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NPO 向けホームページ

今月はNPOの手伝いで手いっぱいでした。

 

私は子供たちの支援をしたいと思って、近所のNPOに顔を出したのですが、ここのホームページが酷い(私の主観です)ので、ついでにホームページの改定を申し入れました。

ところがちょうど広報誌の発行が迫っていて、
担当者が辞めたとかで、急きょ表裏2ページの広報誌のレイアウトをすることになりました。

印刷業者側の担当デザイナーは、イラストレーターの最新版で編集しているのですが、私が持っているのは10年前のイラストレーター7で、これと互換性がありません。それにイラストレーターは昔触ったきりで、もう忘れてしまったので、私は、最近もマニュアル作成で使っていたInDesingを使いました。

InDesingは基本的に書籍の編集用で、
凝ったレイアウト画面を作成する道具ではありません(大抵のことはできますが)。

一方チラシ(のような広報新聞)では、レイアウトを色々工夫するので、イラストレーターが向いているのかもしれません。

InDesingとイラストレーターでは少しギャップがあるのですが、私はInDesingで基本デザインを決めて、デザイナーにはPDFでレイアウトを送付し、デザイナーはイラストレーターで最終原稿を作る形で作業を進めました(イラストレーターとInDesingではデータ互換がありません)。

 

さて、次に手をつけたのがホームページの試作です。

私が持っているホームページ作成用ツールはDreamWerver CS5です。

以前DreamWerver MXは少し使いましたが、
CS5はオークションで買って殆ど使わないままでした。

今回CS5を使い、「あれ!」と思うことが多々ありました。

昔は、例えば文字のフォントや色を文書入力画面で直接設定していたのですが、
今はこのようなやり方はしません。原則これらの設定はCSSファイルで定義して、HTMLファイルでその設定を使います。ですから、昔あった文字の色や大きさを変えるコマンドが、DreamWerverCS5にはありません。昔の人間は、慣れないといけません。

プルダウンメニューのコードをWEBから探し出して付けたり、PhotoShopでそれなりに恰好いいタイトルロゴを作り、HPの構築を進めましたが、そこまできて「そもそも」を考えました。

「手間暇かけて作ってみたが、今後どのように運営するのか」

私が、いくら凝って立派なHPを作っても、「いったいだれがこれからやっていくの?」という問題です。

HTMLファイルを一から書くHPでは、これからも私が運営していかなければいけません。それはNPOの主旨とも私の主旨とも違います。

みんなで作り、みんなで運営するHPにしなければいけません。もちろんコード(プログラム)を一行でも書いてはいけないのです。

色々調べて、WordPressがいいらしいと判断しました。しかも、WordPress専用のレンタルサーバーがあります。

早速、無料のサーバーを借りて試作しました。
しかしある程度やってみて、後で引っ越しするのも面倒なので、ドメインも取得しました。

キャンペーン中でorgが500円程度だったし、
NPOの結論を待っていたのでは、いつのことになるか分かりません。
勝手に取得したドメインでHPを試作しています。(NPOで気に入らなければ、私の練習用にするから構いません)

さて、無料レンタルサーバーで、ワンクリックでWordPressをインストール。
あとは、コンテンツを入力、メニューを設定し、テーマを決めれば、ホームページは完成です(それほど単純ではありませんが)。

WordPressでデザインを決めるのは、テーマといわれるもので、これは有料・無料ともに沢山ネットからダウンロードできます。テーマによっては、色々なことがうまくいったりいかなかったりしますので、きちんとテストしなければいけません。

今回、柔軟性があると思われたので、Customizrを使っています。
当サイトで必要とする機能はCustomizrで達成できそうです。

WordPressの特にヘッダーデザインは、通常サイト全体どのページも一つのデザインしか使えないのですが、Customizrでは、フロントページのデザインの変更できます。これが採用の大きんな理由です。

Customizr-Pro(約5000円)という有料のバージョンがあるので、更に期待して購入しましたが、今のところその必要はなかったかなと思っています。

 

