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入間田宣夫「武者の世に」2

西暦646年、中大兄皇子(天智天皇)は中臣鎌足(藤原)の力を借りて、蘇我入鹿・蝦夷親子を暗殺し、大化の改新を断行します。

最近の研究では、大化の改新では大したことはできなかったといわれているようですが、それはともかく、ここで打ち出した律令制度は、土地の国有化、天皇を頂点とする中央集中国家を目指すという方針をはっきり示すものでした。

しかし、時が過ぎるにつれ、また人口も増えるにつれ、中央集権国家は非効率をきたし、生産性が向上しません。

やむなく、土地の私有財産制を認めますが、結果中央集権の力は相対的に低下します。

朝廷は強くなりすぎた私的勢力をつぶしにかかり、豪族との軋轢が生じます。

 

天智天皇のひ孫の桓武天皇は王座につくと、奈良仏教の影響を嫌い都を京都に移し、律令制度の引き締めに力を入れます。

平安京では、かつて天智天皇を支持した藤原氏が天皇家に深くかかわります。
藤原良房は清和天皇に娘を嫁がせることにより、天皇の外戚として、朝廷政治を思いのままに動かします(摂関政治)。

やがて即位した白河天皇は藤原家(北家)との姻戚がないことを好機と捉え、摂関政治を清算します。
すなわち、自分は早々に退位し幼少の堀川天皇に天皇の座を譲りますが、実は上皇として天皇を後見するとの名目で朝廷の実権を握っていきます。院政の始まりです。1086年のことです。

目を地方に転じれば、その間将門、純友の乱や前9年の役、後三年の役等様々な騒乱が発生しています。私のイメージでは、日本中いたるところで騒乱があったのだと思います。

中国等と違って強力な絶対王権ではなかったので、朝廷による締め付けも限界があり、結局個人の土地私有を認めましたので、様々な人々や集団が私有地を開墾します。

これはアメリカの西部開拓とは違って、狭い国で勝手に土地拡張をすれば次々にトラブルが発生します。いたるところに暴力があったのでしょうから、開拓した土地をいかに守るかが大きな問題になっていきます。

律は刑法、令は民法に相当するそうで、人々は問題がおこれば書状を役所に送り、役所が仲裁なり刑罰なりの判定をくだしていたようですが、それにしても、沢山のトラブルに直面して、人々は、より力のある人に防衛してもらおうとします。

一つの方法は、強者への私有地の寄進です。寄進を受けた人はまたより強い人に寄進したことでしょう。

このようにして朝廷の他に、大きな土地・財産(荘園)をもつ勢力が出現しますが、最終的には、その多くは中央の貴族や寺社というのが実態でした。

ただし、寄進も所有権の移転はなくて、大勢力の所有という看板を付けて、外圧から逃れようとした例も沢山あったようです。

荘園の実態は色々な形があったと思われます。

重要なことは、このような動きを通して、朝廷ではなく、個人が大きな土地、権力を蓄えていったということです。

さて、騒乱を平定するには武力が必要です。律令制度での治安体制では、これらの武力騒乱を鎮圧できなくなります。

貴族から落ちこぼれた皇孫は自分たちの存在をかけて、騒乱の平定にあたり、段々と武力集団を形成していきます。

その中で、将門の乱の鎮圧に功績をあげた平貞盛の子孫は、朝廷を護る護衛部隊として認知されていきます。

天皇家の内紛から1156年保元の乱、1159年の平治の乱が発生、平家はその鎮圧に大きな役割を果たします。

もはや、貴族は武士を制御できなくなり、清盛はクーデターを起こし、武士が政治の実権を握ることになります。

清盛は朝廷内での実権の行使でしたが、平家を打倒した鎌倉源氏は、朝廷の外で武家の権力構造を構築していきます。

鎌倉幕府は、実朝暗殺があったのちは身内のトラブルを嫌い、将軍として皇族を立て、源氏を継いだ北条は執権になり、鎌倉御家人による合議制政治を運営します。

 

