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下向井龍彦「武士の成長と院政」4

院政

下に簡単な平安時代の年表を示します。

794年 桓武天皇が京都に遷都
869年 藤原良房が摂関政治を始める
940年 将門・純友の乱
1000年前後 藤原道長全盛期
1027年 後三条天皇譲位。院政始まる
1030年 平忠常の乱。源頼信平定
1051年 前九年の役始まる。源頼義対応
1063年 安倍氏滅亡
1085年 白河院政始まる
1087年 清原氏滅亡、後三年の役。源義家対応
1129年 鳥羽院政
1156年 保元の乱。源為朝死去
1159年 平治の乱。源義朝死去
1191年 清盛死去

藤原良房(藤原北家)は政敵を次々に失脚させ、自分の娘を天皇(文徳天皇)に嫁がせてることによって、天皇を独占的に補佐する立場を確立します(摂関政治)。

独占的立場はいい面もあります。
政敵がいないので朝廷政治は比較的安定した状態で推移します。

摂関政治が百年以上続いた後、後三条天皇が自身摂関家を外戚に持たなかったのを期に、摂関政治に終止符を打ち、白河天皇に譲位し院政を始めました。が、その直後に病没します。

続く白河天皇が8歳の堀川天皇に譲位して、自身上皇になりますが、堀川天皇が若くして逝去したので、その皇子の鳥羽天皇を即位させ、ここに本格的な院政が始まります。

院政の重要性は日常の政治ではなく、上皇が次の天皇あるいは皇太子の人事権を握ることだと筆者はいいます。

それゆえ、院政になっても上皇あるいは天皇は摂関家を排斥したわけではありませんが、摂関家の比重は小さくなりその分新たな上皇の補佐システムが必要になります。

それが近臣といわれる上皇のブレーンで、必ずしも身分を問わないで、有能な人材を登用しました。

摂関・院政時代、国が平穏だったということではありません。

騒乱の原因は私有地・荘園の増大です。
小荘園主は庇護を求めて、権力者に荘園を寄進します。寄進された豪族は更に大きな権力に荘園を寄進し、最終的には京の公卿であったり、大寺院が荘園の名目上の所有者になります。

荘園から租税を徴収するにしても、荘園の限りない増大は紛争の種です。荘園同志、あるいは荘園と朝廷との紛争は耐えることがなかったので、度々荘園整理令を出して荘園のあるべき姿を模索しますが、紛争は耐えません。

もう一つ理解しておかなければいけないことがあります。

前回ご説明したように、源氏は3代にわたって平忠常の乱、前九年の役、後三年の役を平定し、大変活躍したのですが、朝廷では彼らが強大になるのを警戒しました。

それ故、後三年の役で義家が清原討伐の命令を求めたが、白河院はそれを認めず、結局私合戦として何の褒賞も与えなかったし、その後も義家を冷遇します。義家死後、義家の息子義親が度重なる狼藉をするに及んで、近臣平正盛を追討使として派遣、追討に成功すると、正盛に盛大な凱旋パレードを行わせます。

朝廷は源氏ではなく、伊勢平家を重用したのです。

それでも義親の子為義は、朝廷で誠実に勤め、先祖から受け継いだ東国の基盤をしっかり確保していました。

下向井龍彦「武士の成長と院政」3

平忠常の乱

将門の叔父・平良文は「将門の乱」に介入せず、村岡五郎と名乗り、下総国相馬郡(現在の茨城県常総市から千葉県柏市あたり)を本拠に関東での勢力を伸ばしていました。

忠常は良文の孫で、上総国、下総国、常陸国の広大な領地を父祖から受け継いでいましたが、行動は傍若無人、国司の命に服さず納税の義務も果たさない態度を示していました。

将門の乱から1世紀近く経った1028年、平忠常は騒乱を起こします。受領との軋轢が原因とみられますが、当時東国は荒廃していて、在地の役人や領主はそれぞれ苦労していたので、彼らの中には忠常に心情的に味方するものもいました。