今回の経験で、専門の管理者を持たないサイトでは、WordPressが最適だと思います。

理由は、
まず、デザインは色々探せば、多分気に入ったものが見つかります。
小さなソフト=プラグインが豊富で、スケジュール管理、グーグルマップ、
写真ギャラリー、掲示板等が簡単に設定でき、また簡単に取り外しできます。

もう一つとてもいいことは、インターネットにつながったPC(Ms Word)から、
記事をサイトにアップできることです。

NPOのメンバーの皆さんが、下書きをサイトにアップし、管理者(当面私)が、体裁や記事カテゴリーをチェックして正式に公開すればいいのです。

メンバーの皆さんの参加意識の向上に寄与するし、管理者の負担が少なくなります。

管理者の負担が少ないということは、今後、興味ある人が少し勉強すれば管理担当になれるということです。

これもNPOにとって重要なことです。

 

私はこれまで、色々なCMS、JoomlaやDrupalやConcrete等勉強しましたが、特別複雑なサイトでない限り、WordPressが一番いいのではないかなと思います。

WordPress専用のレンタルサーバーも月額1000円程度ですから、一寸したサイトには、申し分ないように思います。

 

2015年12月30日追記。

本年はこれが最後のブログです。

途切れ途切れの投稿ですが、毎日沢山の方が訪問してくださいます。

悪意ある訪問者がいるので、コメントが動作しないようにしています。

もしどうしてもいいたいことがある方は、このサイトのどこかに、メール送信のページがありますので、そのメールを使って下さい。私に届きます。

NPOの仕事を切り上げて、中断した以前の状態に戻りたいと思います。

アマゾンで読みたい本を見つけては買ったので、もはや来年いっぱいでも読み切れない本が、私の本棚からはみ出さんばかりになっています。(ちなみに、アマゾンで数十円、数百円の中古本も結構キレイです。ただし送料250円かかります)

来年もよろしく。
そして来年がいい年になりますように。
皆さまのご多幸をお祈りいたします。

NPO

このところ、ブログが進まなくて申し訳ありません。

次世代を担う子供の役に立ちたいという気持ちをずっと持っていて、
あちこちのボランティアに顔を出したりしていますが、
結局、地域の町内会のようなNPOでお手伝いを始めました。

現在そちらに手いっぱい取られています。
早く片付けて、またブログを続けます。

 

少し前のことですが、「夜間中学校」の支援ボランティアがあったので、
私にできるかどうか見学させてもらいました。

教室が始まる前に、教室を主宰している、いかにも善良そうな女性から会の主旨をお聞きして、
生徒たちが三々五々集まってきたところで、
一人の中国人の男子高校生に日本語の勉強をサポートしてほしいといわれました。

このようなことは初めてのことで、戸惑いましたが、
彼の持ってきた日本語の教科書を開いて、勉強のサポートをしようとしましたが、彼は全く乗り気になりません。

「何に興味があるの?」と私が聞きますと、現代史だといいます。
何か知っているか聞きますと、何も知らないといいます。
「それじゃ」といって、「こういう話でいいの」と何度も彼に念を押しながら、日本の現代史の概説を始めました。

日本の江戸時代ペリーが来航し、
それを期に、日本は天皇を頂点にした明治時代に変革した。

やがて日清戦争が発生したが、
武士の国の日本は戦争に強くこの戦争に勝利し、
清からの賠償金をもとに富国強兵に力をいれた。

やがて南下してくるロシアと戦争になり日本はこの戦争でも勝利したが、
その後、日本軍は満州のボスであった張作霖を殺害した。
張作霖の殺害は、コミンテルンの仕業との説もある。

どちらにしても、それを期に日本は全面的に戦争に突き進んだ、等々。
ただし、「歴史は君自身が勉強しなければいけない」
というようなことを話しました。

この辺まで話したところで、
担当の女性が私を教室の外に連れ出し、
「そのよな政治的な話はやめてください」と私を制止しました。

多分向うでもそう思ったでしょうが、
「この教室は私に向いていない」とこの仕事を辞退しました。

 

