読みし、読み終えることを一心に念じて(宗教じみています)、やっと終わりました。

 

さて内容です。

話は、清盛が少年のころから始まって、保元平治の乱での朝廷の変様と武力の台頭、清盛の最盛期、源氏の蜂起、清盛の死、義仲や義経の活躍=平氏の滅亡、一時期歴史の主役を演じた、義仲、義経や後白河の動向と最期、遂には頼朝の死まで、事細かく書かれています。

ただし、朝廷内での権力闘争や文芸的な話題は殆どなく、朝廷(天皇家、公卿)や寺社と武士達の確執、源平の争いが話の大半を占めています。

吉川英治はどうでもいいこと(私からすれば)を書いてはいますが、歴史を曲げてまで書いてはいませんので、事件の顛末をかなり正確に知ることができます。

ですから、これまでなんとなく知っていたことが、「ああ、そういうことか」と明確になることが沢山ありました。

アマゾンの書評で、「まず歴史を勉強してから、この小説を読むべきだ」というものがありましたが、私は逆で、小説を読んでから歴史書で確認する方が、歴史は素早く理解できると思います。

なぜなら、歴史書で一度読んだくらいでは、人の名前を覚えられませんが、小説ではメインの人物は頻繁に登場し、イメージができますから、その後で歴史書を読めば、小説のイメージと合わせながら歴史を理解できます。

それにしても、「新・平家物語」は長い。

 

平家物語の出だしで「驕れるものも久しからず」といっていますが、清盛が人格的に驕っていたと断定するのは早い。

平家が公卿に対して軍事的に圧倒し、平家に都合がいいように改革を進めれば、旧勢力からすれば「驕っている」と思うのは当然のことですので、「驕れる平氏」という見方は一面的過ぎると思います。

さて、平治の乱(1160年)で壊滅的人的損害を出した源氏は、それぞれがひっそりと東海・北陸・関東で力をためています。

一方、先に書きましたように、京で平氏が勢力を示すと、皇室・公卿とさらには延暦寺や園城寺や奈良の寺社と衝突が頻発します。

これに対して、平氏は当然武力で鎮圧しますから、軋轢は益々深刻になっていきます。

平治の乱から20年後の1180年、平氏に我慢できなくなった後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は、平氏打倒の計画を立てますが、発覚。

追捕を恐れた以仁王は園城寺に逃れます。当然平氏は園城寺に彼らの引き渡しを求めますが、園城寺は応じません。

このとき、以仁王の支持に立ち上がったのは、源氏でありながら平氏に取り入って、源氏の中で唯一清盛に厚遇されていた源頼政。

危険を感じた以仁王、頼政は園城寺を脱出し、奈良に向かいますが、平等院あたりで平氏に追いつかれ、自害あるいは討ち死にします(同年6月)。

これを期に平家と園城寺の関係が悪化、清盛から総大将を命じられた五男・重衡は、あろうことか園城寺に火を放ちます(同年12月)。

当時、大寺院同志は必ずしも仲が良くなかったのですが、藤原家の菩提寺・興福寺は園城寺に同調。

今度は平氏は興福寺に圧力をかけます。

清盛は平和的にことを済まそうとしますが、前線が決定的な衝突を起こし、重衡は東大寺等奈良の寺々を焼き払います(1181年1月、南都焼討)。

奈良の寺社は激しく怒り、いつまでもこのことを恨み、後に重衡が頼朝に逮捕されたとき、奈良の僧侶は重衡をもらい受け、奈良に連行する途中で斬殺します。

 

ここで、僧侶について一つ理解しなければいけないことがあります。平安の寺院には、仏教の教えを極めようとするいわゆる僧侶とは違う、日常的には雑用をこなす人たちがいたということです。

彼らはある意味、仏の教えとは縁遠い存在で、京の都や各地で食いあぐねた荒くれが大寺院に住み着き、寺社および寺社が所持する荘園を守っていた(=武力集団)のです。

寺社に不満がたまると、度々彼らは神輿を担ぎ武器をもって、京を練り歩き朝廷に要求をのませていました。

清盛が若いころ、祇園社(八坂神社)の強訴に対して神輿に矢を射て、僧侶に屈しない態度を示した話は、この本にも出てきますし、映画等でも出てきます(絵になりますから)。

ところで、河口慧海の[チベット旅行記]でも、チベット寺社に所属する武力集団の話が出てきます。とても具体的な説明だったので、「そうなんだ」と納得しました。