そのような状態で騒乱は続き、政府は甲斐守源頼信を追捕使に任じ、頼長は忠常を説得して、1030年無血でこの乱を収束します。

忠常を無血投降させたということは、頼信がすでに東国武士の信頼を得ていたことを意味し、更に、今回の働きにより、頼信は東国武士からより以上の信頼を勝ち取ることになります。

頼信は、この乱の褒賞として美濃の国を希望します。美濃は重要な意味があります。美濃は東国と京を結ぶ中間点であり、頼信はここで、東国武士との交流の基盤を得たことになります。

そもそも源頼信とは何者。

西暦939年、武蔵の国でいざこざがあって、将門が仲裁に入りました。
将門が凶族と断じられる前の話です。このとき勘違いして、京に逃げ帰り、「将門謀叛」と朝廷に知らせたのが源経基。「謀叛」と知らせたものは、それが本当かどうか分かるまで、軟禁されるのが当時の掟でしたので、規則にしたがって経基も軟禁されます。

ところが彼にとっては幸運なことに、その後本当に乱に発展してしまい、乱終了後に、経基は「緊急に事態を報告した」として褒賞を受けます。

その息子・満仲は都で乱暴狼藉に明け暮れる暴力団の親分、入間田宣夫によれば「この人は殺生の罪人であった」。

しかし、同時に公卿には都合のよい用心棒でもありましたので、満仲は公卿に重宝され、おかげで、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍にもつき、莫大な富を得ます。晩年は、息子の源信僧都の説教に感じ入り出家します。

頼信はその嫡男、「若親分」といったところでしょうか。

その彼が忠常の乱を平定しました。

前九年の役

さて、前回書きましたが、東北の支配は「政治的妥結」をした状態でした。

今の衣川・平泉の北に陸奥6郡、その西・日本海側に出羽4郡があり、それぞれ蝦夷(えみし)の支配はそのままに、それを監視するための鎮守府を置いていました。

ここは金・馬・毛皮・鷹などの産地で、中央の貴族や豪商は争って買い求めたので、ここを支配していた蝦夷の長・安倍、清原両氏は、強力な力をもっていました。

力を自負する彼らは、中央政府の指示を度々無視して勝手な行動をするので、政府はここをなんとか屈服させたいと思っていました。

1051年、国は相模守であった頼信の子頼義を陸奥守に抜擢し、鎮守府将軍を兼務させます。安倍氏は問題を起こさないよう気を配り、頼義は無事に任期を終えようとしていました(1055年)。

頼義は受領職の旨みを手放すことを惜しみ、なんとか職を重任したいと思います。
頼義が帰還の途についたとき、ちょっとした事件が起こり、これを口実に、頼義は朝廷から追討宣旨(追討許可証)を得て、安倍氏との間で戦闘を起こします。(著者はこれは頼義の陰謀だと考えています)

頼義は追討宣旨を旗印に、坂東武士に参集を呼びかけます。著者によれば「坂東武士たちはチャンス到来とばかり、『雲のごとく集まり雨のごとく来た』」ということです。

しかし、安倍氏は激しく抵抗し戦闘に決着がつかず、このどさくさで頼義は重任を手に入れ、戦闘を続けますがそれでも決着がつかず、またも任期を終えようとします。

危機感をもった頼義は、あろうことか出羽の蝦夷の長・清原氏にへりくだって頼み込みます。それを受けた清原が主力を担い、安倍と戦います。

著者はいいます。
「戦争の性格も、謀反追討を名目にした清原氏による安倍氏打倒と奥6郡の乗っ取りに変わっていった」。

そして清原の力によって安倍は滅亡し、朝廷は頼義郎党に十分な褒賞を与え、清原氏を鎮守府将軍に任じ、清原氏は東北全域を支配下に置くことになります。

これを前九年の役といいます。

源経基(将門の乱) - 満仲 - 頼信(忠常の乱) - 頼義(前九年の役) - 義家(後三年の役)