先日、久しぶりに学生時代の同窓生と一杯やりました。

彼は退職後、季節に応じて雪国の奥さんの実家と東京の自宅を往復し、
趣味の油絵を書いたり、花の栽培をしたりしているそうです。

彼は魚がおいしいという居酒屋をインターネットで調べてきて、
予約が必要な小さな居酒屋を探して、
「7時以降の予約が入っています」という条件で酒盛りを始めました。

彼は「歳を取ったら、うまいものを食わなくて何の楽しみがあるか」のようなことをいいます。
私は雑食で、普通以上のものなら何でもいいという人間だから、
雑食食いは低級なように言われて、内心軽いショックを受けました。

私は、政治の話をしました。
彼は、「そんなことは何の役に立つのか」と真顔でいいます。

韓国や西洋が日本を訳もなく非難をしたとき、私は可能な限り反論するといいますと、彼はそんなことは意味はないと、罵りにも似た言葉を投げつけます。

 

今までそれほどとは思わなかったのだが、
この人とは「こんなにも違う人間だったのか」と、
唖然というのか呆然というのか、
酔いは完全に消滅して、早々に酒宴を終わりにして帰途につきましたが、
これほどまでに価値観の違う人間とは、
この先会うこともないだろうと漠然を感じました。

 

ここで挙げた二つの話は、似ているところと似ていないところがあります。
似ているところは、「問題を起こしたくない。問題が起こることにかかわりたくない」という心理が強く、
似ていないところは、一方が困っている人に力を貸したいという気持ちを持っているのに対して、
他方はそもそも他人とは関係ない、趣味を大切にし、自分は美味いものを食うことが一番大切だと思いっている点です。

 

個人の生き方として彼らを批判しませんが、
日本人はみんなこんなに平和ボケしていいのだろうかと、
空虚さを覚えます。

吉川英治「新・平家物語」

吉川英治「新・平家物語」が長いので、辟易しながら現在三分の一ほど読みました。

保元平治の乱、鹿ケ谷の陰謀の話が終わって、ばらばらになった源氏が義経を中心に集まってきたところです。

私が知りたいのは歴史的事実、ないし「平家物語」を知りたいのですが、
この本には著者の創作が大分入っているらしいので、せめて歴史的事実だけは「外さないでね」という希望を持つだけです。

水原一「平家物語」(新潮社、1979) を図書館で借りて、目次だけ比べてみましたが、本物の平家物語と本書では、目次の構成は大分違います。

さて、これまで読んだ部分での感想です。

全体的に、朝廷での政治的な駆け引きや動きについての、記述はあまりありません。
天皇家や藤原家や武家の人たちがどのように動いたかという話、そのほかに多分著者の創作だろうと思う人物の動きや物語が多くあります。

例えば、常磐御前についていた召使や、
崇徳天皇の井戸(泉)の守をしていた人物や、
清盛に取り入った豪商の話、
武蔵坊弁慶やその母親の話は、
平家物語そのものにあるのでしょうか、あるいは吉川英治の創作なのでしょうか。

それにしても、これらの脱線話が長々とありますので、私は興味がなくて、「どうでもいいのだよ」といいたくなります。

保元の乱も平治の乱も戦いそのもには、数日で終わっています。

「へー」と思ったのは、これらの争いを庶民は物陰にかくれた見ていたということです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争の日本海海戦で、外国武官が確か旗艦(三笠)に乗船して、戦況をみていたという話が出てきますが、そのことを思い出しました。

母親・常磐御前から引き離され鞍馬寺で生活していた牛若丸が、出家しなければいけない年齢を前に、鞍馬を抜け出し、つてをたよって、平泉まで苦難の旅をする話、その途中で自分で改名するにあたって、源氏の開祖・経基の一字「経」と源氏ゆかりの「義」の字をとって義経としますが、小説では本当は八男であるにもかかわらず、先祖のヒーロー八幡太郎義家に憚って、九郎にして源九郎判官義経と名乗ったということです。