著者はあとがきで、
1602年キリシタン宣教師のマテオ・リッチが発した言葉を引用して次のように言っています。

中国の常識では、文を習う、すなわち学問を収めて科挙の国家試験に合格することが、男子の最高の目標であった。ところが、日本ではその正反対だというではないか。皆が武人になりたがっているそうではないか。なんという非常識、なんとう野蛮の光景であろうか。

そして、著者は「中世日本のこの負の遺産は、その後いかに克服されることになったであろうか」、「近代にいたるまでも、あるいは現代にいたるまでも払拭できないでいる」と指摘する。

しかし、私は1600年での視点に何の異議も持たないが、これを現在に普遍化することに反対する。

嘗て確かに、日本は武を重んじたであろうし、多分中国は文を重んじたのだろう。しかし、何を持って武を重んじる日本が劣っており、文を重んじる中国が優れているとするのか。何を持って日本の文化・文明が低俗で、何を持って中国のそれが優れているというのか。文を重視する中国、韓国(李朝)の腐敗・堕落を何と考えるのか。
全く納得いかない。
歴史の洞察があまりにも貧困だ。

多くの人は、ここで解説した程度の日本史はよく知っていることでしょう。
恥ずかしながら、私の実情はこの程度です。
これから特に中世の歴史を更に勉強して、自分なりに中世のイメージを作りたいと思います。
私の興味は、中世社会で地殻変動を起こしていった根本的な力は何だったのか、そしてそれが実際どのように社会を動かしたのかということです。
既に沢山の本をリストアップしています。2ケ月もすれば、相当の知識を有していると期待しています。

講談社・日本の歴史シリーズ「武士の成長と院政」は、私の興味にダイレクト応えてくれそうです。

次にはこの本を読みたいと思います。

入間田宣夫「武者の世に」

「鳴くよ鶯平安京」(794年)、
「いい国作ろう鎌倉幕府」(1192年)、のように覚えた日本史は無味乾燥です。

645年の「大化の改新」から平安京造営まで150年、
平安京遷都から将門の乱まで150年、
鎌倉幕府設立まで約150年後のことです。

今から、150年前のことを考えてみてください。
150年前といえば、ペリーが来航した時代、遠い遠い昔のことです。
明治から現在まで私たちの知らない沢山のことがあったのです。

もちろん、中世と現代の時間の流れは、そのスピードに違いがありますが、
それにしても、平安遷都から将門の乱までも、
将門の乱から鎌倉幕府設立までも沢山の事件があり、沢山の変革がありました。

人々は抑圧や貧困のなかで怒り、悲しみ、苦しみ、戦い、強者に媚び懸命に生きてきたのに、
あたかも何もなかったように、
事件の発生年の暗記だけの日本史は何か違うという気がします。

そうではなく歴史の中身を知れば、
歴史の必然を理解でき、
より一層日本の歴史をまた日本という国を深く知るとこができると思います。

日本史で、今私が一番興味があるのは武士の本質についてです。
「武士は一体何者なのか」、「結局暴力団と変わらないのではないか」、
「その当時の庶民・農民はどのように生きていたのか」ということです。

その答えを期待して、入間田宣夫「武者の世に」(日本の歴史7 集英社、1991年)を読みました。

結論からいえば、何故か読みにくく、面白くないのです。

もちろん私の感想ですから、他の人は別の評を出しすのに異論はありません。
読者の評価は、読者のその本に対する期待や扱っている問題への知識のレベルにより異なるでしょう。
私の興味や知識レベルが原因で、この本は「面白くない」のでしょう。

歴史上の事件をなぞっているし、ふんだんに史料も提示していますが、
何か私には通り一遍のような気がします。

これは高校歴史教科書を詳しくしたようなものです。

ただし、私が教わった半世紀も前の歴史と今ではずいぶん変わっているようで、
色々な新事実が発見されて、
昔の「大化の改新」や「武家の出現」について、
今は異なる学説が主流になっているようです。

さて、この本は、西暦930年代の将門の乱から始まって、元寇の襲撃・鎌倉幕府の対応で終わります。
「武者」に視点をあてているのは分かりますが、
当時の文化・宗教にも言及しているのに対して、
朝廷の動きはよくわかりません。

以下、私が理解した限りで本書「武士の世に」を解説します。