後三年の役

1080年代に入って前九年の役の勝者清原氏に内紛が発生します。

1083年頼義の子・義家が陸奥守として着任、義家は度々清原を挑発しますが清原は我慢し、大事なく1086年帰任しようとしていました。任終年、義家は清原兄弟の仲違いを誘発、兄清原家衡は弟清衡を襲撃、義家は家衡討伐の許可証を国に求めますが、政府(白河院)は源氏の肥大化を警戒して追討官符を出しません。

それだけでなく、政府は義家を止めようと官使を送りますが、義家は無視し家衡攻撃を仕掛けます。

かつて父頼義のもとにはせ参じた東国武士団は、再度義家のもとに集結します。

清原家衛はよく戦い、金沢柵(現在の秋田県横手市?)にこもります。

柵の中から、「頼義は清原に加勢をお願いしやっと安倍を討伐できた。今その恩を仇で返すのか」と義家を罵ります。

これに怒った義家は兵糧攻めにし、清原は投降したにも係わらず、家々を焼き尽くし、抵抗する力もない兵士や女子供を虐殺したということです。

これを後三年の役といいます。

この戦いの結果はどうなったか。
政府からは正式討伐許可を得ていないので、私合戦とみなされ褒章はでません。
それだけでなく、陸奥からの帰任にあたって納めなければいけない収穫を未納することになり、義家は財政的には窮地に陥りますが、その一方で坂東武士の結束を強める結果になります。

東北の地は義家ではなく、清原清衡が陸奥出羽押領使に任命され、奥羽全域の軍事的支配者になり、「俘囚の主」の地位につきます。

清原清衡は、前九年の役で滅ぼさされた安倍の末裔を母に、同じく前九年の役で殺害された藤原経清(藤原秀郷の子孫)を父に持ちます。後、父方の姓藤原を名乗り、東北で栄華を誇った藤原3代の基盤を築きます。

そしてそれから100年後の1189年、奥州藤原氏は頼朝に滅亡させられます。

 

東北戦争は、従来の乱と違うと筆者は強調します。
従来の戦争は国内での反乱だが、前九年の役、後三年の役は中央による侵略戦争だと。

 

そして歴史的に重要なことは、この三つの大きな合戦で、源氏が東国武士と共に戦い、戦いのなかで結束を強め、東国武士の棟梁の地位を確立したということです。

下向井龍彦「武士の成長と院政」2

一方の、律令制下での国内治安はどのように確保したのか。

地方(国衙)は基本的には常備軍を持ちません。

国衙での事件は、規模や性質によって異なる形で対処します。

非武装で処理できる軽微な事件は、国司の判断で人夫を雇って逮捕に向かいますが、武力を必要とする場合は必ず中央政府にお伺いを立てねばなりません。それを怠ると後で罰せられます。

武装を必要とするときは、謀反(天皇に対する反逆罪)に相当するときは天皇に、謀叛(国家に対する反逆罪)に相当するときは太政大臣に、事件の内容を報告して、逮捕状(捕亡令)と動員許可証(発兵勅符)を頂いて、臨時兵士をそろえて逮捕に向かいます。

これらの兵士は国軍ではなく、あらかじめ登録しておいた在地の武芸に秀でた豪族、百姓です。

大化の改新(646年)から100年以上経過した奈良朝末期になると、社会構造に変化が起きます。まず、人口や財政需要の増加に伴い、国家収入を増やす必要から大規模開墾を始めますが、開墾を効果的に進めるために、やがて743年には開墾した土地の私有を認めます。

土地の私的所有を認めると、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有(初期荘園)が出現するこになります。

780年の徴兵制廃止に伴って、律令制の基盤となっていた戸籍を通じた個別人身支配が急速に形骸化し、平安朝9世紀になると、重い人頭税に耐えかねた農民は農地を離れ浪人になりますが、国はこれを看過する一方、彼らを吸収する地方の豪族が肥大していきます。

その結果、個人に課税する人頭税方式は不具合が生じ、これまでの人頭税は土地に対する税に変わっていきます。

中央と地方の関係にも変化が起きます。すなわち中央政府は地方の管理権限を地方の長官・国司(受領)に移譲するようになり、国司はさらに納税については郡や里の長(有力豪農)に管理を任せるようになります。