これまで読んだ歴史書で、「保元平治の乱後、源氏は京から一掃されたが、地方では大きな勢力を温存していた」と勝手に想像していましたが、本書では、関東から平泉に至るまで、平家の監視が厳しく、義経が平泉に旅するにも大変な危険を身近にしていたし、まして、その後京に潜伏するにも、命がけだったと描かれています。

史料では、武蔵坊弁慶のついてはほんの数行記述があるだけのようですが、本書では、弁慶の話は結構多くのページで語られています。

あと三分の二残っていますが、できるでスピードを上げて完読したいと思います。

元木泰雄「保元・平治の乱」

中世の武士の実態を知りたいと、二冊の歴史本、入間田宣夫「武者の世に」と下向井龍彦「武士の成長と院政」を読みました。

しかし、この二つの本は微妙に違います。

日本史の見方は年々違ってきているらしいので、できるだけ新しい本を読んでみたいと思い、更に、元木泰雄「保元・平治の乱」(角川学芸出版 2012年)を読みました。

この本は文庫本でページ数も多くないのですが、保元・平治の乱に焦点を絞っていますので、事件の顛末については、非常に詳しく書いています。

鳥羽が、嫡男崇徳を忌み嫌ったことで、不幸が始まります。
鳥羽は、崇徳ではなく、美福門院が生んだ次男近衛を天皇にし、近衛が若くて逝去すると、さらに崇徳と同じ母が生んだ弟の後鳥羽を、天皇に立てます。

鳥羽、鳥羽亡きあとはその近臣から苛め抜かれた崇徳は、古文に全く素養のない私でさえ知っている和歌、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすえはあはんとぞ思ふ」の作者で、当時、巷では教養人として人望が篤かったと知りました。

筆者は、保元平治の乱の本質は、院政政治が内包する危険性が噴出したものだといいます。

院政は、現天皇が幼少の嫡男(長男)に天皇位を譲り、自分は上皇になって実質的絶対的権力を握る、そして上皇が死去すると、現天皇が退位しその嫡男に天皇を譲るという形で、直系天皇の態勢を維持していくという方程式ですが、鳥羽が嫡男崇徳にその役割を譲渡せず、更に次の天皇が逝去することでこの方程式が崩壊し、摂関家が調整役の機能を失ったとき、これに武士が介入し、収拾のつかない武力闘争になったと著者はいいます。

保元の乱は、王家・摂関家・武士の三つの勢力が、それぞれ二手に分かれて、骨肉の戦いをした、しかも武士の仁義で戦ったことにより、王家および摂関家の力が決定的に衰亡します。
なぜなら、王家も摂関家も武士も、この戦いで敗れた側は、殺害されたり配流されたり、半数が抹殺されたのです。

更にそれに続く平治の乱では、源氏が中央歴史から抹殺されます。

 

これらの本を読んで思うことは、歴史の見方は一通りではないということです。

考えてみると、目の前の事件でも立場によってその見方が違うのだから、千年も前の話は、議論があって当然かと思います。

入間田宣夫は、安倍・清原は京都から下向した人たちだといっているし、下向井龍彦は、いや蝦夷(えみし)の一族だといっています。

また、下向井は、「源氏は平忠常の乱、前九年の役、後三年の役の平定で中心的な役割を果たしが、朝廷(白河)からは警戒されて、義親、為朝、義朝の三代にわたって冷遇された」といっていますが、元木は、結果としてはその通りだが、それほど単純な話ではないようにいっています。

日本の歴史は誰がオーソライズしたのでしょうか。その信憑性はどの程度なのでしょうか。

古代史は、「日本書紀」とか「続日本書紀」とかをベースにしているのでしょう。

中世では、例えば保元平治の乱については、「兵範記」、「愚管抄」、「平治物語」、「平家物語」等結構沢山あるようですが、それが即信頼できるかと言えば、話はまた違います。

国史は当然為政者の都合のいいように書いているでしょうし、個人の日記も立場によって、悪意はないにしても、偏った話になっているでしょう。また、物語はあることないことが書かれているでしょう。