これは国司の力を弱めることを意味しません。逆に、フリーハンドを得た受領は、自分の権限で群や里を締め付け蓄財し、また中央への貢献に実績を上げようとします。

受領は通常4年任期で、成績が悪ければ次の着任地を得ることができません。特に退官年には、厳しく郡や里を取り立てます。

これは地方の治安を不安定にし、富豪同士、富豪と受領との間で、紛争が頻発します。

これを鎮圧したのは誰か。先に説明したように、これは国軍ではなく百姓のうち弓馬に通じた者、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる俘囚でした。

802年征夷大将軍坂上田村麻呂は東北に侵攻し、鎮守府を多賀城から北の胆沢城に移し、蝦夷と政治決着しました。すなわち、胆沢城の北には蝦夷の社会体制を温存し、ただし鎮守府を通して北方の監視をするものです。

一方、朝廷に帰順した蝦夷の人々が、結束して反乱を起こすことを恐れ、政府は彼らを日本全国に分散移住させます。また、政府は彼らに生活の保障をしたので、彼らは狩猟や武術を鍛錬しながら生活し、反乱が勃発したときには、兵士として国司の指示に従って戦います。869年新羅の海賊が博多を襲った時、俘囚は戦っています。

しかし、彼らは公民との間に問題を起こし、蔑視され、決して公民から歓迎されていなかったので、国は897年彼らを東北の地に送還します。

895年以後7年にわたって坂東群盗の蜂起が続きます。この時すでに俘囚は東北に帰還させていましたので、新たな鎮圧手段が必要になりました。

この辺りの史料が少なく、著者の推測が入っているということですが、これらの鎮圧にあたってのが、中央から派遣された新たな兵士たちだったといいます。

政府は新たな軍令を発布、その内容は次のようなものでした。

  • 大幅に国司に権限を移譲する
  • 専門の軍事顧問・押領使を派遣する
  • 武勇に優れたものはだれでも、国司の動員に従わなければいけない

この軍令によって坂東に駆けつけたのが、将門の祖父平高望、藤原利仁、藤原秀郷であったと筆者は推測しています。

 

下って西暦930年代、将門・純友の乱が発生しますが、この時の討伐隊は先の坂東群盗で使ったと同じ手法をとったといわれています。

ここで一つ注意点があります。国が先の坂東盗賊平定にあたった兵たちに十分な褒賞を与えなかった。その時の東国武将の不満が将門・純友の乱の遠因になったとの反省から、将門・純友の乱の平定にあたった武将に十分な褒賞が与えられました。

そしてもう一つ重要なことは、これを契機に武芸を家業とする武家が登場したということです。

武家は国家を守るという自覚のもとに武芸に励んだと著者はいっています。

下向井龍彦「武士の成長と院政」

武士の実態を知りたいと、
下向井「武士の成長と院政」(日本の歴史、講談社、2001年)を読みました。

この本は私の要望に大変わかりやすく、ダイレクトに応えてくれます

7世紀律令制度における武力から始まって、9世紀の各地の騒乱と武力による平定、
将門・純友の乱、前9年の役、後三年の役等の大規模戦闘を経験した武士団の成長、保元の乱から平治の乱を通して武士が政治の中心に躍り出た経過の「何故?」に応えてくれます。

著者は「歴史の流れ」を意識して書いたと思います。
ただしその分筆者がいうように、学会で合意されていない部分もあるようですが、それを認識したうえで読めば問題ありません。

私は理解に努めましたが、当時の歴史には人名と術語(制度の名称や職階の名称等)が沢山出てきて、一読では何が何だか混乱し十分理解していませんが、理解した範囲でご紹介します。

この本では「武士とはなにか」から入っていますが、専門的な議論は不問にして、武士を武力集団として進めます。

 

西暦7世紀、中大兄皇子が蘇我入鹿・蝦夷を死に追いやり、大化の改新(646年)を断行した時期、朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が唐を巻き込んで戦闘を繰り返していて、日本が特に百済と緊密な関係にあったことから、自国の武力を充実しなければいけない時期でもありました。

西暦663年、新羅と唐の連合軍は朝鮮半島西南に位置する百済に侵攻、日本は百済支援に乗り出しますが、新羅・唐連合軍に大敗します(「白村江の戦い」)。

これによって、日本本土には直接的被害はなかったが、国防の手を緩めることはできません。強大な軍団を組織し九州の守護にあたりました。

 

そもそも、この軍団をどのように作ったのか。
そのからくりは律令制度でした。

律令制度は646年中大兄皇子(後の天智天皇)によって大化の改新として制定されましたが、基本方針は天皇を頂点にした中央集権・官僚国家構築の根幹をなすものです。

時代の変遷がありますが、律令制の骨子はおおむね次のようなものです。

  1.  律(刑法)、令(民法その他)を規律の基本とする。
  2.  貴族の私有地も含めて、すべての土地を国有化する。
  3.  地方を統一的に統治する。
    すなわち、地方に国衙(現在の県に相当)、その下に郡、里等を置く。
    国衙の長官(国司)には中央から4年任期の高級官僚を送る(国司は後受領と呼ばれた)。
    郡や里の長官は在地の豪族が着任する。
  4.  全国民(貴族・人民)の戸籍しらべ、それに従って田を給付、
    それと同時に徴税台帳を作成し租税を徴収する
  5.  戸籍によって徴兵制を導入する

この徴兵制では、一戸当たり一人の兵を課しました。
当時の戸数は20万戸といわれていますので、当時の軍隊は約20万人になります。

当時の人口は6~7百万人と言われていますので、この数がどれ程膨大であるか。
現在の日本の人口に単純比例すると、数千万の兵力になります。とんでもない数字で、国(人民)の負担は大きなものです。

その後、唐で大規模な内乱が起こり、日本に強大な軍事力の必要性がなくなったことで、[白村江の戦い]から100年以上たった780年、やっとこの徴兵制度を廃止します。

柳成龍「懲ヒ録」3

もう一つ言いたいことがあります。

今般の安保法案に反対する人たちに対してです。

「集団的自衛権の行使は戦争に巻きこまれる危険性が増す」。
「日本は戦争をしてはいけない」。

それならどうやって自国を守るのか。

「スイスのようにすべて自力で国を守る」というのであれば、それはそれで分かります。しかし「スイスのように」とは軍事費を今の数倍にし、徴兵制を導入するということです。そこまでの覚悟をして、「スイスのように」といっているのなら議論できます。

しかし、「それも嫌」ならいったい何を考えているのか。

 

李朝は武を軽蔑し、どうでもいい儒教の論争に明け暮れていた。それは実学とは縁遠い、いわば神学論争です。

どちらが儒教の教えに沿っているかの議論、内実をいえば権力闘争の道具、何の役にも立たない机上の空論です。

それは「今の日本人の安保反対と同じだ」としか思えない。

現状では、自国を守るには自国が強くなるだけでなく、いざとなれば助けてくれる国がどれだけ多くあるかが重要です。

そのためには、お互いの信頼関係が必要です。「困ったら助けてね。君が困ったときには助けるから」という間柄でなければ、どうして他国が日本を助けるのか。

しかも今日本で議論し、しかも反対されているのは「君が困った時、しかもそれが日本に害になる場合だけ助けるよ」、という日本の勝手な言い分であり、「それでもいいよ」といってくれる国が存在する方が不思議です。「不思議」がいけなければ、特殊なケースです。この特殊がいつまでも続くと考えてはいけない。

「もちろん立場の違いや条件があるが、君が困った時には助けるから、僕が困った時には助けてね」ということ以外の協力関係はあり得ない。

安保反対を唱える人に、本当に聞きたい。

自国をどうやって守るのか。

 

[文禄・慶長の役]当時、明は他にも紛争を抱えていたので、日本と戦争したくなかった。「この戦争が明まで拡大しなければよし」と考えたのでしょう。日本が明に攻めてくれば明は本気を出すが、日本が朝鮮と戦っている間は、看過したかったのです。

朝鮮は戦争続行を主張したが、明はそれを無視して、一時講和交渉を始めたのです。