ですから、これらの史料を100%信じることはできないと筆者も言っています。

このように考えると、私たちが学んできた歴史をどの程度信頼したらいいのか分かりませんが、逆に本当の歴史の面白さは、それを解き明かす作業にあるのかもしれません。

私はそこまでの興味はありませんが、もう少し納得いくイメージを描ければと思います。

今、吉川英治の「新・平家物語」を読んでいます。
歴史を手っ取り早く勉強するには、まず歴史小説を読んで、その後で歴史書で整理するのが一番効率がいいかなと思います。(今回は逆になっています)

ただし、「新・平家物語」は文庫本では16冊あります。
歴史を勉強するというには長すぎます。

それとこれは平家物語原本から大分違うようだから、「平家物語」を読んだという気分にならないのが残念です。

 

どうして中世の武士に興味を持ったのか。自問しました。

結局日本人とは何か。自分なりに再検討したいと思います。
自分の固定観念をすべて取り払って、武の原点はどうだったのか、日本人はどのように成長してきたのか、考えてみたいと思います。

武と天皇、仏教や神道や儒教。

これらが縦糸になり横糸になり、日本人の精神構造を作り上げたと仮説をたて、暫く勉強したいと思います。

下向井龍彦「武士の成長と院政」5

保元の乱

後三条 - 白河 - 堀川 - 鳥羽 + 崇徳
                  + 後白河 + 二条
                        + 高倉
                        + 以仁王
                  + 近衛

1129年、白河上皇が逝去すると、鳥羽天皇は退位し上皇になり、長男崇徳を天皇にして院政をしきますが、鳥羽は何かにつけ崇徳をないがしろにします。

鳥羽に体仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽は崇徳天皇に退位を迫り、体仁を天皇(近衛天皇)にします。更に、近衛天皇が17歳で死去すると、またしても崇徳ではなく後白河を新天皇にします。

誰が見ても、異常な扱いです。
当時「崇徳は白河上皇の子だ」という噂がたったということで、そうでもなければ、理解できません。

これに藤原氏が絡みます。
鳥羽上皇のブレーンとして、藤原忠実・頼長親子、更に身分の低い出自の信西(しんぜい)等がついていました。

やがて野心をもった信西は、秀才と評判の高い頼長を追い落とし、鳥羽近臣のリーダーになります。

1156年鳥羽院が死去しますが、崇徳は父の臨終にも更に葬儀にも参加できません。
崇徳は後白河の近臣に邪魔者扱いされます。

崇徳の怒りはどれ程だったでしょうか。
信西に追い落とされた頼長は崇徳に接近します。

信西は、崇徳と頼長がクーデターを計画しているという風聞を根拠に頼長を追い詰めます。後白河・信西側には、為義の息子義朝、平清盛等が、崇徳・頼長側には、為義、息子の頼腎が支援に駆けつけます。為義には政治的考えはなかったが、崇徳に懇願されたので初めて加勢に加わったと筆者は考えています。

後白河・公卿たちは、崇徳を威嚇すれば十分と考えていましたが、信西と義朝は攻撃を強く主張し、1156年7月一方的に崇徳を攻撃、敗退した崇徳を流罪、清盛は叔父忠正ら5人を、義朝は父為義ら兄弟5人を斬首します。

これを保元の乱といいます。

この乱では二つの大きな意味があります。
一つは歴史上初めて、武士が天皇を討ったということ、もう一つは仏教の教えを守って、都では300年以上も死罪がなかったものを、信西の主張で武士の仁義を取り入れ同族での殺害を命じたということです。

乱の後、白河は二条天皇に譲位、親子で争った摂関家の力は大幅に下落、政権のトップの座は信西が握ります。

平治の乱

しかし、因果応報。

それから3年後、今度は後白河院のブレーンの間で争いが始まります。

後白河院は藤原信頼を寵愛します。
しかし多くの人は信頼を無能と見ていて、信西は信頼を排斥しようとします。

危機感をもった信頼は、清盛に対抗意識を燃やす義朝を引き込み、清盛が熊野詣で京を留守にした隙に、クーデターを起こし信西逮捕に向かいます。

信西は逃げ延びましたが、これまでと自害します。

清盛は熊野から引き返し本拠・六波羅に帰り、後白河院・二条天皇を策をもって信頼から奪取、「朝敵になりたくなければ、六波羅に集まれ」と号令をかけると多くの公家・武将が清盛に応じました。

ただちに「信頼・義朝追討宣旨」が出され、信頼・義朝とも斬首されます。平治の乱です。

このとき、義朝の3男頼朝も捕らえられましたが、清盛の継母の助命嘆願によって、斬首を免れ伊豆に流されます。義朝の妾常磐御前は、3人の子供と一緒に捕らえられ、清盛の側室になります。3人の子供の一人が義経です。

後白河院と清盛

平治の乱によって、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、
武家政権樹立の礎を築きます。

43歳で武士としては初めて正三位に、更には従一位太政大臣に上り詰めます。

1164年二条天皇は退位し、六条天皇を擁立、直後に崩御します。後白河は、清盛の縁続き平慈子との間に生まれた憲仁を皇太子(高倉天皇)にします。そして1172年、清盛は娘・徳子を高倉天皇に嫁がせます。

内政的にはいくつかの紛争の火種がありました。一つは、荘園問題で延暦寺と院近臣との争いです。

それらをめぐって、後白河院と清盛は反目するようになります。

1177年、院・院近臣が、平氏打倒のクーデターを計画していると密告があり、清盛によって首謀者が逮捕、斬殺あるいは配流されます(鹿ケ谷の陰謀)。

ただし、これは清盛による反対派へ見せしめのための陰謀だろうとしています。

さらに1179年、清盛は後白河院を幽閉して、強権で高倉天皇を退位させ、清盛の娘徳子が生んだ3歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政を始めます。

天皇家の人事権を侵すことは許されざることで、公卿・寺社からの一斉反発を招きます。

これに追い打ちをかけたのは、譲位後最初の参拝は加茂社か石清水社のどちらかという慣例を破って、高倉院が平氏の氏神厳島神社に行幸する決定をしたことで、不倶戴天の敵、園城寺と延暦寺までも平氏打倒の手を組みます。

反平家の勢力は、後白河の第三子・以仁(もちひと)親王のもとに集まって、挙兵の準備を始めますが、これを察知した清盛はその鎮圧にかかり、逃亡先で以仁王は死去します。

しかし、生前発した平家打倒の以仁王の檄文が諸国源氏に届き、頼朝は伊豆でその檄文をかざして決起します。それは、義親、為朝、義朝と3代にわたって冷遇された鬱憤払しでもありました。

血の結束の源氏武士団と、利害関係で結ばれた平家では戦いになりません。

そんな中1181年、清盛は死去します。

 

「サムライ・ジャパン」という言葉があります。

私は、常々日本人はサムライの何を自慢しているのか、サムライの実態を知ったうえで「サムライ・ジャパン」と粋がっているのか、と冷めた感情をもっていました。

江戸時代のサムライは映画やテレビに出てきますから、なんとなくイメージできますが(正しいかどうかは別にして)、中世のサムライの実態は何も知りません。

昔、歴史で学んだ、そしてぼんやり思っていた中世の武士像は、「百姓が精をだして耕作地を広げ、それを守るために武装した。彼らは誠実・実直・質実剛健」のようなものですが、どうやらそれは違うようです。

今私が持っているイメージは殺生を生業とする「暴力団」、違うとすればどう違うのかはっきり分かりません。

また武士の起源は、「荘園が増大する中で、地方で紛争が多発した。それを鎮圧するために、中央の武士が派遣され、郡司や郷司の地位につき、やがて彼らが土着した」、ボトムアップではなくトップダウンだと筆者はいいます。

私の関心は、武士の発生のメカニズムより、中世武士の実態を知りたかったので、
今回二冊の歴史書を読んで、ある程度そのイメージを持つことができました。

でも何かまだピントが合いません。機会があればもっと勉強したいと思います。